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佐伯祐三 衝撃の真実 絵画 巴里 パリ 哀愁の巴里

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佐伯祐三贋作事件 2

なぜ嘘か、その2、3を紹介しよう。私は単刀直入だ。ずばり真実を語る。異論があれば反論していただきたい。
1、米子の加筆は佐伯祐三がメニエル病であったため、遠近感のない、ハエの眼、馬の眼となり、まともな絵にならなかった。そのため、米子が佐伯の絵にガッシュで加筆し売れる絵にしようとした。
これはまったく医学的には根拠がない。まずこの医学的根拠を示すのが筋であろう。いかに周蔵の生きていた昔とは言え、こんないい加減なことは放置すべきではない。これをそのまま通すならば、厚顔無恥といわれても仕方あるまい。早かに修正すべきであろう。
2、佐伯は学生時代から吉園周蔵に精神的、金銭的援助を受けていた。親、兄弟から疎まれていた。
佐伯は愛情につつまれ、その愛を失うのが怖い、そして愛のある生を求めたのである。仕事つまり絵を描くことははその生を営み、生活を保つ大きな柱であった。
また佐伯の生家は大きなお寺であり、たいへんお金にはめぐまれた環境にあった。兄より遺産分けとして東京に出てくるときは大金を持っていた。フランスに行くときも十分なお金は持っていた。フランスにいる佐伯に兄は送金していた。
兄にお金を送ってほしいという祐三の手紙も残っている。周蔵の麻薬売買による金など一切受け取っていない。
周蔵が国家のスパイであったという証拠は吉薗資料以外にはなにもない、佐伯評伝には一切周蔵はでてこない。周蔵はただの、その辺にいるおじさんであった。
周蔵の親戚が週刊誌でそのことについて述べている。
贋作かもしれない絵を何億という金で売り渡したことが多々あり、なおかつ、詐欺罪で有罪となった明子氏の言う事とその親戚筋が話すこと、どちらが正しいと感じるだろうか。
落合氏は、その著書、およびHPでは、裁判官や小林頼子など、まともな正論を攻撃し、吉薗側の不利な点については、むちゃくちゃな論理を振り回して人を煙にまく。
世の中には大きな常識というものがある。
この常識は小説や絵画、映画の世界では覆したほうが面白い。
しかし、現実の社会での常識破りについては限度というものがある。いったい、ご自分が何をしているのかわかっていらっしゃるのか。
賢明なる諸氏ならご理解いただけると思うが、国家の草が画家になってなにをするのか。落合氏によれば草が絵描きになったという話だが、佐伯が草として何を国家のために行ったのだろうか。馬鹿らしい話を信じる人が増えるのを喜ばれているのだろうか。
草などそう簡単になれるものではない。草になるためにはなにか目的があるはずである。佐伯が草になってなにをしたというのであろうか。
著者は戦後生まれであるが、多数の戦前の人間との付き合いがあった。しかしそのようなスパイがいたという話は聞いたことがない。落合氏によれば、周蔵ほど魅力的な人間はいない、一切その本当の姿を見せなかった、すばらしい人間であるということだ。
自分を隠して表にでなかった、そうではない。もともと裏の世界などにいたのではない。ただの「おっさん」にしかすぎなかったのである。
すべて作り話なのだ。落合氏自身もその存在を明らかにできないだろう。まったく根拠のないでたらめを真実のように見せるとはご苦労なことだ。
佐伯の精神異常はモランからパリに帰ってきてからである。
雨の日にカンヴァスをもって出かけたため、風邪をひき身体を壊して寝込むようになってからだ。
巴里日記、自由と画布では若い時から精神異常予備軍と医師?の周蔵がカルテらしきものに記している。
話の出発点からして間違っているのだ。
3、吉園明子による「自由と画布」 匠編著「佐伯祐三の巴記」は重複部分がいくつもある。たとえば新宿中村屋の相馬さんの件である。巴里日記ではこの辺りは明子氏のワープロ稿がもとになっている。
落合氏は場当たり的に言葉を変え、言い訳的なことを書き、ごまかそうとするが、それは無理というものである。
氏は二元論なるHPを新たに張り出されたが。ここでは前言を翻している。自由と画布は伝聞、巴里日記は匠が書かせたものだから、まともに取り上げるのがおかしいと書かれていた。
ところが二元論においては裁判で敗訴したのは巴里日記を裁判官、およびご自身が重視しなかったからだとまったく逆になっている。一貫性がない!自由と画布と同じである。佐伯に与えたという周蔵の金の出所はころころ変わる。
虚偽や不可思議な点はこれだけではない。矛盾につぐ矛盾、恥の上塗りの羅列である。
4、米子と知り合う前の佐伯の絵は佐伯のみの手によるものである。その絵はまだ彼自身の個性は探し切れていないが、絵を描くことを知っているものが描いた絵である。
諸氏に巴里日記に載せられている佐伯のデッサンといわれるものを見ていただきたい。確かに絵画は主観的であり、へたは下手なりの味がある。
ゴッホでさえ、認められるのには時間がかかった。しかし巴里日記にでてくる絵は、一見それらしく見えるが、よく見ればただそれだけである。
佐伯の絵をまねているだけで心がない、なさけない絵である。
さて吉薗側は米子が加筆したというが、いったいどこに加筆したというのだろうか。
佐伯の模写をして感じるのは、彼の絵にはリズムがある、ひびいてくるものがある。佐伯の呼びかけが聞こえてくる。細やかな神経、隅ずみまで気を配った跡がある、
しかし大胆、線と色彩で完璧にまとめている。
彼らの言う加筆とは細い線のことをいうのだろうが、ちょいちょいと加筆してできる絵ではない。
色面に、猛烈なスピードで線を描く。
佐伯の早描きはそう簡単に真似ることはできない。
細い線をどうやって描いたかはモランに一緒に行った山口長男等が記している。
筆者も、この方法を用いて模写をしている。細い線は細長い筆を使い、おつゆたっぷりで描くのだ。
展覧会でよく見ていただきたいが、佐伯の絵には筆を引きずった跡が認められる。米子が加筆したというなどとんでもない話である。
5、落合氏の書く文章の多くが明子の持ってきたワープロ原稿がもとになっていることである。武生市でも問題になったが、資料としてはまったくお粗末なものである。
調査室が求めても明子氏は現物を出さない。
これについては、氏の本にも「明子氏のワープロが届く」」と明確に書いてある。資料そのものが、都合良く作られた可能性が高い。
6、中島裁判の判決で贋作とされ吉薗側は敗訴。この裁判結果はとても大きいものだ。多くの事実、証言を積み重ね、裁判官の責任をかけての結審である。知人である弁護士によれば、裁判官の威信をかけてのものであるということだ。
もし、氏が不服と感じるならば、インターネットの世界で裁判官等を批難すべきでなく控訴すべきである。裁判官はプライドを賭けて結審したと思う。
プロはそれなりのプライドがあるものだ。氏に真実の心があるならば、やましいところがないのであれば裁判でもう一度堂々と持論を展開するべきである。
それをしないなら控訴しても敗訴するからしないと思われてもしょうがない。
詐欺事件を起こした吉薗明子をいつまでも擁護し続ければ、彼女からなんらかの受け取りがあったからと邪推されるだろう。
このままインターネットを使い世間を惑わし続けるのは罪なことだ。吉薗佐伯が本物と主張されるならばもう一度裁判すべきである。
それをしないならHPを潔く引っ込めるべきではないか。
そうしないならば恥知らず、卑怯者、大嘘つきと思われてもいいと認めることになる。
筆者は落合氏はそういう人物でないことを願っている。
ぜひ裁判で再度戦っていただきたい。
ご自分の信じるように筋を通すのが男らしい生き方と示してほしい。女々しい態度はとってほしくない。
賢明なる諸氏は冷静に、しっかり見ていただきたい。
佐伯祐三はその人生を賭けて絵を描いたのである。自分の絵の追及のために命をも惜しまなかったのである。
単なる小説であれば問題ないが、史実のように書かれている。それをいちいち間違いであると指摘する筆者は自己嫌悪に陥る。
もともとこんなことはしたくないのである。
しかし、これを放置すればあまりにも佐伯祐三一家がかわいそうである。日本の誇る偉大な画家の名を辱めないよう、やむなく書き続けることにした。近いうちに巴里日記、自由と画布、武生資料などについてお知らせする。
 

佐伯祐三贋作事件 3

下記は佐伯の絵が米子によって加筆されたと、杉浦氏の談によって落合氏が示したものである。なぜ杉浦氏がこのように書いたかは、高い相談料によるものではないか、と邪推されてもしかたがあるまい。氏は都合のいいことだけしか書かない。しかし、すべてぼろがでる。つまり真実ではないからである。
「杉浦が佐伯祐三の作品を修復したとき感じたのは、根底は激情型の太い線で荒々しく描かれているが、その上に面相筆のような極細の線で、細かい仕上げがなされている。「もし、これを1人で描いていたら、佐伯祐三は極端な二重人格に違いない。そんな二重人格が居るんかいな、かねがね、そう思って不思議だったんですが、今回の吉薗さんのものを見て、『ああ、やはり出るべきものが出てきたな』と納得できたんです。
「これは壁の絵ですかね・・・この壁の文字は斜めに描いていますが、こんな字を、イーゼルを立てたままで現場で書くことは、物理的にもだいいちムリです。誰でもアトリエで床に敷いて落ちついて描く。これもそうして書いたもの。』」
裁判で、米子と知り合う前の絵と贋作が比較されている。米子と知り合う前に描かれた絵は、絵をよく知った、才能あふれる絵画である。それに比べ贋作は味噌くそもないへたな絵であった。
絵をよく知り、自ら修行したものであれば、ご理解いただけると思うが、それなりの人間が描けば、いつ筆を置いても(描きかけでも)絵になっている。
佐伯の線についてはすでに述べたが、細長い筆を使って下絵が乾かないうちに描いたものである。
「こんな字を、イーゼルを立てたままで現場で書くことは、物理的にもだいいちムリです。誰でもアトリエで床に敷いて落ちついて描く。これもそうして書いたもの。」とはよくこんな馬鹿なことを言ったものである。
ただ一人の修復家の言ったことを、そのまま調査もせず書いている。杉浦氏のいう「壁の絵」については私も模写したことがある。床になど置いて描いたら、よけい描きにくい。絵画をよく知らない氏がいろいろ人の説を取り入れ、微に入り細に入り述べられるが、もともと無理がありすぎる。
ここまで来ると怒りを通り越して哀れである。
私は乾いた油彩にガッシュで描くことを試みた。黒は特に油の上に乗らない。ガッシュで黒い線を描くことはできないと思う。
知り合いの画家に、これがもう一度できるかどうか試みてもらうつもりである。たぶんできないだろう。氏はあたかも見てきたような嘘を平気で書く。小説なら問題ないが、あまりにもひどすぎる。氏は絵画について、知識があるように書かれているが、いったい誰の受け売りなのか。実際に米子が加筆したというなら、その実演を見てみたい。
修復する場合、まずテレピンでニスをふき取る、ガッシュで描いてあるならば、その線は消えてしまうのではないか。どういう風に落合氏は考えておられるのか。
詐欺罪で明子氏は有罪となった。その時までに、贋作らしい絵を売り、大金を得ている。それは以下のように邪推されても仕方がない。落合氏はその頃、すでに明子とは付き合いがあった。落合氏もその売買に関係していた。これは本物ですよと氏が買い手を紹介する。手数料として大金を受け取る。氏がなぜ嘘を書きつづけるのか?
本物と主張し続けなければならない立場に置かれてしまったからではないか。そう邪推されてもしかたがないということである。筆者はそのようなことを落合氏がするはずがない高潔な人間であると思いたい。
詐欺事件に氏が関わっていたならば、その買い手が文句を言ってくるはずであるから、多分そのようなことはないと信じたい。
しかし、必死に嘘を書きつづければ、そういう書い手に対するポーズとも考えてもいいかも、と考えてしまう。
裁判で敗訴しても控訴という手があった。これをしなかったのは、自ら敗訴を認めたということである。これは判例として残る。
裁判官も困ったであろう。無いということの証明は困難である。またへたな絵でも佐伯が描いたと言われれば、その証明は科学的証拠だけでは弱い。
佐伯か、贋作者が出てこなければ、証明が難しい。
しかし、まともなものは、それなりの人間にはわかる。
もっとましな贋作者にまかせれば、少しは有利になったであろう。
 

セザンヌ

セザンヌについては長年不思議に思っていた事があります。以下に示します。     ・セザンヌが近代画家の父といわれる由縁     ・落ちるとわかっている絵をサロンに出し続け、      最後に友達に頼んで入選した理由     ・「自然を円筒形と球形と円錐形によって扱いなさい」などの言葉。     ・小説家ゾラとのあつい友情はなぜだめになったのか?      それは本当であったのか。     ・20年にわたる糖尿病、その診断と治療     ・エミールベルナールとセザンヌの関係こういうことを念頭においてセザンヌについて調べてみました。
http://www7.ocn.ne.jp/~shiraya/img/cezaport.jpg

セザンヌ


セザンヌの略歴と時代背景

略 歴
1839年誕生(南仏プロヴァンス地方 エクス Aix
1852年ゾラとの友情の始まり(1886年まで続く)。バイユと3人でエクスの田舎を遊ぶ。
1857年エクスの素描学校でジベールに教わる
1859年法律を学びながら市立美術学校
1862年ゾラの誘いでパリに
1866年この年からサロンに出品するが、落選が続く
1869年絵のモデルをしていた19歳のオルスタンス・フィケと同棲(父親には内緒)
1872年息子ポールの誕生
1885年ある女性にラブレターを送る。ゾラに僕を許して欲しいとの手紙を送る。
1886年47歳の頃、ゾラが「制作」を発表、この内容に深く傷ついた?セザンヌはゾラと
絶交? また父に許され同棲していたオルタンス・フィケと結婚、父死亡、金銭に
不自由しなくなった年でもあります。このため食事の量が増えたのでしょうか。
1888年1898年つまり10年前ににゾラは21歳のジャンヌと初めて結ばれたと言う手
紙を残している。しかしゾラとセザンヌの手紙の数、内容から1884年ジャンヌ
17歳の時にゾラと関係があったことが推測可能である。17歳の女性と関係を持
つことはゾラとしても隠したかった可能性があると考えられます。
1890年最初の糖尿病の兆候がでたとあります。セザンヌはパリとエクスを行き来します。
1899年エクスにもどる。
1902年エクス近郊の新しいアトリエに。
1906年67歳でなくなっています。

時代背景

1) 時 代 背 景

現在性(自分の時代の風俗を自分の見方によって表現する)という概念が現れます。「悪の華」を書いたボードレール、レアリズム展を開いたクールベ、自分の見方により表現しようとしたドーミエに見られます。マネもその1人でボードレールやゾラから支持されています。印象派の人たちが活躍した時代はナポレオン3世がオスマン知事にパリ大改造計画をさせた時代です。オリンピックや万国博よりすごい時代、革命は起きるし、本来なら絵なんか描いていられない時代であったでしょう。パリでフランス革命が進行中の時、田舎町エクスは静かなもの。東大紛争の頃、東京では侃侃諤諤の議論をしていましたが田舎の実家に帰ると「なんてバカなことをやっているのか」などといわれ地域差、年齢差に驚いたことがあります。ある本にセザンヌは絵を描くことしか興味がなかったとあります。しかしその彼もパリに来て時代の影響を受け、写実主義、外光派、印象派などの影響を受けていきます。http://www7.ocn.ne.jp/~shiraya/img/aku_hana.jpg
その頃名声と富を与えるのはサロン、「サロン入選」こそが当時の画家を成功に導くただ一つの方法、しかしこのサロンの審査基準に不満を抱く人たちが多くなってきました。マネの「草食の昼食」に感激したした人たちなどが株式会社を作ってサロンに対抗し、絵を売るためにつくった集団が印象派とよばれるようになりました。サロンに入選していた人、出せば当然入っていたが出さなかったドガ,他方、入選できなかった人がこの会社をつくっています(印象派の人の多くが外光派、つまり太陽の光のもとで描くのに対し、この団体の中心人物であったドガは室内で描くことを好みました。またこの人は裕福な家庭に生まれ、法学部に席を置いたことがあります)。このとき部屋に掛けられて人が楽しめる絵をという考えが多かったようです。時代が大きく移り変わるとき生まれたこの人たちの絵は浮世絵の世界、心と通じるところがあります。だから日本人によく理解される一面もあるかと思います。
ここで、それまで印象派を眼の仇にしてきた人について述べておきましょう。ウィリアム・ブグローは、1884年フランス美術アカデミー会長になり印象派の画家達(セザンヌ、ルノワール等)を、サロン出品から落選させていた人物。印象派愛好家を基準にすれば、独善的な非情の極悪人なのであるが...『こんな絵は私にゃとても描けまへんわ!』。こういう絵を描ける人から見れば、印象派の絵はとても見るに耐えなかったと思われます。この人の絵は最近また見直され、評価割れています。
http://www7.ocn.ne.jp/~shiraya/img/bougu_w1.jpg
ウイリアム・ブグローの作品 2点
http://www7.ocn.ne.jp/~shiraya/img/bougu_w2.jpg
← 「兄弟愛」

http://www7.ocn.ne.jp/~shiraya/img/bouguere.jpg

ウィリアム・ブグロー

「蜂の巣」 1892 →

2) 法 学 部

セザンヌは法学部に席を置いたことがあります。法科資格試験に合格したマチスにも単純化などの数学的法則が見られます。法学部は判例に基づき物事を判断する、それは保守的であるが数学的、文科系的科学、ある意味で理科系と考えられます。私は東大紛争の頃、農学部学生自治会副委員長をしていました(医師のあり方に疑問を感じ私のクラスでは私を含め、年代の差はあるもののかなりの友人が医学部に入りなおしています)。医学部から始まった紛争は全学部に広がっていきました。その運動にいち早く染まっていったのは、最年少の教養学部、次に文学部や農学部であったと思います。しかし法学部は最後まで消極的でありました。医学、工学、文学、美術などは常に新しいものを求めます。これに対してなぜ法学部は保守的なのか、なぜ過去の判例を重視するのかと不思議に思い私の弁護士さんに質問しましたことがあります。「法というものは時代を超え簡単に変わってはならない」という答えでした。確かに数学で、1+1=2、物理学で「運動の法則」などは変わってはなりません。そういう意味で科学のなかにも普遍の法則というものがあります。それはそれとして医学を例にとれば、新しい発見や新しい手術法が常に求められるのでしょう。

3) セザンヌ と 父

父セザンヌの父は商売上手で銀行のオーナーにまでなってしまいます。しかし成り上がり者という眼で見られるので息子の将来を期待するようになりました。セザンヌはそんな父の気持に沿うよう努力しますが、絵を描きたいという気持ちは抑えられません。やがて父は息子が画家になりたいという望みを聞き入れます。セザンヌは父を尊敬していましたが、また恐れてもいました。父の気持ち、父の気性が痛い程わかっていたのでしょう。父としてはエクスの街で成功し、名実ともに社会的地位を築いて欲しいと思っていました。その父に報いるため、友達に頼んでサロンに入選します。セザンヌの絵から女性は男性をだめにする魔女であるという考え。しかし、その魅力から逃れられないという矛盾を感じさせるものがあります。そしてその性格は付き合いにくい堅物に見えますが、ピサロのペニスの絵、オランピア、リンゴでパリス(トロイのヘレンの物語をもじったもの)をアッといわせる、などちゃめっけなところも見受けられます。http://www7.ocn.ne.jp/~shiraya/img/cezaport.jpg

セザンヌ自画像

4)モネの「日の出」が印象派の発端 ( 横山 さんのご意見 )
http://www7.ocn.ne.jp/~shiraya/img/sunrise.jpg

モネ の 「日の出」
モネの「日の出」をどのように見たら良いのでしょう?モネはもっと丁寧な絵を描いています。丁寧さは作家の思い入れとも関係があると思えます。タッチを活かすために、筆を置くこともありますが「日の出」の段階ははたしてそれに属する物なのでしょうか?当時、「いかに絵を下手に描くか」という雰囲気があったようにも見えてならないのです。セザンヌの絵は下手に見えますが(私には)大変丁寧です。今回見たエミールゾラの絵も丁寧な筆致でした。造形性の意味として、絵の中の世界の造形性ではなく、絵の外の造形性の丁寧さを感じます。油絵の具をまるで粘土のように扱い、その絵の具の持つ良さを十分に発揮出来るような丁寧さが見えました。これはデッサンの造形性と意味が違って来ます。ブーグローの造形性はデッサンの造形性です。油絵の具の良さを十分活かしているデッサンの仕方をしています。後期印象派の画家たちは印象派を経て、絵の具の良さをさらに拡大したように思えました。その点ではマネは非常に弱いと実物を見て感じました。

セザンヌ


セザンヌ の 絵とは

岡本太郎が、パリでセザンヌの絵とピカソの絵を始めて見たとき、なぜか泣いたそうです。
岡本太郎いわく。泣くということそれは赤ん坊が世に出る時、おぎゃあと泣いて出てくる。
つまり、自分が新しく、生まれ変わるという。それほどセザンヌの絵はすごいかったのだ。

私のセザンヌの絵に対する見方

セザンヌの絵は、モネやルノワールの優しさ、ゴッホ、ゴーギャンの感情、激情、色彩などと比べると、わかりにくい、裸婦にもまったく色気がない、難解な絵である。私から見ると大水浴など、何の色気も無い女の表現。しかしながらセザンヌという人は近代絵画の父とされる人、そして又、セザンヌの絵画は当時の画家たちにも評価されています、事実ゴーギャンも、マチスも彼の絵を欲しがりました。その理由はなぜか?セザンヌの絵は理科系の絵と考えれば理解しやすいと考えます。私自信、理系に進むか文系に進むか迷ったことがあります。文系の方が多くの人に親しみやすいと感じます。物理や化学、数学より小説や歴史の方が親しみやすい。セザンヌの名言「自然を円筒形と球形と円錐形によって扱いなさい。自然は平面よりも深さにおいて存在します。そのため、赤と黄で示される光の震動の中に空気を感じさせる青系統を入れる必要性があるのです。」この言葉から私はセザンヌの絵は理科系の絵ではと思いました。セザンヌの絵には合理性が認められます。明暗、彩度色彩の違いによる前後の関係を考えるとき、手前のものを明るく、または色彩鮮やかに描くことは対象をそれらしく見せる合理性がある、セザンヌは光よりもこの合理性を重んじたと思います。セザンヌは物体を切り取りキャンパスの上で画面構成をする新しい方法を試みた最初の人物と言って良いでしょう。セザンヌの有名な他の言葉に「自然に則してプッサンをやり直す」という言葉があります。これはプッサンの画法のみを意味しているのではなく、自然主義を重んじながらも文学と絵画が融合を目指していた。だからゾラの小説に出てくるタイトルと同じタイトルの絵をみることが出来ます。ピサロなどに影響を受けながらセザンヌは彼なりの絶対の探求を続けた。
晩年は抽象に向かったと言われてます。若い頃の作品を見ると形がはっきりしていますが晩年になると形がはっきりせずタッチと色彩でサント・ヴィクトワールを描いている様に見えます。これがセザンヌの抽象化と言われる由縁と思います。「デッサンと色彩はもはや区別できません。色を塗るにつれてデッサンもできあがります。」というセザンヌ。私は彼が糖尿病により、白内障または網膜症によって、かなり視力が落ちていたのではないかと思うのです。曇り硝子を通して見た景色は形ははっきりせず、色彩はまだらな白を含み、色彩は交じり合い、空は青だけでなく、緑も混じるようになると思います。そんな眼で彼の晩年のサント・ヴィクトワールを見ています。ピカソの晩年の絵もそんなところが見えます。モネ、ドガの作品をそういうふうに見ますと、はっきりモノが見えない状態で描かれた絵は、普通では見えないものが見える絵となると思えます。
http://www7.ocn.ne.jp/~shiraya/img/cezamoun.jpg

ローヴからみたサント・ヴィクトール山
1905

私の友人のAsyuranoteさんのセザンヌ感

セザンヌが「現代絵画の父」と呼ばれたのは、端的にいえば絵画を構成するエレメントたる「色彩、形」そのものの固有の生命を解放したからなのです。つまりそれらに、「何かを表現するための手段としての意義」ではなく造形目的そのものとしての意義をみたということです。その考え方はその後の立体派、未来派等を経てから抽象絵画、現代美術にまで脈々と受け継がれました。このことのもう一つの意義は芸術に「普遍性」を与えたということです。色、形という「造形エレメンツ」は音楽に於ける音符と同じくインターナショナルなものです。つまりそれらは万国共通に理解され得るものということです。

エミール・ベルナールとセザンヌ
この人はゴッホやゴーギャンとも文通しています。巨匠たちの聞き手として最高の人、なぜこの人はこうも巨匠たちと文通できたのでしょう。今であれば携帯で毎日話し合えますが当時は手紙だけです。筆まめで、なるほどそうなんですか、納得しましたと相手にいくらでも話させることにたけていたのでしょう。カーネギーの「人を動かす」という本がありますが、エミール・ベルナールは人に語らせる天才であったと思います。
http://www7.ocn.ne.jp/~shiraya/img/emilbern.jpg

エミール・ベルナール自画像

私の友人でアルザスに住む 横山 さんのお話 ①

セザンヌは白を含めて19色のチューブ入り絵の具を使用していましたが、黒のチューブ入り絵の具は使っていなかったようです。ボラールの報告からセザンヌはテンか臭猫の毛の筆を思わせるやわらかい筆を愛用していたようです。また、色を使う度にテレピン油で筆を洗浄していたようです。ジャーナリストのジェロウが自らの肖像画を依頼した時の報告から人の顔の詳細は一番最後に描いたようです。これらの記述からかなり「色の濁り」を気にしていたのでは無いかなと思います。また、絵の具を乾かさずに短時間で描こうとしていたようにも思えます。油絵の具を使う上で、この方法は「描きにくい」ような方法に思えます。油絵の具の性質に沿うのではなく、反発するかのような描き方にも思えますれば、印象派の絵はとても見るに耐えなかったと思われます。この人の絵は最近また見直され評価割れています。

私の友人でアルザスに住む 横山 さんのお話 ②

セザンヌの意図したい事を言葉で広めたのはエミール・ベルナールです。印象派の絵画はダダイズムと同様に反体制的要素のみで成り立っていることを見抜いていたようにさえ思えます。実としての印象派である「後期印象派」には欠かせない人物のように思えるのです。エミール・ゾラはジャーナリストとして、印象派の伝播に多いに貢献したと思います。けれど、その印象派の思想にセザンヌは少し嫌気がさしていたようにも見えます。コローの流れをピサロが汲み、セザンヌが受け継いだ訳ですが、「見えない物を描く」という印象派にとって肝心の部分は「反体制」の勢いに打ち消されていたような気がします。セザンヌは絵画としての美しさの探求のために田舎へ引きこもったように思えます。
http://www7.ocn.ne.jp/~shiraya/img/miyazaki.jpg私もお上りさんをして、パリで芸術の英気を沢山吸っていい絵を描くぞといきごんで行きましたが、思ったほど絵になる風景に出会えませんでした。「発見こそ芸術」とするなら、発見する物はようような人々の思惑の断片でした。トイレが無いパリ、カフェの役割。地下鉄に乗る人々。スクーターに乗る人々。展覧会会場。国立芸術学校。レアールの映画の試写会。今のパリの最先端の芸術は「日本のアニメ」です。スタジオジブリの作品です。国立芸術学校の展覧会会場で催されているのが宮崎駿展でした。レアールで先行試写会に行列をなしていたのは「イノセンス」という作品です。モナリザの前で黒山の人だかりは中国人です。
町の画廊の展覧会には誰一人お客さんは入っていないで作家がぽつんと座っているだけ。私が参加した展覧会会場は「シテデザール」というパリでも由緒ある場所なのですが、今回の主催団体のNACは日本人の芸術家の集まり。「シテデザールの出品者の質の低下のために、NACでも会場を借りれたのでは?」という噂さえ耳にしました。オリオンさんの画廊にビデオ装置を充実させるという方向は最先端の芸術を追いかける方向として間違っていない事を確認出来ました。

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