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>落合氏の本 289ページ 米子が金を得るために絵は周蔵から借用物だという証文について述べている。
昭和9年 牧野が珍しく囲った看護婦の倉田由は、米子と仲良くなって共同戦線を張り、事あるごとに口を挟む。現に「米子さんが義兄から、画会の売上金を取られないように、絵は借用物だという証文を私が書いて、難を逃れさせてあげたのよ」などと言っていた。(中略) その書付が291ページ写真である。押した印鑑も「由」が市中で購入したつげ製の三文判であろう。世のなかには常識というものがある。 一般に仲がよくなったとは言え、他人の借用書を書き判子まで押している、こんなことがありうるでしょうか。 真筆でないと言われて、後だしジャンケンのように、あれは代筆だったからと別の吉園資料がだされてくる。 その頃佐伯祐三の絵は評価されながらも売れていなかった。山本発次郎は佐伯の絵に惚れこみほとんんど代表的なものは手に入れたと書いている。 他に和歌山の玉井さんという佐伯祐三作品の収集家の話もあるが、佐伯ブーム到来までは、今ほどの値段はついていなかった。 勝本英治 佐伯祐三の絵(新文明昭和43年5月号)を紹介しょう。 昭和2年勤め先の仲間に、佐伯祐三と大阪の来たの中学以来の付き合いというのがいて、その仲間から、佐伯がまたフランスに行くことになって、今一口百円で画会をやっている。自分も付き合ったがお前も一口のらないか、と誘いを受けた。(中略) それから間もないある日、案内役の仲間と兄と3人で落ち合いの佐伯のアトリエを訪ねた。(中略) 佐伯は愛想よく向かいいれると、取り散らかした壁際からあれやこれや絵を出して見せてくれた。(中略)私は「鉄道工夫」をとった。20号で号当たりにすると5円だった。 佐伯の遺作がフランスから帰ってきた。 例の仲間に誘われ遺作を保管している落合の外山卯三郎氏のお宅を訪ねた。その数とすばらしさに圧倒され、帰ってから前の値段のようにはいかないが、なんとか分けてもらえないだろうかと仲間に頼んだ。暫くして遺作の全部は未亡人の手を離れて、大阪の本家のほうに引き取られた。縁は遠くなった。 この絵を「鉄道工夫」昭和4年一五〇円で手放す。 戦後銀座で佐伯のアトリエで見た「緑色の家」の絵を画廊の飾り窓で見て、中に入って訊ねるとまだ第一回滞渡欧作が2点ほどあり、出所として高名な美術評論家の名前を教えてくれた。値段はそれぞれ5万円づつだという。「緑色の家」の絵は佐伯の第一級に属する作品で無理をすれば変えない値段ではなかったが、、、、 それから5,6年して礼の画廊に立ち寄り、第二回滞渡欧作「サクレクールの白い屋根が見える絵を見る。値段80万と聞いてあきらめる。 思えば新入社員の頃、ボーナスの使い残りで買えた事もあったのだが、いまは取締り役とか何とか肩書きを持っていながら、2年か3年のボーナスをためねば手が届かないのである。 それからまた何年かしてブリジストン美術館に行った。 最後の部屋に「鉄道工夫」がかかっているのに出会った。ニスが塗られ、立派な額縁に入っていたので咄嗟に似た絵かと思ったが、近寄ってみたら、昔私がつけた傷がそのまま残っていた。 絵の具の塊がひび割れたまま付着していたのが気になり、触ったら剥がれ落ちてしまったのだが、その跡がそのまま残っていたのである。40年前のことが昨日のことのように思われた。 (中略)かっては私の部屋にかかっていた絵であるが、今この絵と私との間には到底達することのできない断絶があると見えた。 40年間の有為転変で、私はそのときよりも一層無力で見捨てられた存在になっているのが痛感された。 |

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