|
以下は落合氏、斉藤氏(今のところ斉藤氏の文章である。これには致命的なミスがある。その根拠が吉薗資料にしかないということである。佐伯は米子以外に当時は眼に入らなかったのである。純粋な青年について詐欺師たちは物語をつくる。歌舞伎町がどこにあろうとなかろうと、もともと資料がいい加減なもので一笑に付されるだけである。どちらが正しいかといえば小林頼子に軍配があがるだろう。
多くの矛盾を語らずになにか有利と思えば、後出しじゃんけんのように大きな顔をしてまことしやかに人を食う。
彼らは、もともと岸和田事件と同じように、贋作でもなんでも金になるものには鼻が利くようだ。
落合氏はテレビで佐伯祐三贋作事件を知る。そして張本人吉薗明子氏が落合事務所を訪れる。
このへんのことはなにも書いてない。
諸氏に考えていただきたいのだが、なぜ明子氏が落合氏のところに来たか?どちらが連絡したか?
詐欺師の上をゆく人間のすることはすごい。明子氏も大金を使い有名な評論家を騙しまくったが、氏はその上をゆく。真実の報道を使命とする時事通信社を丸め込み、嘘と史実を巧妙に織り交ぜ、多くの人間を煙に巻いたのである。
氏は明子氏からどのくらいの大金を得たのであろうか。クレーの絵も売ったそうである。これがほんとうであるならちゃんと税務申告してあるはずである。
中島氏に対する裁判で佐伯祐三に関する絵は贋作と結審された。この裁判は何年もかかっている。この間、贋作は何作売れたのであろうか。氏は本物であるから売れたという。その大金は申告されているはずである。佐伯祐三、米子、外山、芥川龍之介、大谷等多くがスパイとされている。佐伯祐三を愛する諸氏、天皇家を敬愛する人々も訴えの権利がある。
裁判が行われたとき、それらも明らかにされることになるだろう。
斎藤氏のHPについて下記に示すが、これがなんの証拠になるのだろうか。歌舞伎町と本物の佐伯祐三との関係はなんら示されてはしない。
周蔵が佐伯祐三の金銭的、精神的援助を受けたという証拠はなにもないし、裁判でも完全に否定されたのである。
女々しく裁判官の悪口を書く、それなら控訴すべきであったはずだ。
*小林報告書は以下のように書きます。(27項)
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
大正11年1月12日の記述に「〔佐伯が〕歌舞伎町ヲ歩ヒテ女ニ袖ヲ引ヒテモライ、サソイニノラズニ戻ル」という件がある。ここでいう歌舞伎町とは、文脈からして、新宿の歌舞伎町と見て間違いない。しかし、当該の地域が歌舞伎町と命名されたのは、何と昭和23年4月1日のことであり、大正11年からは遥に隔たること26年後のことである。つまり、『周蔵日誌』は、いかにも出来事の進行とともに書かれた日誌を装っているが、実際には、昭和23年以降のある時点に綴られたものである可能性が高いということになる。 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− これは、落合氏が反論しているように全くおかしな理論構築です。大正11年の記述に「新宿の歌舞伎町」という記述が出てきたのですから、
これは昭和23年にできた歌舞伎町ではない(当時は豊多摩群大久保町大字東大久保と呼ばれていた)
じゃあ当時、歌舞伎町と呼ばれていたのはどこだろう? と考えるのが普通ではないでしょうか? 落合氏は、これは大国座歌舞伎横町の事だと指摘しています。 大国座は、HPで調べてみると新宿松竹座の前身だった事が分かりました。ここは、大正5年に開場しました。理性寺という寺の跡地にできたもので、境内に大黒堂があったため、当初は大国座と名前がついていたそうです。そして、 大国座 → 山手劇場 → 新宿松竹座 → 新宿歌舞伎座 → 新宿シネマ → 新宿大劇場 → 新宿松竹座
と次々と名前を変えたそうです。この周辺にあった私娼街の事を指していると考えるのが妥当と思いますが、小林氏は何故か、現在の歌舞伎町を指していると『思い込んで』います。
資料を読む時に先入観を持つとこうなるという良い例ではないでしょうか? |
吉薗明子
[ リスト ]




