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安彦洋一郎先生

安彦洋一郎先生 
いつもお元気な先生が突然亡くなられた。日本医家芸術クラブには無くてはならぬお方であった。1130日に横浜医師会でのマジックショウに1日参加、「お疲れでしょう」とご家族が心配しても一晩寝れば治る」と言って元気だったそうです。12月の2日、美術展の搬入に行かれお昼ごろ少し朦朧としていたところ昼食に天を食べ元気を取り戻したとのこと。3日、元気に会場に行き家で普通に夕食をとり就眠、夜中の018分心筋梗塞により救急搬送、、そのまお亡くなりになったのことです。
 
安彦先生と初めてお会いしたのはいつだっただろう。美術展の懇親会で先生がマジックを披露されるのを何度か楽しんだ思い出がある。当時は大村先生や玉井先生など多くの諸先輩方と食事をしながら先生の笑顔あふれるユーモアのある手品を見せていただいた。
私が先生と本当に親しくさせていただくようになったのは、日本医家芸術クラブの顧問である日野原先生の受勲のお祝い会をクラブで開いた時であった。皆で記念写真を撮ったあと懇親会。日野原先生の滔々とした話しぶりに驚いた。人には3つ大切なことがある。愛すること。耐えること。始めること。なるほど含蓄のある言葉と思った。その記念パーテイで大村先生と安彦先生が私のお隣に座られていた。大村先生は80歳を超えているにもかかわらず大きな声で歌を歌い、太田委員長は「しらざあいって聞かせましょう」の名啖呵を切っていた。
安彦先生が今からお酒を飲むからちょいと準備をと言ってカバンから何か取り出した。注射器であった。それでズボンの上からポンと突き刺したのだ。このとき安彦先生が糖尿病であると教えていただいた。先生の声と笑顔は親しみやすい。このころから私と先生の距離はずーっと近くなった。絵画展やクラブ総会にはほとんど出席され手品を披露された。ここ数年は花火を描いていると言われ先生しかできない、見事な大輪の花火を出品されていた。この2年は富士山を先制独自のスタイルで多くの人を感動させた。
 
以下は以前私が先生の出版記念パーテイについて書いた文章である。
 
糖尿病を友として生きるある内科医の人生記録: 安彦 洋一郎:
2014年私がこの本を出版しようと思ったのは
平成23
年のあるニュースがきっかけと
なっている。それは糖尿病の治療のため
インスリンを使用している患者さんが自
動車運転中に低血糖となり、意識不明の
まま交通事故を起こし、尊い3人の命が
失われてしまったという内容であった。
私はそのニュースを見て、私の強化イン
スリン療法から起こる低血糖発作の経験
を生かして、そのような事故を防がなけ
ればならないと考えたからである。
 
日本医家芸術クラブ美術部創設以来活躍されてきた安彦洋一郎先生の「糖尿病を友として生きる」という本の出版記念パーテイが横浜のベイシェラトンで行われた。100人を超す関係者が集まってお祝いをした。
私が安彦先生が糖尿病としったのは、昔、医家芸術の会合でお隣に座った時である。注射器を取り出し「これから飲むからな。」と言ってズボンの上からぽんと針を突き刺されたのである。その後私は先生が糖尿病であることを忘れていた。あまりにもお元気であるため病気とは思わなかったのである。美術部の懇親会や総会の集まりで大きな声で愉しいお話をされ、また手品で場を和ませてくださる。先生の絵は元気があって色彩もすごい。そんな先生が糖尿病の本を出された。それで私は先生が注射を打たれた時を思い出したのである。先生は50歳の時、突然Ⅰ型糖尿病になられたそうである。それからずっとインシュリンを打ち続けていらっしゃる。
「Ⅰ型糖尿病の人が長生きするには低血糖とのたゆまざる闘いが必要」と巧妙なジョスリン先生が言われている。私も糖尿病性網膜症を専門としているので低血糖に患者さんをたびたび見ている。しかしこの本を読むまでは、まったく低血糖になった患者のことを理解していなかったことを知った。この本は先生が死に直面するような病気とたびたび闘いそれに打ち勝ち、また糖尿病になったのちも、そのように病気と対峙してきたか書いてある。この本には先生の体験、努力、闘い、願い、希望が詰まっている。だから読む人に感動を与えるのだろう。
記念パーテイでは発起人代表の挨拶から始まり医師会役員、美術関係者、マジカルグループなど多くの人々の祝辞があった。アトラクションとして84歳の安彦先生の1つ上のお姉さんの石川美和子がソプラノを4曲歌われた。ピアノとマイク無し、85歳に思えない若い声でした。若いころ先生が開業されたときお手伝いされたそうだ。往診から帰ってこられた先生が「さて飲みに行くか」と言われたとき、いつも一緒だった、楽しい青春時代の思い出、そう話す美和子さんの顔は時を超えて若い時代に帰っているように見えた。
安彦先生の話の中で特に印象に残ったこと。「インシュリンを打って低血糖になった人が交通事故を起こしたという話。低血糖では 重症 中等症 軽症に分類できる。 中等症になると判断力がなくなる。自分はポケットには砂糖10グラムを持っている。 これを飲めば5分で回復する。ところがこれが飲めない。これが低血糖の中等症と軽症の境目だと思う。 これを知ってほしい」見当識がなくなり、自分がどこにいるのかもわからない。砂糖も口にできなくなるというのだ。
最後に安彦先生のマジックショウがはじまった。
トランプと鳩を使い音楽に合わせて先生の手と体は絶妙に動く。途中で鳩が飛んで後ろの衝立の後ろに隠れてしまった。「鳩どこ行っちゃった?探してくれよ。」どっと会場の笑い声。ホテルの人に鳩も連れられて戻ってきてマジックは続く。楽しいひと時だった。同席していた先生に清水先生という産婦人科の先生がいらした。事務局の木下さんがその方の隣に座っていて医家芸術の話になったそうだ。昔、医家芸術に席を置いたことがあるという。昔話を聞かせていただいた。
 
そんな先生の今年9月に開催されの医家芸術展の作品は富士さんと大輪のヒマワリだった。「富士山だけでは絵にするのは難しくて」とはにかみ顔で笑いながら解説されていた。この懇親会はお酒、食事を飲みながら専門家の批評も聞かせてもらえるのでとても楽しい。事務方の方々が安彦先生に手品をお願いすると、快く引き受けてくださりハンカチ、トランプなどショウが始まった。ちょうど医家芸術の美術展に初出品された清水先生の子供さんがいらしてマジックのお手伝いに呼ばれたように思う。楽しいひと時だった。
 
9月に私の個展が画集発表と同時に新宿京王デパートにて開かれた。多くの患者さんや先生方に来ていただきありがたく思っている。個展開催パーテイを京王デパートの太新楼という中華料理店で土曜日の夜行った。ここでは歌ったり踊ったりするスペースをつくることができる。大学時代の友人や医家芸術の方々、大学関係、高校の同級生、医師会の方々をご招待させていただいた。ここでおめでとうの祝辞太田委員長、初芝副委員長、小平医師会元理事会 山之内先生を奥村頂いたり私が歌ったりした、恋するフォーチュンクッキーを大勢で踊った。
安彦先生の登場黒いマジシャンのコートをまとい、それらしい音楽で。
ハンカチやトランプを使ったマジックショウ。
「あれ、どこに入れたかな」ポケットを探りながら「忘れてきたか、あ、あった。あった」とハンカチを取り出す。本当にぼけているのか、ぼけたふりそしているのかわからないところが何とも言えない味があると友達が後で話してくれた。「このハンカチの縦じまを横縞に変えます」確かにハンカチを横にすると縦が横縞に変わる。みな拍手喝采。ここからが本番ハンカチは突然長い棒に早変わり。先生の独特の声、身振りに会場は沸きに沸いた。先生もとてもうれしそうだった。この時のビデオが事務室に残っているはずなので探してみたい。
その後10月くらいだったか先生から「僕もね、画集を作っていたんだ。近いうちに送るから」と電話があった。そして間もなくして立派な画集が送られてきた。
絵とは自分だけしか描けない絵でないといけないというのが私の持論であるが、先生の2冊の画集はまさに先生の人生の詰まっているものであった。この時の電話でのやり取りが先生との最後となってしまった。
その画集に先生の人生、生き方などが書かれている。幼少時から病気とともに歩いてこられた先生はスキーや山登り、テニス、マジック釣りなどで病気を克服された。
安彦洋一郎先生は名前のとおり、大きな心の持ち主だった。先生の言葉「私は人生はマラソンであると思っている。誕生はスタートであり、死がゴールである。人生マラソン完走は天授を全うしたと言うことで、祝福を受けてもよいのではないかと思う」はまことに先生らしい。
ラジコン飛行機に夢中になられ、操縦できるようになられた。ある日、友人のセスナ機に乗せてもらったとき、操縦しませんかと言われ、即座に「やってみよう」
ラジコン機と実機の操縦法はまったく同じだそうだ。利根川に向かって北上し浅間山の雄勢を眺めながら、小諸、上田、上空を通過し松本城を眺めるとある。
私は今も先生元気にセスナ機にのられ空をとんs¥でいらっしゃる、あちらの世界に行かれても、マジックでも、あの笑顔、あの声で大勢の人々を楽しませていらっしゃると思うのである。

我絵画を愛す

我絵画を愛す!】 白矢勝一
私は現在、医師、歯科医師、薬剤師等医療関係者で構成する「日本医家芸術クラブ」という芸術・文化に関わる全国組織の美術部の部長を仰せつかっている。同クラブには他に文芸や邦楽、洋楽、写真、書道などがあり、勿論各々の本職は医療関係であるが、それぞれに関わる姿勢は単なる趣味的同好の士の集まりを超えた質的充実を示しており、その道の専門家というべき人も輩出している。
後述するが、私も子供の頃から絵が好きで、現在に至り医師としての生業と共に絵画は大きなライフワークとなってしまった。
早いものでもう10年近くになるか、地域文化の振興に寄与せんとの志をもって東京小平市にある医院に併設して「シラヤアートスペース」というギャラリーを建設した。最近では絵画のみならず、医家芸術のコンサートを含めた音楽やいろいろなイベントにも使われ、現在日本医家芸術クラブの事務局も置いている。
同クラブは、長い歴史があり、昭和32年から機関誌『医家芸術』を発刊、美術展、写真展をはじめ、邦楽祭やドクターズファミリーコンサート、書道展など、芸術各部門にわたり活動を続けてきた。発表の場も前述のアートスペース以外に、銀座のギャラリーや公共施設のホールなど本格的であり、私も美術のみならず、洋楽部にも所属し、最近はギターの弾き語りもするようになった。このクラブで多くの芸術に親しむ先生方と知り合えたのは幸運であった
「会員になりたいが自分は医療関係者ではない、【患者】の資格ではダメか?」
という笑い話の御紹介とともに、これを機会に是非当クラブへ御参加頂くよう日本中の医療関係者に呼びかけたい。
次に、この医学と芸術という、一見別世界にあるような両者が、何かと因縁を持って絡み合ったという事実を私の周りから拾ってみたい。
我が日本医家芸術クラブの初代の委員長である式場 隆三郎先生は、かの山下 清を世に知らしめ、ゴッホもその精神医学の立場から研究をした人として広く知られている。他に、シュールレアリスムとフロイト等精神病理学との関係にもあるように芸術家の精神の問題はその作品と関連してしばしば論じられてきた。画家佐伯祐三のそれについても日本病跡学会でも取り上げられている。
私はその佐伯祐三好きが昂じ、2012年『佐伯祐三 哀愁の巴里』という本を共著上梓した。佐伯は晩年結核に精神異常が加わり、森を彷徨し行方不明となるが、彼を探す友人の一人として登場するのが宮田重雄という人である。彼は医者であり、後に医家芸術の会員となる画家でもあった。
また佐伯というと、その北野中学時代の友人であり『佐伯祐三』の著作もある阪本 勝がいるが、彼は私の故郷兵庫県の知事を二期務めた人で、その実家も私と同じ眼科医であった。阪本はその後東京都知事選に立候補するが、その相手というのが日本医家芸術クラブ第三代委員長の東 龍太郎元東京都知事というのも何かの因縁だろう。
因縁めいた話は他にもいろいろあるが、「日本医家芸術クラブ」という存在そのものがその繋がりの象徴ではないかという気もする時がある。
我が日本医家芸術クラブの顧問をされている日野原 重明先生の「聖路加病院」の語源は「聖ルカ」であるが、聖ルカは、自らそうであった故に医者と画家の双方の「守護聖人」とされている。このエピソードに基づけばその因縁は2000年近く前まで遡ることになる。
かの画家レオナルド・フジタ(藤田嗣治)の父親である藤田嗣章は、これも医学と文学の双方に跨る森 鴎外の後任の軍医総監であった。軍医総監とは軍医のトップであり兵隊階級では中将相当の超エリートである。フジタは、その「戦争協力絵画」が戦後批判の矢面に立たされ、逃げるように日本を去るが、良くも悪しくもその経歴と名声は彼の家庭環境とは無縁ではあるまい。
私も子供の頃父親に「絵描きになりたい」と言った時、「それでは食えない」と反対された。他に「絵師になりたい」と言ったのを「医師か?」と聞き違えられた中原悌二郎や、「美術家になりたい」と言ったのを「武術家か?」と返された青木 繁など、今も昔も凡そ絵描きなど職業選択としては論外なようで、研究所や美術学校などアカデミーで学び、「食えない」職業に就こうとした者の何人かは、家庭的にはある程度裕福で、教養ある環境に恵まれていたようである。
ともかくも私は、親がデッサン教室に通わせてくれたし、医学生の頃は美術部に入り油絵を始めた。医師になると忙しくて絵を描くことなどできなかったが、勤務医生活の後開業、ようやく絵が描けると思った。しかし、スペインに行って、ベラスケスの描いた『王女マルガリータ』を見てしまった。その見事さに絵を描く気をなくしてしまった。とてもそのような絵は描けないと思ったのだ。ところがあるとき件の佐伯祐三の画集を手に取り絵の本質を見たような気がしたのである。佐伯祐三の『人形』である。誰にも描けそうな絵だが魅力がある。これなら自分にだって描けると思えた。
「絵は個性、下手でもよい、その人が真剣に取り組めばいい」との佐伯の言葉。
再び絵を描く気になった。
爾来佐伯祐三についてはその作品のみならず、作品の背景にある思想や生き方、生い立ちにも関心をもつようになった。その過程で本邦で出版された佐伯関係の本はほとんど手にしたし、佐伯の足跡を追っての渡仏、「佐伯祐三贋作事件」との遭遇など、諸々の経験をさせてもらい、それが件の出版に繋がったのである。
さて最後になるが、本年7月、東京新宿の京王百貨店に於いて「白矢勝一油絵展」を開いた。個展は盛況で65点も作品が売れた。個展では「一番気に入った絵から売れ」と言われ、その通りにしたが、二度と描けない絵を手放してみると、なんとも言えない寂しさ。なんとか同じ絵をもう一度描いてみたいと思う。
個展に合わせ、画集も発刊した。描き溜まった500余点の中から200点ほどを選抜したが、個展も画集も長い創作活動の「けじめ」にはなったが、反面未だ「旅の途中」の感あり。
今後も何某かの目標を据えて、切磋琢磨したいと思っている。
(医療法人社団 白萌会 白矢眼科医院 院長)

以下 雑誌より

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院長ゼミナールへ

谷根千旅行

朝九時頃バスに乗って谷根千散歩にでかける。小平医師会研修旅行は日本の医学の歴史を探索することで広く知られている。道行く人々はかの格調高き人々はいかなる団体であろうと振り返り、その雄々しき姿に感銘を受けたことであろう。とにもかくにも小平医師会研修旅行はちょいと一味違った趣のあるものである。
さてここに旅の記憶を留めおくよう仰せつかったが、この研修旅行を記すに至り幾分客観性を欠くことになったがお許しいただきたい。

バスは東大農学部正門に着いた。この正門には東大紛争時代、農学部自治会委員長、副委員長立候補者として私の名前が大きく張り出されていた。この学内でアジテートしたりデモをやったり…本気で日本を変えるつもりでいたのである。東大医学部の封建的な医局制度への抗議から端を発した紛争は教養学部、文学部へと若さ、情熱あふるるところへと波及し全国に広がっていった。最近ようやく学生たちがかわいいデモをするようになってきた。浅薄で情緒に流されてはいるが若いということはいいことである。行動が頭より先に出るという行為は東大紛争以後当局によって筑波法がつくられ皆無となっていた。霞が関は毎年のように法律をつくり自分たちの都合のいいように国民の行動を制限してきた。     しかしようやく今回の安保法案で感情的に動く学生がでてきた。よく考えず損得なしで行動する若者がでてきてこそ日本は元気になる。「イギリス人は歩きながら考える.フランス人は考えた後で走り出す.スペイン人は走ってしまった後で考える」最近の日本人は歩いてはいるが他人の眼を気にしすぎいつも考えすぎていたのではないかと思う。今回の若者のデモはスペイン的だ。頭を冷やせばそのうちわかるだろう。日本はアメリカの属国なのである。それを肝に銘じておくべきである。原爆を落とされ、空襲で爆弾を落とされ、軍事基地を置かれても一切文句が言えない。経済的にも軍事的にも属国であるから従うしかないのである。安倍首相が支持率が下がっても法案を通した理由はアメリカのいうことを聞くしかないということだ。

なにはともあれ当時はよく損得を考えず無茶をやったものである。学舎に立てこもった当時の紛争時代を思い出しながら、構内へ。
我々の時代は渋谷のハチ公前、六本木のアマンドなどが待ち合わせ場所として名をはせていた。ところが最近農学部校内に忠犬ハチ公の像がつくられ観光名所となったようだ。しかし私にとってはやはり奥にある校舎の最上階が一番懐かしく思えた。当時そこに泊まり込み、夜遅くまで友人たちと議論していたものだ。紛争時代を思えば平和で静か、退学にもなった学生がいたのが夢みたいなものに思える。
農学部正門を後にして根津方面に歩いてゆく。東京聖テモテ教会のそばを通る。この教会は歴史のある建物だったそうだが、戦争で焼け現在の建物になっている。東大の周りにはキリスト教会が多いそうだ。その理由は頭のいい人材をキリスト教徒にしたいとの考えがあったとのこと。坂を下りて根津神社に向かう。この谷根千には100以上の坂があるそうだ。坂にもいろいろな形や歴史があって名前がついているとのこと。そういえば学生時代向ヶ丘寮から夜よくお化け階段を通って仲間たちとそぞろ歩きをしたものだ。当時お化け階段の下り口に高い塀があった。そこに地面から2メートル達する黄ばんだ幾条かのシミが認められた。その幾何学的文様は日々変化し、地域の名物となっていた。道行く人々は、これは如何なる意味があるのだろうかと首をかしげたものである。現在はこの階段は下りるときと登るとき階段の数が違うということでおばけ階段と名づけられたということになっている。しかし当時の奇怪なこの文様がこの名称を与えたと言っても過言ではないと思う。つまりこの階段の歴史的名称は我々向ヶ丘寮生の日頃の行いのタマモノである。
当時寮生は誰彼となく飲み屋を求めて上野方面に出かけたりお化け階段へと向かったりした。そのうちの何人かが戦に出向く前に出すものは出しておこうと、一斉に壁に向けて放出するのである。誰が一番高く飛ばせるか?剣道部のT君はなんといつも頭上超えをやり、常に他を寄せ付けずトップであった。そのT君はその後腎臓を患ったということである。諸氏、飛ばしすぎには注意すべし!である。
我々が卒業したのち、その壁は取り壊され階段も今はきれいに舗装されている。今では語るものもいなくなったおばけ階段の由来をここに記すことができ日本の歴史に残せたこと、のちに記す渡辺淳一の小説ほどではないが隠れた真実を後世に伝えることができたことを誇りに思う。
根津神社に来る。根津神社は私が寮生であった頃とほとんどかわっていない。ツツジの頃はとてもすばらしい。乙女稲荷は最近外人にも人気があるとのこと。学生時代は女性とともに夜の風情を楽しんだ輩も多かったやに思う。坂道を上り日本医科大学に向かう。そこを通りながら医学の歴史にちょいと触れさせていただいた。長谷川康による済生学舎は3年で卒業することになっており、ここを出て医術開業試験を通るものが多かったそうである。その人たちの中で有名なのが野口英世 荻野吟子 吉岡彌生である。野口英世や吉岡彌生は語るに及ばずであるが、荻野吟子については一言述べておきたい。渡辺淳一の『花埋み』という小説を読んだのはいつのころだったろうか。渡辺淳一は不倫の中に本当の愛があると公言し『失楽園』などとみに有名である。恋を妨げる大きな壁があってこそ犬も食わない愛でも燃え上がる。さもありなん、さもありなん。

それはさておき、この作品が一つあるだけで彼の評価は大きく変わってしまうだろう。彼が大学病院医局の当直室を掃除させられたとき「北海道医報」という、道医師会で出している小冊子を偶然見つけたのである。その中に「日本で最初の女医来道す」という見出しで、荻野吟子のことが書かれていた。それが荻野吟子を知るきっかけであったそうだ。こういうことがなければ荻野吟子は永遠に歴史の闇に埋もれていたかもしれない。
 十代で結婚、夫に性病(淋病)をうつされ約2年で離婚。東大大学病院に入院するが、担当医はすべて男性であり、とても恥ずかしい思いをする、このつらい経験から「女医が必要である」と考え医師になることを決意するが、ここからが大変だ。学校では男子生徒にトイレのドアをドンドン叩かれたりする嫌がらせの連続。優秀な成績であったにも関わらず医師国家試験が受けれなかった。
 しかし多くの人の助けと彼女の熱意が実り、ようやく受験が認められ1884年と1885年に前期後期にわかれて行われた医術開業試験で、悲願の合格、こうして日本に女医第一号が誕生した。このとき35歳。女 医になることを決心してから十数年が経過していた。

彼女の人生は波乱に満ちたものであった。再婚し北海道へ。渡辺淳一は彼女の生涯の最後の最後まで書いている。この一冊は日本の医学の歴史にとっても重要なものであろう。
済生学舎の廃校後、関係者が在校生の救済のため創設したのが、後の日本医科大学に発展する日本医学校だそうだ。私が学生のころ東大向ヶ丘寮と日本医科大学とは近かったのでよく雀荘で会ったものだ。当時を思い出しながら解剖坂を通る。えらい急な坂である。昔はホルマリンのにおいがしたそうな。
次に夏目漱石旧居跡を見る。
夏目漱石は、イギリスから帰国後の明治36年から3年間ここに住んだ。
この間、東京大学英文科・第一高等学校の講師として活躍する一方、処女作『我輩は猫である』を執筆し、この旧居は作品の舞台となった。『倫敦塔』『坊ちゃん』『草枕』等を次々に発表する。
なお、家屋は愛知県犬山市にある「明治村」に移築され公開されているとのこと。私が彼の作品に親しんだのは18歳ころである。高校の先生が漱石の由来を説明してくれ、またその各々の小説について黒板に書いて説明してくれたのを覚えている。「吾輩は猫である」「坊ちゃん」など痛快な作品から「道草」「草枕」などの則天去私に至る漱石の心境を黒板に書いて説明してくれた。東京教育大学出の国語の先生は田舎育ちの我々にはとても新鮮に見えた。
漱石の由来は
中国西晋(せいしん)の孫楚(そんそ)は「石に枕し流れにくち漱(すす)ぐ」と言うべきところを、「石に漱ぎ流れに枕す」と言ってしまい、誤りを指摘されると、「石に漱ぐのは歯を磨くため、流れに枕するのは耳を洗うためだ」と言ってごまかした故事からだそうである。つまり自分の失敗を認めず、屁理屈(へりくつ)を並べて言い逃れをすることだそうだ。
千駄木ふれあいの森を通って、森鴎外記念会に到達。即興詩人や舞姫などなつかしい古本が展示されている。
漱石、鴎外、芥川などは高校生のころ大半読んでしまい、その後読んだことはない。しかし、今でもその内容を思い出せるのは歌謡曲と一緒で若いころ覚えたものはなかなか忘れないためだろう。「石炭をば早や積み果てつ。」ではじまるこの小説を何度高校生のころ読み返したことだろう。内容だけでなく文章が美しい、今思えば鴎外の実体験、結ばれない恋をそのままありていに書いた心情が心を打ったからであろう。
舞姫にでてくるエリスが鴎外に会いにドイツがら来たという話を半信半疑で高校のころ授業で聞いた覚えがある。ところがどうも本当の話だったようだ。インターネットで下記のような記事を見つけた。
鴎外「舞姫」エリス特定? 教会の出生記録に名前、“別れ”後の職業も合致 独在住ライターが確認
 モデルと判断した根拠として▽来日時の乗船者名簿にある「エリーゼ・ヴィーゲルト」と名前が合致
帰国後に帽子製作者として働いているのが、鴎外の妹の回想と一致
出生地のシュチェチンが「舞姫」の中にも登場
来日時に21歳という年齢も妥当、などが挙げられている。また、鴎外の娘の茉莉(まり)と杏奴(あんぬ)は、エリーゼのフルネームと、その妹(アンナ)から命名した可能性を指摘している。
ドイツ在住22年の六草(フルネームと独在住ライターとかの説明が必要かも)さんは語学力や土地勘を生かし、2009年6月から半年間の現地調査でエリーゼの出生記録にたどり着いた。
「舞姫」発表から120年の昨年には、テレビディレクターの今野勉さんが鴎外の遺品にあった刺繍(ししゅう)用型板のイニシャルを分析し「15歳ルイーゼ説」を唱える著書を刊行。新説登場でモデル論争がまた熱を帯びそうだ。
即興詩人を読んだのは中学生のころである。この小説はアンゼルセンの小説を鴎外が美しい古文調で翻訳したものだ。何度も読み返し涙したのを覚えている。
ローマのベルベリーニ広場、トリトーンの噴水の雑踏の場面からこの物語は始まりまる。
イタリアにあこがれたアンゼルセンはこの国の各地を小説の中にちりばめている。アントニオとアヌンチャタの悲しい恋の物語。アヌンチャタの手紙の部分を何度も読み返し感涙。さて昔読んだ恋愛小説で今も覚えているのはと考えてみると「リンゴの樹」「緑の館」。すべて悲しい結末である。近松心中物語でもわかるように結ばれない恋ほど涙誘うものはない。
余談が多くなったが、この鴎外記念館に続く団子坂がこの旅最後の散歩コースとなった。団子坂は。漱石の「猫」「三四郎」。森鴎外の「青年」、二葉亭四迷の「浮雲」江戸川乱歩の「Ð坂殺人事件」にも登場。どれもこれも若いころ読まれた方が多いと思われる。
正岡子規も『自雷也もがまも枯れたり団子坂』と団子坂の菊人形の様子を詠んでいる。
 
我々小平医師会の猛者たちはこの険しい坂道コースを終え浅草に向けてバスに乗った。
バス中から浅草の問屋街が見える。包丁屋さんとか金物屋さん、瀬戸物屋さんなど歩いたら面白そうなお店が並んでいる。
浅草今半に到着。ここのすき焼きはうまい。江戸時代牛肉は将軍家への献上品、養生の薬と謳われた特権階級のものだったそうだ。ここの肉は品川屠場から直接のものだそうだ。
獣医学科にいたころ、この屠殺場を見学したことがある。多くの牛や豚が見る見るうちに湯気を立てながら肉に変わっていく。東京都の食欲を満たすにはどれだけ多くの命が失われることか。
英語では牛は生きているときはオックスとかカウ。豚はピッグである。肉になるとビーフとかポークとなる。生きている時と名称が変わるのである。日本ではそのまま牛肉、豚肉である。これは歴史の違いで目の前で牛や豚を殺して食べる習慣がなかったためかと思われる。これに対して鶏は昔から食べられていたから肉になると日本ではカシワと名を変えるのではと考える。
日本人は新鮮な魚を好んで食べる。いまでこそ寿司とか刺身が欧米人に受け入れられているようだが、昔は残酷だとか気持ち悪いとか評判は悪かった。文化の違いであろう。新鮮な牛肉は確かにおいしい。明治二十八年、百年を超える歴史の味を堪能して今回の旅を終えた。
 
 

佐伯祐三とパリ

パリのパッサージュに行ってきました。理由は佐伯祐三、武生市に出された吉薗資料に出てくるハガキ探しです。何度もこういうところで絵ハガキは見ていましたが、今回は佐伯の贋作事件に出てくるようなものを探しに、、、
絵ハガキ屋さんには無数の昔のパリの絵ハガキが売られています。
詐欺で稼いだお金を持っていたA.Y関係者は大量の絵ハガキを買ったのでしょう。
 
いまだに贋作事件を放置し、まともでない主張のみを多く取り上げるヤフーはおかしい。縷々として、ねちんrち文句を言う輩に屈したのかと思われる。佐伯祐三、およびその係累、佐伯ファンにたいしてどう思われているのか。
知性あるならば、佐伯を冒涜するHPを削除すべきではなかろうか。

佐伯祐三 静岡

静岡で開かれた佐伯祐三展の図録を送ってもらった。佐伯祐三年表で佐伯死亡日の前に米子が見舞うというのが載せられている。これはおかしい。なぜか、間違いをそのままにしている。

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