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佐伯祐三 衝撃の真実 絵画 巴里 パリ 哀愁の巴里

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私の趣味

医師会に入って本当に良かった。まずこのことから書いて行こう。
私は平成2年に小平の地にて42歳で眼科を開業。同時に医師会に入会した。2,3年して小平医師会の理事会の理事になってくれという話があった。
開業すると昔のように仕事仲間と飲みに行く機会もなくなる。一人孤独な日々を送っていたが理事会に参加することによって多くの仲間の一員としてもらえた。考えてみればそれまで気ごころの知れた友人は高校、大学、同じ時期にいた医局の仲間だけであった。
医師会に入っていなければ今のような楽しい多くの仲間と出会うことはなかっただろう。医師会の理事をして毎月顔を合わせ、理事会のあと食事会などの交流が楽しみになってくる。小平医師会研修旅行も楽しみの一つ、気の合った仲間との一泊旅行は最高である。その2、3を紹介してみよう。忠臣蔵の旅、バスの中で忠臣蔵の映画を見ながら吉良邸や泉岳寺を訪ねるのだが、討ち入りの場面で感極まって涙をぬぐう医師会員。谷根千旅行では夏目漱石邸跡、森鴎外記念館、日本医大など坂道を歩きながらの歴史探索。横浜ではなんとマッカーサールームに入ることができた。日本の歴史の一端に触れる旅ができるのである。
現在私は北多摩医師会のカラオケ部、美術部、写真部に所属している。最初のきっかけは「北多摩医師会」美術展に出品することからであった。人前に出品する以上いい絵を出したい。この頃から私の美術への情熱が燃え始めた。以下少々個人的な偏りのある話になるがお許しいただきたい。
子供のころ親がデッサン教室に通わせてくれたためか、絵を描くことが好きだった。医学生の頃、美術部に入り油絵を始めた。医師になると忙しくて絵を描くことなどできない。勤務医生活の後開業、ようやく絵が描けると思ったが、スペインに行って、ベラスケスの描いた『王女マルガリータ』を見てしまった。その見事さに絵を描く気をなくしてしまった。とてもそのような絵は描けないと思ったのだ。ところがあるとき佐伯祐三の画集を手に取り絵の本質を見たような気がしたのである。佐伯祐三の『人形』である。誰にも描けそうな絵だが魅力がある。これなら自分にだって描けると思えた。
「絵は個性、下手でもよい、その人が真剣に取り組めばいい」との佐伯の言葉。再び絵を描く気になった。
絵は自分探しの旅みたいなものである。自分しか描けない絵を探す旅みたいなものだ。巨匠と言われる人々はその人が描いたとすぐわかる。そういう絵を求めていくのが絵の世界だろう。絵画は医学と似ているところがある。先人の研究を調べ、その先を読み解いていくのである。
いつからか私は佐伯祐三研究にのめりこんでいった。病蹟学会の会員になったのも佐伯研究に向かわせた動機になっている。彼は病蹟学会でも何度か取り上げられ、彼が精神病であったという論文が存在する。はたして佐伯祐三の死因は精神病がもとになっているのか?
彼の病と心身の軌跡をたどり、その人生と絵画作品との関係を知るため何度もパリを旅した。フランスに彼の足跡をたどるのも楽しみの一つとなった。多くの佐伯関連の書物を読み漁り、その絵画人生と病について考察し「「佐伯祐三・哀愁の巴里』(早稲田出版刊)という本を2012年(平成24年)出版し、佐伯祐三の絵の秘密、その病はいかなるものであったかにも触れたが、私の結論ではその創造に関わるような精神病理が佐伯に存在するということ認められなかった。
また「佐伯祐三贋作事件」に深くかかわることとなった。ある時、三十数点の佐伯作品なるものが武生市に寄贈されようとした。この過程で、某氏による、佐伯祐三は国家のスパイであったとか、佐伯作品は妻米子の加筆があったとか、荒唐無稽と思えるような内容であるが、真しやかなレトリックを駆使した本が時事通信社から刊行されるなど、本邦マスコミや美術界を巻き込む真贋騒動に発展する。
私は舞台となった武生市の資料、新聞記事、裁判資料などを徹底的に調べることとなり、「贋作派」の立場で論陣を張り、件の通信社についても、その社会的責任を問うべく行動したが、この種の画家や芸術を貶めるようなものはとても認められないという思いであった。
 
さて、北多摩医師会の美術展に出品するようになった頃、同じ小平医師会に所属する眼科の松木先生から後述する「日本医家芸術クラブ」への入会のお誘いがあった。それで銀座のギャラリーに出品するようになった。このクラブで大村先生や玉井先生など偉大な先生方とお話しできたのは幸いであった。現在もこの美術展で多くの先生方と交流会を楽しんでいる。都内で開業されている先生方は精力的に活動されここ数年を見ても銀座、練馬、新宿などで個展を開催されている。
「日本医家芸術クラブ」とは医師、歯科医師、薬剤師等医療関係者に係る全国的文化サークルである。その機関誌として「医家芸術」が昭和32年(1957年)当時の日本医師会会長武見太郎氏と梅沢「医事新報」社長などの協力により式場隆三郎によって創刊された。式場氏は山下清を世に出し、ゴッホを日本に紹介した人でもある。
同創刊号では「医家芸術クラブ」の規約が載せられている。第一条において、その本部を神田駿河台2−5の「医師会館」内に置くとし、第二条でその入会資格を日本医師会の会員と明記しており、文字通り「日本医師会文化部」として発足している。昭和59年まで日本医師会内にクラブがあったが昭和59年事務所を渋谷に移している。この機関紙は日本医学の歴史の宝庫と言ってもいいだろう。
私も美術のみならず、写真部、洋楽部にも所属している。写真部では部長の竹腰先生のもとカメラ博物館での出展とそのあとの懇親会を楽しみにしている。洋楽部ではピアノ、サックス、フルート、ハープ、ドラム、声楽など色々な分野の方々が活躍されている。私は最近ギターの弾き語りを始めた。最近では北山修さんの「あの素晴らしい愛をもう一度」を歌った。なぜかというと今年の2月18日武蔵野医師会文化講演会に清水眼科の清水先生から元フォーククルセダーズの北山修さんが来られるので来ませんかという招待があった。京都府立医大の学生だった彼は当時「帰ってきたよっぱらい」でデビューして数々のヒット曲を飛ばしてから医師の世界に帰ってしまった。現在は九州大学精神科名誉教授、国際基督教大学客員教授などされている。
「あの素晴らしい愛2016」と題して北山修先生の胸を打つ講演があった。精神科医として浮世絵に描かれた母子像の研究、それは日本人の和の精神につながり、文化の継承となっているというものだった。この研究を諸外国でも発表されているという。北山さんはご自分のことを彼と言い、なぜ彼はこんな歌を歌ったのだろう?それは当時ウォークマンなどが出て個々人の絆が薄くなったのを感じたからではということだった。
講演のあと、「あの素晴らしい愛をもう一度」、「戦争を知らない子供たち」を全員で歌った。連帯感を味わえたと北山修さんが最後にが言われたが、確かにあの場にいた人すべての人が一つになったようだった。その約一か月後日本医家芸術クラブ洋楽祭が行われた。私はこの話をしてからギターの弾き語りを始めた。会場にいるすべての人も声を合わせて「あのすばらしい愛をもう一度」を歌い再び大いなる連帯感を味わえた。
話を北多摩医師会にもどそう。私が参加しているのは他にカラオケ部、写真部である。
北山修さんの浮世絵の話や日本人の和の精神などについて北多摩医師会のカラオケ部でも話させていただきこの歌を歌うことになった。とても楽しいひと時であった。北多摩医師会カラオケ部も結構長い歴史がある。昔はなかなか歌う順番が回ってこなかったくらい大勢の参加者がいたが、現在は少々人数が減って2、3曲は歌える。その分交流も深くなっている。先生方の美声も楽しみの一つであるが他市の医師会の情報が得られるのもありがたい。
北多摩医師会(要確認)美術部では去年から写真部が独立し、「日本医家芸術クラブ」と同様プロカメラマンを招いて批評を頂くようになった。「この写真は角度を変えて撮ればもっとよくなる、空と湖の配置を変えればよい、明暗の考え方等々」なるほどと思う意見を拝聴できるのもありがたい。
懇親会があるのもうれしい限りである。他市の先生方との交流はこのようなクラブの存在なしでは考えられないだろう。
コンサートや展覧会は一つの目標、区切りになる。コンサートでギターの弾き語りをやるとなったら、それに向けての練習は半端ではない。展覧会も同じ、そこに向けて作品を創造していく。医業は日々勉学にいそしむのが常であるが、芸術活動はコンサートや展覧会があることでグッと力が増すと思われる。これを何度も経験することで自分なりの世界をつくっていけるのではないかと思っている。
 
 
 
 
 
 

明石 歯科 人丸町

明石市人丸町4−13 明石市で歯科医を開業しています。白矢泰三
亀の水の近くです。
東京都小平市で兄が眼科を開業しています。明石は風光明美、食べ物では鯛 タコ 卵焼きなどが有名です。
明石で無痛、早期に治すことを目標に頑張っています。

命の理由 弟 健二

命の理由
さだまさしさんの歌にはいつも感心させられる。なぜこんなすばらしい歌をつくれるのだろう。「精霊流し」など悲しい歌から「雨宿り」「亭主関白」「亭主失格など」面白い歌までさまざまである。
今年6月に10歳年下の弟が突然亡くなった。ずいぶん個性的な人間であったので彼の死のインパクトは大きすぎ、なかなか立ち直れなかった。私に兄貴、兄貴と慕ってくれ、またその一方、あちこちで諍いを起こし私を悩ませた弟。感情の起伏が大きく怒り狂う時もあったが心根はやさしい人間だった。
兄弟の大きな絆は突然死という形で砕かれてしまった。安らかな顔で眠る弟に「健二、健二」と呼びかけたが返事はない。
なぜ人は生きていくのか?すべての人は遅かれ早かれこの世を去ることを運命づけられている。
お通夜で、親戚が集まる中、私はいつの間にか「命の理由」を小さな声で歌っていた。従妹がその歌もう一度歌ってと言われて自分が歌っているのに気が付いた。
 
「私が生まれてきたわけは父と母とに出会うため。私が生まれてきたわけは兄弟たちに出会うため。私が生まれてきたわけは友達みんなに出会うため。私が生まれてきたわけは愛しいあなたに出会うため。春来れば花おのずから咲くように秋来れば葉はおのずから散るように幸せになるために人は皆生まれてきたんだよ。苦しみの花のあとからは幸せの実が実るように」
 
生まれてきて最初に会う人は父と母、そして兄弟。
人は皆幸せになるために生まれてきたんだ。
弟は幸せだったのだろうか。彼の人生に少なからず関わってきた私ですらそれには答えられない。
果たして幸せとはなんだろうか。幸せと感じる瞬間はあっという間に消えてしまい、日常の世界ではそれを感じることは少ないのではなかろうか。
戦争で爆弾が降ってくる世の中に生きていると、爆弾の降ってこない世界が幸せな世界。食べ物のない世界では食べ物がある世界が幸せな世界。
不幸せでなければ幸せなんだと結論づければ、普通に生きていけることが幸せということになる。
永久の別れとなったが弟、健二は何も言わず私の心の中に生きている。
安彦洋一郎先生 
いつもお元気な先生が突然亡くなられた。日本医家芸術クラブには無くてはならぬお方であった。1130日に横浜医師会でのマジックショウに1日参加、「お疲れでしょう」とご家族が心配しても一晩寝れば治る」と言って元気だったそうです。12月の2日、美術展の搬入に行かれお昼ごろ少し朦朧としていたところ昼食に天を食べ元気を取り戻したとのこと。3日、元気に会場に行き家で普通に夕食をとり就眠、夜中の018分心筋梗塞により救急搬送、、そのまお亡くなりになったのことです。
 
安彦先生と初めてお会いしたのはいつだっただろう。美術展の懇親会で先生がマジックを披露されるのを何度か楽しんだ思い出がある。当時は大村先生や玉井先生など多くの諸先輩方と食事をしながら先生の笑顔あふれるユーモアのある手品を見せていただいた。
私が先生と本当に親しくさせていただくようになったのは、日本医家芸術クラブの顧問である日野原先生の受勲のお祝い会をクラブで開いた時であった。皆で記念写真を撮ったあと懇親会。日野原先生の滔々とした話しぶりに驚いた。人には3つ大切なことがある。愛すること。耐えること。始めること。なるほど含蓄のある言葉と思った。その記念パーテイで大村先生と安彦先生が私のお隣に座られていた。大村先生は80歳を超えているにもかかわらず大きな声で歌を歌い、太田委員長は「しらざあいって聞かせましょう」の名啖呵を切っていた。
安彦先生が今からお酒を飲むからちょいと準備をと言ってカバンから何か取り出した。注射器であった。それでズボンの上からポンと突き刺したのだ。このとき安彦先生が糖尿病であると教えていただいた。先生の声と笑顔は親しみやすい。このころから私と先生の距離はずーっと近くなった。絵画展やクラブ総会にはほとんど出席され手品を披露された。ここ数年は花火を描いていると言われ先生しかできない、見事な大輪の花火を出品されていた。この2年は富士山を先制独自のスタイルで多くの人を感動させた。
 
以下は以前私が先生の出版記念パーテイについて書いた文章である。
 
糖尿病を友として生きるある内科医の人生記録: 安彦 洋一郎:
2014年私がこの本を出版しようと思ったのは
平成23
年のあるニュースがきっかけと
なっている。それは糖尿病の治療のため
インスリンを使用している患者さんが自
動車運転中に低血糖となり、意識不明の
まま交通事故を起こし、尊い3人の命が
失われてしまったという内容であった。
私はそのニュースを見て、私の強化イン
スリン療法から起こる低血糖発作の経験
を生かして、そのような事故を防がなけ
ればならないと考えたからである。
 
日本医家芸術クラブ美術部創設以来活躍されてきた安彦洋一郎先生の「糖尿病を友として生きる」という本の出版記念パーテイが横浜のベイシェラトンで行われた。100人を超す関係者が集まってお祝いをした。
私が安彦先生が糖尿病としったのは、昔、医家芸術の会合でお隣に座った時である。注射器を取り出し「これから飲むからな。」と言ってズボンの上からぽんと針を突き刺されたのである。その後私は先生が糖尿病であることを忘れていた。あまりにもお元気であるため病気とは思わなかったのである。美術部の懇親会や総会の集まりで大きな声で愉しいお話をされ、また手品で場を和ませてくださる。先生の絵は元気があって色彩もすごい。そんな先生が糖尿病の本を出された。それで私は先生が注射を打たれた時を思い出したのである。先生は50歳の時、突然Ⅰ型糖尿病になられたそうである。それからずっとインシュリンを打ち続けていらっしゃる。
「Ⅰ型糖尿病の人が長生きするには低血糖とのたゆまざる闘いが必要」と巧妙なジョスリン先生が言われている。私も糖尿病性網膜症を専門としているので低血糖に患者さんをたびたび見ている。しかしこの本を読むまでは、まったく低血糖になった患者のことを理解していなかったことを知った。この本は先生が死に直面するような病気とたびたび闘いそれに打ち勝ち、また糖尿病になったのちも、そのように病気と対峙してきたか書いてある。この本には先生の体験、努力、闘い、願い、希望が詰まっている。だから読む人に感動を与えるのだろう。
記念パーテイでは発起人代表の挨拶から始まり医師会役員、美術関係者、マジカルグループなど多くの人々の祝辞があった。アトラクションとして84歳の安彦先生の1つ上のお姉さんの石川美和子がソプラノを4曲歌われた。ピアノとマイク無し、85歳に思えない若い声でした。若いころ先生が開業されたときお手伝いされたそうだ。往診から帰ってこられた先生が「さて飲みに行くか」と言われたとき、いつも一緒だった、楽しい青春時代の思い出、そう話す美和子さんの顔は時を超えて若い時代に帰っているように見えた。
安彦先生の話の中で特に印象に残ったこと。「インシュリンを打って低血糖になった人が交通事故を起こしたという話。低血糖では 重症 中等症 軽症に分類できる。 中等症になると判断力がなくなる。自分はポケットには砂糖10グラムを持っている。 これを飲めば5分で回復する。ところがこれが飲めない。これが低血糖の中等症と軽症の境目だと思う。 これを知ってほしい」見当識がなくなり、自分がどこにいるのかもわからない。砂糖も口にできなくなるというのだ。
最後に安彦先生のマジックショウがはじまった。
トランプと鳩を使い音楽に合わせて先生の手と体は絶妙に動く。途中で鳩が飛んで後ろの衝立の後ろに隠れてしまった。「鳩どこ行っちゃった?探してくれよ。」どっと会場の笑い声。ホテルの人に鳩も連れられて戻ってきてマジックは続く。楽しいひと時だった。同席していた先生に清水先生という産婦人科の先生がいらした。事務局の木下さんがその方の隣に座っていて医家芸術の話になったそうだ。昔、医家芸術に席を置いたことがあるという。昔話を聞かせていただいた。
 
そんな先生の今年9月に開催されの医家芸術展の作品は富士さんと大輪のヒマワリだった。「富士山だけでは絵にするのは難しくて」とはにかみ顔で笑いながら解説されていた。この懇親会はお酒、食事を飲みながら専門家の批評も聞かせてもらえるのでとても楽しい。事務方の方々が安彦先生に手品をお願いすると、快く引き受けてくださりハンカチ、トランプなどショウが始まった。ちょうど医家芸術の美術展に初出品された清水先生の子供さんがいらしてマジックのお手伝いに呼ばれたように思う。楽しいひと時だった。
 
9月に私の個展が画集発表と同時に新宿京王デパートにて開かれた。多くの患者さんや先生方に来ていただきありがたく思っている。個展開催パーテイを京王デパートの太新楼という中華料理店で土曜日の夜行った。ここでは歌ったり踊ったりするスペースをつくることができる。大学時代の友人や医家芸術の方々、大学関係、高校の同級生、医師会の方々をご招待させていただいた。ここでおめでとうの祝辞太田委員長、初芝副委員長、小平医師会元理事会 山之内先生を奥村頂いたり私が歌ったりした、恋するフォーチュンクッキーを大勢で踊った。
安彦先生の登場黒いマジシャンのコートをまとい、それらしい音楽で。
ハンカチやトランプを使ったマジックショウ。
「あれ、どこに入れたかな」ポケットを探りながら「忘れてきたか、あ、あった。あった」とハンカチを取り出す。本当にぼけているのか、ぼけたふりそしているのかわからないところが何とも言えない味があると友達が後で話してくれた。「このハンカチの縦じまを横縞に変えます」確かにハンカチを横にすると縦が横縞に変わる。みな拍手喝采。ここからが本番ハンカチは突然長い棒に早変わり。先生の独特の声、身振りに会場は沸きに沸いた。先生もとてもうれしそうだった。この時のビデオが事務室に残っているはずなので探してみたい。
その後10月くらいだったか先生から「僕もね、画集を作っていたんだ。近いうちに送るから」と電話があった。そして間もなくして立派な画集が送られてきた。
絵とは自分だけしか描けない絵でないといけないというのが私の持論であるが、先生の2冊の画集はまさに先生の人生の詰まっているものであった。この時の電話でのやり取りが先生との最後となってしまった。
その画集に先生の人生、生き方などが書かれている。幼少時から病気とともに歩いてこられた先生はスキーや山登り、テニス、マジック釣りなどで病気を克服された。
安彦洋一郎先生は名前のとおり、大きな心の持ち主だった。先生の言葉「私は人生はマラソンであると思っている。誕生はスタートであり、死がゴールである。人生マラソン完走は天授を全うしたと言うことで、祝福を受けてもよいのではないかと思う」はまことに先生らしい。
ラジコン飛行機に夢中になられ、操縦できるようになられた。ある日、友人のセスナ機に乗せてもらったとき、操縦しませんかと言われ、即座に「やってみよう」
ラジコン機と実機の操縦法はまったく同じだそうだ。利根川に向かって北上し浅間山の雄勢を眺めながら、小諸、上田、上空を通過し松本城を眺めるとある。
私は今も先生元気にセスナ機にのられ空をとんでいらっしゃる、あちらの世界に行かれても、マジックでも、あの笑顔、あの声で大勢の人々を楽しませていらっしゃると思うのである。
 

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