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東京裁判で、日本側弁護士は歴史の真相をよく分かっていた。
南京大虐殺発生当時、日本陸軍の残忍さはすでに世界中の知るところとなっていたが、大多数の日本人は、1945年の「東京裁判」で初めてその事実を知った。 通称「東京裁判」とは、極東国際軍事裁判のことで、1946年5月3日に開廷され、その2年後、東条英機以下25名の被告全員が有罪判決を受け、そのうち7名が絞首刑となった。 当時、日本の新聞は全部で4面しかなく、連合国最高司令官総司令部(GHQ)の指示により、ほぼ毎日その半分が東京裁判の報道に当てられていた。 大多数の日本人は、その裁判を通して天皇制の下に築かれた軍人集団を中心とし、財閥、官僚、メディア、そして右翼が一緒になって動かしてきた戦争の一部始終を知ることとなった。 東京裁判で最も注目が集まったのが南京大虐殺だった。 事件発生後間もなく中国政府が公表した情報は、日本の第六師団が23万人、十六師団が14万人、その他の日本軍部隊が6万人、合計43万人の中国人を殺害したというものだった。 中国政府は東京裁判までこれを主張し続けた。 東京裁判では、一般人の傍聴が許可されていた。 毎週の傍聴者数は、日本人1500名と同盟国の人々が450名ほどだったが、法廷で南京大虐殺の審議が始まると、日本人の傍聴者数は2000人以上に増えた。ここからもその関心度の大きさが伺える。 日本人の立場から言えば、やはり検察側の起訴内容を覆すことが期待されたが、実際には多くの日本人を失望させる結果となった。 被告の松井石根大将も弁護士の伊藤清氏も、弁護と呼べる弁護は、ほとんどできなかったからだ。 弁護側が提出した物証は、当時の「国際安全地区委員会」から日本軍に宛てた、難民地区に対し砲撃しなかったことに対する感謝状、そして難民地区に食料を運んでくれた日本兵に対する個人的な贈り物だった。だが、これらの物証は、検察側の大量の証人と証言の前では、あまりにも無力なものだった。 弁護側が積極的に弁護を行わなかったのは、弁護士の中に歴史の真相をよく知っていた者がいたからである。 島田繁太郎の弁護士を担当した瀧川政次郎氏は、当時北京で南京大虐殺について耳にし、1938年南京を訪れた際、人力車に乗って市内を回った。発生からすでに半年が経っていたものの、南京市内にはまだ民家の焼け跡が散在し、車夫によれば、それらはみな日本軍に焼かれたもので、更には、南京市の女性たちもそのほとんどが性的暴行を受けたということだった。 そのため弁護士達は、日本軍の暴行に対する弁護を諦め、代わりに当時の方面軍最高指揮官だった松井石根大将が部下の行為に対し責任を負うべきかどうか、そしてそれはどの程度の責任かという点に焦点を絞る方法をとった。 結果、松井石根は東京軍事法廷で死刑の判決を受けた。 |
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