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時々人は立ち止まって考えるものだ。浅吉は子供の頃を思い出した。そのころ、アメリカ映画をよく見に行った、そこでキスシーンを見たものだった。
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こんにちは、ゲストさん
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時々人は立ち止まって考えるものだ。浅吉は子供の頃を思い出した。そのころ、アメリカ映画をよく見に行った、そこでキスシーンを見たものだった。
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レミセラブル、ああ無情という映画が話題になっている。子供のころ連続ラジオドラマで聞いたものだ。ジャンバル ジャン フランスは華やかな芸術を生んだすばらしい国だ。
パンを盗んだことから彼の人生は始る。しかしここで考えなければならないのは貧困が犯罪を生むという理念だ。
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この記事を書いた記者は「全国裁判長選任鑑定人」などというものが存在しないことすら気がつきませんでした。その後この記者は、なんとかしようと走り回る。
そのため、また多くの人を迷わす記事を出してしまったようです。 新聞記事1995年11月11日 00:00:00 共T552社会035 ◎「祐三の絵に私が加筆」 故佐伯夫人の書簡発見 支援者に遺作の譲渡懇願 作家像の見直しも (本記) 日本を代表する洋画家として大正から昭和初期にかけてパリを中心に活躍した故佐伯祐三の妻で洋画家の故米子夫人が、かなりの数の佐伯作品を加筆して仕上げていた事実を自ら告白している書簡が十一日、共同通信社が入手した佐伯に関する資料から見つかった。 書簡は、生前の佐伯を物心両面で支援していた精神カウンセラー、故吉薗周蔵氏あて。仕上げの手法を明示し、加筆すれば「売れる画」になるとして、吉薗氏に手元にある佐伯の遺作を譲渡するよう懇願している。 夫人自ら加筆の事実を告白した資料が明らかになったのは初めて。内容が事実とすれば”夭折(ようせつ)の天才画家”佐伯の作品研究の見直しを迫ることになりそうだ。 見つかった米子夫人の吉薗氏あて書簡は全部で十一通。和紙やノートの切れ端に、鉛筆や筆で書かれている。岩手県遠野市に住む吉薗氏の長女明子さん(51)が所有している。 米子夫人が加筆を明かした書簡は縦十八センチ、横十四センチの和紙二枚に鉛筆でびっしり書き込まれているが、日付は入っていない。 全国裁判長選任鑑定人が筆跡鑑定。米子夫人が佐伯の友人の洋画家、故荻須高徳にあてた昭和六年三月二十五日付の書簡と比較した結果、同じ米子夫人の筆跡と判明した。 この記事に関して、落合氏の天才画家「佐伯祐三」真贋事件の真実 p161に下記のように記されています。 折から共同通信社の記者が、別件で落合事務所に来た。明子の依頼により、私は米子書簡の幾つかと、祐三が画用紙の裏に文章を書き込んだ「郵便配達夫」のスケッチを託して、自分に代わって筆跡の鑑定に行ってもらった。多忙を口にする鑑定人も、マスコミ記者を優先するとみえ、大至急で鑑定作業に入ってくれることになった。 結局のところ鑑定の材料は明子氏由来のもの。明子氏がどうやって、「本物の米子の真筆」を手に入れることができたのでしょうか。山田や荻須あての手紙をどうやって手に入れることができたのでしょうか?すべて詐欺師による「作り事」と断定できるでしょう。 市の鑑定ではコピー、吉園側では真筆での鑑定となっています。明子氏はコピーを実筆に変える魔法でも使ったのでしょうか? 落合氏の天才画家「佐伯祐三」真贋事件の真実の問題点は他にも認められます。明子氏の書「自由と画布」 明子氏の父周蔵が残したとされたものをまとめた「佐伯祐三の巴里日記」は あてにならないとしています。 救命院日誌についても佐伯が何度も書き直させたので事実とは違う。 薩摩千恵子のラブレターがなぜ周蔵のところにあるかわからない。 つまり全て逃げ道がつくってあるのです。 矛盾があっても、それは佐伯が理由はわからないが周蔵に書きかえさせたことが原因であると逃げてしまう。
ところが最近の落合氏HP 二元性で佐伯自身が勝手に書きかえていると前言を翻している。
なぜこういうことをする必要があるのか?筆跡鑑定ですでに結果がでている。この鑑定に関して佐伯が書いたことにするほうが落合氏にとっていいことがあるのだろうか?
どうあがいても、裁判結果を覆すことはできないはずだ。
いつまでも嘘を書き続けなくてはならない氏に憐れみさえ感じる。
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>落合氏の本 289ページ 米子が金を得るために絵は周蔵から借用物だという証文について述べている。
昭和9年 牧野が珍しく囲った看護婦の倉田由は、米子と仲良くなって共同戦線を張り、事あるごとに口を挟む。現に「米子さんが義兄から、画会の売上金を取られないように、絵は借用物だという証文を私が書いて、難を逃れさせてあげたのよ」などと言っていた。(中略) その書付が291ページ写真である。押した印鑑も「由」が市中で購入したつげ製の三文判であろう。世のなかには常識というものがある。 一般に仲がよくなったとは言え、他人の借用書を書き判子まで押している、こんなことがありうるでしょうか。 真筆でないと言われて、後だしジャンケンのように、あれは代筆だったからと別の吉園資料がだされてくる。 その頃佐伯祐三の絵は評価されながらも売れていなかった。山本発次郎は佐伯の絵に惚れこみほとんんど代表的なものは手に入れたと書いている。 他に和歌山の玉井さんという佐伯祐三作品の収集家の話もあるが、佐伯ブーム到来までは、今ほどの値段はついていなかった。 勝本英治 佐伯祐三の絵(新文明昭和43年5月号)を紹介しょう。 昭和2年勤め先の仲間に、佐伯祐三と大阪の来たの中学以来の付き合いというのがいて、その仲間から、佐伯がまたフランスに行くことになって、今一口百円で画会をやっている。自分も付き合ったがお前も一口のらないか、と誘いを受けた。(中略) それから間もないある日、案内役の仲間と兄と3人で落ち合いの佐伯のアトリエを訪ねた。(中略) 佐伯は愛想よく向かいいれると、取り散らかした壁際からあれやこれや絵を出して見せてくれた。(中略)私は「鉄道工夫」をとった。20号で号当たりにすると5円だった。 佐伯の遺作がフランスから帰ってきた。 例の仲間に誘われ遺作を保管している落合の外山卯三郎氏のお宅を訪ねた。その数とすばらしさに圧倒され、帰ってから前の値段のようにはいかないが、なんとか分けてもらえないだろうかと仲間に頼んだ。暫くして遺作の全部は未亡人の手を離れて、大阪の本家のほうに引き取られた。縁は遠くなった。 この絵を「鉄道工夫」昭和4年一五〇円で手放す。 戦後銀座で佐伯のアトリエで見た「緑色の家」の絵を画廊の飾り窓で見て、中に入って訊ねるとまだ第一回滞渡欧作が2点ほどあり、出所として高名な美術評論家の名前を教えてくれた。値段はそれぞれ5万円づつだという。「緑色の家」の絵は佐伯の第一級に属する作品で無理をすれば変えない値段ではなかったが、、、、 それから5,6年して礼の画廊に立ち寄り、第二回滞渡欧作「サクレクールの白い屋根が見える絵を見る。値段80万と聞いてあきらめる。 思えば新入社員の頃、ボーナスの使い残りで買えた事もあったのだが、いまは取締り役とか何とか肩書きを持っていながら、2年か3年のボーナスをためねば手が届かないのである。 それからまた何年かしてブリジストン美術館に行った。 最後の部屋に「鉄道工夫」がかかっているのに出会った。ニスが塗られ、立派な額縁に入っていたので咄嗟に似た絵かと思ったが、近寄ってみたら、昔私がつけた傷がそのまま残っていた。 絵の具の塊がひび割れたまま付着していたのが気になり、触ったら剥がれ落ちてしまったのだが、その跡がそのまま残っていたのである。40年前のことが昨日のことのように思われた。 (中略)かっては私の部屋にかかっていた絵であるが、今この絵と私との間には到底達することのできない断絶があると見えた。 40年間の有為転変で、私はそのときよりも一層無力で見捨てられた存在になっているのが痛感された。 |
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