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命の理由
さだまさしさんの歌にはいつも感心させられる。なぜこんなすばらしい歌をつくれるのだろう。「精霊流し」など悲しい歌から「雨宿り」「亭主関白」「亭主失格など」面白い歌までさまざまである。
今年6月に10歳年下の弟が突然亡くなった。ずいぶん個性的な人間であったので彼の死のインパクトは大きすぎ、なかなか立ち直れなかった。私に兄貴、兄貴と慕ってくれ、またその一方、あちこちで諍いを起こし私を悩ませた弟。感情の起伏が大きく怒り狂う時もあったが心根はやさしい人間だった。
兄弟の大きな絆は突然死という形で砕かれてしまった。安らかな顔で眠る弟に「健二、健二」と呼びかけたが返事はない。
なぜ人は生きていくのか?すべての人は遅かれ早かれこの世を去ることを運命づけられている。
お通夜で、親戚が集まる中、私はいつの間にか「命の理由」を小さな声で歌っていた。従妹がその歌もう一度歌ってと言われて自分が歌っているのに気が付いた。
「私が生まれてきたわけは父と母とに出会うため。私が生まれてきたわけは兄弟たちに出会うため。私が生まれてきたわけは友達みんなに出会うため。私が生まれてきたわけは愛しいあなたに出会うため。春来れば花おのずから咲くように秋来れば葉はおのずから散るように幸せになるために人は皆生まれてきたんだよ。苦しみの花のあとからは幸せの実が実るように」
生まれてきて最初に会う人は父と母、そして兄弟。
人は皆幸せになるために生まれてきたんだ。
弟は幸せだったのだろうか。彼の人生に少なからず関わってきた私ですらそれには答えられない。
果たして幸せとはなんだろうか。幸せと感じる瞬間はあっという間に消えてしまい、日常の世界ではそれを感じることは少ないのではなかろうか。
戦争で爆弾が降ってくる世の中に生きていると、爆弾の降ってこない世界が幸せな世界。食べ物のない世界では食べ物がある世界が幸せな世界。
不幸せでなければ幸せなんだと結論づければ、普通に生きていけることが幸せということになる。
永久の別れとなったが弟、健二は何も言わず私の心の中に生きている。
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父の死
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実は吾輩は京都がもともとあまり好きではなかった。京都の茶漬けの落語にでてくるようなけち臭い場所とみていたからである。京都着倒れ、大阪食い倒れ。京都人は他の家に行くとタラフク食うくせに、自分の家では玄関先にほうきを立てて玄関先で茶を出して「早う、お帰り」そういう印象がしっかりあるからだ。
昔、京都のレストランでカツ丼を注文、量の少なさ、そのまずさにがっかりし、大阪に行ったら、安くてうまいものばかりでほっとしたことがある。。
今回久しぶりに京都を訪ね、その変貌ぶりに驚いた。ステーションビルはレストランや土産物やがいっぱい。京都のメインストリートは観光客が喜びそうな店が立ち並んでいる。京都も東京化したということだろうか。
東京では次々と高級店が店じまいいしている。京都ではまだそういうことはおこらないようだ。
2次会は中野先生の紹介できれいなお店に。関西弁の会話を楽んだ後ホテルに帰る。立派なホテルに寝るだけとはもったいないと思ったが、朝の8時半まで熟睡。朝食をとってロビーに集合。
3台のジャンボタクシーに乗って朝の京都見物に出かけた。
寺院を二つ見せていただいた。中野先生の知り合いの方がお坊さんだそうで、特別に天皇家のご位牌を見せていただいた。日本庭園と屋敷を楽しんだのち京都の湯豆腐料理、豆腐料理を味わいながら和やかに時をすごす。この後京都駅でお土産タイム。
高校生の女の子たちが次から次へと踊っている。チアガールの大会のようだ。吾輩は医家芸術クラブの写真部でもあるので、これはいい写真になると思って写真を撮っていると、事務長の上原さんが「先生、あやしいおじさんに見られますよ」と声をかける。そうかしら?女の子を撮るとあやしいおじさんかなあと思ったが「じゃあ、代わりに撮ってくれる」とカメラをわたした。きっとよい写真が撮れたと思う。新幹線で東京に帰ってきた。清水先生は酒をあまり飲まれないそうで酒の席で真面目そうに見えた。しかしさすがの豪傑たちも東京に着くとそれぞれ岐路につく。ところが秀先生が新宿で食べていこうという。ツナハチよいう新宿地下街にあるお店だ。客の込み合うなか、秀先生のお得意メニュウを注文。吾輩は最近、腹がでてきたため涙ぐましい努力を続けていた。ところがここの料理はうまい。さしみはシマアジ、カツオ、バクライ、連ぷらはカキピーマン、ハマグリの姿焼き、レンコン、最後にでてきたのはミニテン茶。またまた腹がでてしまうだろう。
「じい、元気で長生きしろよ」と言われた竹本先生も結構食べたと思う。鈴木、中野、井上先生方も食べた食べた。。おいしいでしょうと秀先生。
東京では地下街で大衆向けだが、すごい店があるものだ。
これまで、幾度となく医師会旅行に参加したがこれまでに経験したことがない初めてのことが多かった。他医師会より安藤先生も参加しておおいに盛り上がった。次回も他医師会の親しい先生方にもお誘いをしてみたらいいかもしれない。
まあ大当たりの年だ。
ひょっとしたら3億円あたっているかもしれない。当たっていたらと捕らぬ狸の皮算用をたのしんでいる。
来年の旅行が楽しみだ。小平医師会は吾輩のような猫ではなく野獣派、フォービストをも、和やかに包んでくれる。小平医師会員であることを誇りに思う。
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吾輩は猫ではない。小平に眼科を開業するれっきとした人間である。
吾輩が小平にやってきたのは平成2年であるから、猫であるとしたら22年以上生きている化け猫である。
さて今年2012年は吾輩にとってはたいへんな当たり年になってしまった。吾輩はもともと内気でシャイな人間で通っている。。他所に行くと借りてくたになってしまう。テレヤで恥ずかしがりである。ところが今年は最初から普通の年月とはまったく異なった日々となってしまった。この内気なシャイな人間に今年はこれでもか、これでもかといろんなことが降りかかってきた。
まずその一つはこの研修旅行記を書く羽目になってしまったことである。医師会旅行ではわが故郷、明石は志願して旅行記を書いたが、それ以外はくじであったたことことはない。今年は当たり年だ。このくじにあたったついでに宝くじを1万円も買ってしまった。お楽しみは続く。
しかしこの旅行記を書く前に今年おこったこと記し我が思い出の記として後世に残しておきたい。
今年は巴里の友人の家でのカウントダウンから始まった。フランス人は炎が好きである。ドラクロアの「民衆を導く女神」は旗を高く持ち上げている。最近は混雑がすごく見かけられないが昔は大晦日のシャンゼリゼでもよく見られた。赤い火をかかげ歩いく青年、旗のかわりに赤い炎のタイマツをかかげ歩き続ける。暗い闇に赤い炎、これを取り囲む集団が一緒に行進。一晩中騒ぎまわり、ビール瓶をわる。元旦は割れたビール瓶がよくみかけられた。
ここ数年はあまりに混雑がすごいので、シャンゼリア通りには行かず友人たちの家で過ごすことが多い。巴里の郊外に住む友人の家で30人くらいでカウントダウンを迎えたのだ。庭で仔豚の丸焼きをつくった後、パスカルやチェリーがあたかも女神のように赤い火をともす。パスカルは私の好きな画家ブラマンクによく似ている。大柄だが優しい男だ。久しぶりに炎の風景を目にした。この赤い灯はは煙を赤く染めそれをかがす人を神秘的に照らす。こうして私の2012年は始まった。今年が大変な年になるとは思ってもみなかった。
佐伯祐三という画家を長年研究してきた吾輩はヴァンブ五番地に行きたくなった。このヴァンブは今や名前が変わっているが、そこにタクシーを飛ばして写真を撮ってきた。佐伯祐三の巴里での最後のすみかとなったところである。地図をもって歩いていたら、「どこか探しているのか」とやさしいフランス人、彼のおかげで佐伯のアパルとマンに入ることができた。これまでもなかなかできないことをやってきた。(ロダン美術館で接吻という彫刻が余りにも美しいので女性のお尻に触れてみた。幸い逮捕されず、無事日本に帰ってきた。皆様内緒ですよ。)
次にポルトガルに立ち寄り、バスコダガマの墓がリスボンにあることを知った。。今年は初めての体験が多い。台湾に寄り、元、日本人町を訪ねる。吾輩のルーツの一つである羅東、ここで五福眼科にいきなり電話。翌日90歳過ぎた美しい日本語を話す女性と会うことができた。昔、吾輩の母や祖父が住んでいた頃の写真を見せて、母親の住んでいたところを聞いてみた。すばらしい日本語が帰ってくる。羅東という町に昔は多くの日本人が住んでいた。五福眼科は台湾でも有名な眼科となっている。終戦時日本人の内科の先生から陳五福先生が買い取ったそうだ。母の記憶だと当時は自宅の庭にバナナの木があったそうだ。今羅東にはバナナの木はないとのこと。次回我が家を探しましょう、サイチェン。
台北では孫文記念館を訪れた。ここを訪れる事になったのもなにかの縁だろう。8月はいつもヨーロッパに行くのだが父が体力がなさそうだということで久しぶりに夏の明石に帰った。セミが鳴き太陽まぶしい。アランドロンの「太陽がいっぱい」と同じ光が海を照らす。すぐ近くにあるのだが、一度も言ったことがない六角堂に行ってみた。孫文の記念館は日本にもあるのだ。それは六角堂、明石大橋のたもとにある。淡路島と海がまぶしい。孫文の歴史が残っている。中国は今はいやな国だが孫文の頃は違う。神戸の中華街の人々や日本の文化人が孫文を支援した歴史や孫文の文字が残されている。その後佐用に行ってアユを食べた。ここでは1時間かけて炭であぶったアユをだす。頭まで食える、実にうまい。ここでしかこの味は経験できないであろう。
さて話を父に戻そう。実はこの6月、「佐伯祐三 哀愁の巴里」という本を出版した。長年かけてついに出来上がった本である。私が投稿した日本医家芸術クラブの機関誌をいつも父に送っていた。90歳を超えても一生懸命読んでくれていた。たまに家に帰ると「顔見るだけでええねん」と無口な父がうれしそうにしてくれた。その父はこの夏は無口であった。内科につれていったり、ご飯を一緒に食べたりしたがまともな話はできなかった。
しかし「佐伯祐三 哀愁の巴里」はいつも枕元に置いてくれていたようである。
東京に帰り日常にもどるが8月25日弟から父の様子がおかしいと連絡がある。土曜日であった。気になり何度か電話。1時半に電話したら、弟が「親父死んでもた」
すべてをキャンセルして新幹線に急ぐ。94歳まで生きていてくれた父に感謝、食い物のない時代、一緒に川でサツマイモをつくったり、川で魚を捕ったり、いい親父に長い間見守られて生きてきたのだなあという感謝の気持ちが悲しみを和らげてくれた。今年はとんでもない年であった。お通夜やお葬式を初めて我が手で取り仕切る。大急ぎで東京に帰りまた日常生活に戻る。会議、美術展、写真展などに忙しい毎日。いつものように日々が過ぎ、ついに小平医師会旅行に日がやってきた。
澄川先生と山之内先生とご一緒に東京駅に、新幹線に乗り込む。総勢19人、井上先生がぎりぎりセーフ。今年こそ周りの人に迷惑をかけないようにと気を使う事務局。
始まりました。乾杯!
今年はお内藤先生、岩崎先生の二人奥様も参加されおおいに盛り上がった。
小平医師会は新幹線に乗ると花が咲く。
京都を訪れるということで日本の歴史、世界の歴史、食の歴史など格調高い話題が主となった。ビール、焼酎、洋酒を楽しむ。竹本先生は最年長でいらっしゃるせいか、酒の飲み方えお心得ていらっしゃる。ビールを一杯のみ京都まで。
京都に近づくと山之内先生がおなかを揺らしながら後ろにいた子供連れの団体客に、「お父さんにこれ」と、あまったビール缶などを振る舞う。彼らはまだ先が長い旅のようだ。喜びの声が湧き上がる。またまた残った酒類を持って行こうとすると、「こっちにも」と、昔は御嬢さんだった女性たちたちの黄色い声。山之内主水の将は、「どれどれ」とやさしい笑顔であまったビ「ールやつまみをふるまう。いよー大統領!、、
京都駅でなんともと小平医師会元スタッフに会う。なんとした偶然。事務長に後で、「相変わらず
、白矢先生はダンデイで」とメールがあったそうな人間褒められたことはしっかり覚えているものだ。これからももっと、褒めて、褒めて!
ホテルは駅の中にある、なかなかしゃれたホテル・グランピア。今年10月に医家芸術の写真展で推薦賞をさる先生が取った場面に出くわした。ホテルの通路から下の改札口が見える。ここは確かにいい写真スポットだ。
チェックインしてから、すぐ出発。タクシー3台で一力へと向かう。鴨川にそって車は進む。結構渋滞。行楽シーズンはほとんど車が動かなくなることがあるそうだ。
一力亭の近くでタクシーを降りる。
歩いて一力亭へ。なんとカメラを構えて身構えている人たち。おっと襟を正して胸を張り背筋を伸ばしとポーズをとろうとしたが、どうも我々を狙っているわけでないらしい。舞妓さんがここにに入るのをを知っていてシャッターチャンスを待っていたようだ。
一力亭では愛想よく袴の男性たちが部屋まで案内してくれた。
狭い部屋に通された。秀先生がここは控室だよと説明。なるほど狭くて暗い。おのぼりさんさならぬ、一泊2日の都落ち一行は待合室でまたされるのかと思いきや、ふすまが取り外され隣部屋と一緒になった。なるほどそういう仕掛けだったのか。吾輩の故郷の家もそういえば法事なんかの時は襖を取り外したものである。
そうするうちに芸子さん、舞妓さんが続々登場。「そうどすなあな」などと京都弁を話すが、なんと生まれは東北という。芸子さんも少なくなっているそうで、京都生まれは少ないようだ。
一見の客お断りのお店の料理と酒は、舞妓さんとの会話の中でもぐもぐ味わったせいか、うまいのかどうかわからないで終わってしまった。最後のまったけごはんは人気があったようだ。東京でも安くてうまいものはあふれており吾輩のような田舎育ちでおまけに都落ち人間にはちょっと比較するだけの能力に欠けていた。しかし少なくとも巴里のリドやムーランルージュ、ラスベガスのデナーショウの食事よりは親しみがある。ショウとしては短い時間で他国にないという点で評価できる。向島で芸者さんや太鼓持ちのいるところに招待されたことがあったが、その時は少人数であったので、また違った味があった。旦那衆の遊びを身近に見た思いがした。今回はツアーご一行という人数であったので限られた時間内の精一杯のおもてなしであったのだろう。食事が終わりつかの間の静寂。金屏風だけが舞台に残されている。誰か踊れという声がしたので、小心者の吾輩は「おさるのカゴヤ」をちょいと踊らねば、と踊りかけたら、なんと芸子さんの踊りが金屏風の前で始まる用意。大急ぎで席に帰る。まあ、下級武士も当時はドンチャン騒ぎをしたらしいから、まあいいか。と三味線と笛に合わせ4人の芸子さんが踊る。盛んにフラッシュがたかれる。吾輩は4人の中で誰がいちばんきれいだろうなどと下賤な考えで鑑賞した。おおいに盛り上がる。山之内先生が特等席に座り横列に座っている竹本先生に「じい、長生きしろよ」と声をかける。。面白い会話がとびかう。
吾輩はムーランルージュやリドのショウなどは10年ごとに見ている。リドやムーランは10年間毎にじショウを変える。それを4回見ているということはずいぶんとパリに行ったということになる。ムーランルージュのショウは昔は風情があったが、最近はアメリカナイズされてどんどんバチバチが多くなって、頭に残らない。それを思うとの本の踊りはよかったと思う。
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