|
カミーユ クローデルの作品を調べている。彼女の作品を初めて見たのはオルセーにあった、分別盛り。
カミーユは佐伯祐三と同じエヴラール精神病院に1913年48歳で入院している。佐伯祐三は1928年30歳で入院。 佐伯が入院した時彼女もそこにいたのだ。佐伯祐三と同年代に生きていたということで親しみを感じる。 カミーユとロダン、弟ポールの関係はゴッホのテオ、ゴーギャンとのつながるような気がする。また彼ら、パリに住んだ芸術家たちはギリシャ神話、キリスト教、ローマから離れられないと、日本人である、無宗教で仏教徒である私は敏感に感じ取ってしまうのである。
「女は男で自殺する。男は仕事で自殺する。」
そう考えるとカミーユは男でもあり、女でもある。彼女は彫刻と向き合いロダンと共同して制作、ところがロダンに捨てられる。捨てられると感じた彼女はロダンと別居して自分を取り戻そうとする。だが簡単に自分の未練を断ち切れない。
わかれる時、未練たらしいのは本来、男である。 カミーユは仕事を天性のものとしたため、男でもあり、そして女でもあった。ロダンと別れるための努力は彼女を狂気に追いやった。 弟ポールについて
ポールは姉のカミーユが好きだった葛飾北斎や喜多川歌麿にひかれて日本に行きたいと思い外交官になった。彼は日本文化をこよなく愛し、日仏の交流を進めた。昭和18年、連合国のフランス人でありながら「日本を滅ぼしてはならない、貧しいが古い伝統と美しい心を持つ日本の文化をなくしてはならない。」とスピーチしている。 ロダンについて
彼はやっぱし男代表なのだ。本来女はメスで過去の男をきっぱり捨てる。「別れたら別の人」なのだ。元カレはキモイ。 ロダンは優柔不断、去って行った、女を追いかける。戻ってくるなら、喜んで、、、 もう一度愛するよ。ところが元彼女の存在が大きい。あっちへふらふらこっちへふらふら。 さてゴッホについて考えてみよう。私はゴッホの旅を今も続けている。彼が住んでいたモンマルトルのアパルトメントから始まってアルル、サンレミ、オーヴェルシュルオワーズ、ズンデルトまで何年もかけて旅をしてきた。まだ彼の足跡を求めて歩くつもりだ。佐伯祐三がゴッホを崇拝したように、私も彼を素晴らしいと思う。
そのゴッホについて、弟のテオとゴーギャンに目を向けてみよう。テオは兄の才能を信じ、あらんかぎりの経済的援助をした。そのテオが結婚する、テオはそれまでのように兄を助ける立場を維持できなくなってしまった。嫉妬心にさいなまれゴッホは自殺のふりまでしてテオをオーヴェルに呼ぶ。ところがその行為は本当に死につながってしまった。 ゴーギャンとの関係は男女の関係に思える。 芸術家の理想を追求しようとゴッホは考えた。それに答えてやってきたゴーギャン。ところが芸術家は相いれないところがある。離れたい、離れたくない二人。ついにゴッホはカミソリでゴーギャンを襲う。ゴーギャンに去られたゴッホは精神を病む。 ゴッホ、ゴーギャンもキリストという神の下では同じ存在であった。ともに神を信じている。ゴッホの描く絵には常に神の心がある。 ゴーギャンの描く黄色いキリスト、ひねくれ者とみられる彼を救うものは、やはりキリストであった。 同じキリスト教徒でどちらが幸せだったのか? テオに看取られながら逝ったゴッホ、梅毒で身体を病んだゴーギャン。 ゴッホにとってこのゴーギャンもテオも自分を捨てようとした男であった。 そう考えるとゴッホは女性的と考えてよかろう。 カミーユの作「分別盛り」は北斎の富士を飲み込む波をイメージしたものだ。北斎んも作品は私には美しく感じられる。ところがカミーユにとってはこの波はロダンと二人の女を飲み込んでしまう恐ろしいものに見えた。この作品はロダンとの別居からつくられていく。作品「ワルツ」はド・ヴュシイの音楽性が見られるという。ロダンと別れるためか、つかの間のド・ヴュシイとの恋。それもロダンの魅力には勝てなかったようだ。カミーユの作品にはギリシャ神話も主題にしたものが多くみられる。しかしその作品もロダンへの未練が感じられる。
男と女の関係で面白いのはピカソである。ピカソくらい動物の雄のように生きた男はいないだろう。
続く
|
過去の投稿日別表示
[ リスト | 詳細 ]
全1ページ
[1]
全1ページ
[1]




