| ゾラhttp://www7.ocn.ne.jp/~shiraya/img/zolamini.jpg | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | セザンヌは長男であり、ゾラは一人っ子でした。以下に少し3人兄弟の性格について述べてみたいと思います。
| | a) | 長男は頼まれたら嫌といえない所があり、また指導者に向く。しかし、とっつきにくくぶすっとしたように見える。職業なら大統領。 | | b) | 次男は間を取り持ち、人受けがよく、その人がいるとまわりが明るくなる。職業は外交官。 | | c) | 3男は可愛がられ上手、職業はピエロとか。人に笑ってもらえるものが向いている。しかし、注意しなければいけないのは社会に出たときのギャップである。可愛がられるのが日常となっているため、社会の非情さに過剰に反応してしまうことがあるからです。 |
| | 一人っ子のゾラはは3人兄弟のいいところばかり持ち合わせるように見えます。といいますのはゾラを見る場合、新聞による画家の啓蒙、擁護を行う指導的役割、小説の成功による賞賛、多くの画家との交流。いいところばかりあるようです。セザンヌは後に小説家となるゾラと友達になります。セザンヌとゾラはエクスで少年時代をともにしました。 | http://www7.ocn.ne.jp/~shiraya/img/victoire.jpg
サント・ヴィクトール山 | ゾラがいじめられているのをセザンヌが助け、翌日ゾラがリンゴを持って御礼に来ます。「助けてくれてありがとう!」バイユとゾラとセザンヌはエクスの田舎で自由を楽しむ、学生時代...なんて素敵な日であったでしょう。働かなくても、朝まで寝ていても、徹夜マージャンをしても、異性に声をかけても「学生さんだから」と大目に見てもらう。また、自分でもいつまでもそれが続くと信じていた...しかし、一旦社会にでると、働くのが当たり前。そうしないと「なにしとるんや?あいつは!」ということになります。セザンヌは少年時代を夏のセミのように、秋の風に乗る赤とんぼのように快く過ごしたのでしょう。セザンヌにとってゾラたちと遊んだサント・ヴィクトールのふもとは生涯思い出の地となります。 | | 泣き虫ゾラはパリに出て逆に強くなりたいと思いました。過去の遺物と思うサロンなどに戦いを挑みます。ゾラはセザンヌに「田舎で埋もれる気か、都会に出ておいで」と言い、パリに呼び寄せます。二人はパリの町を散策します。一緒にサロンを見たり、マネの絵を見たりして、昔のように話し合います。「ゾラ君、ぼくはこう思うんだ。絵とは理論なのだ。絵とは見たままではない。写生ではないのだよ。画面を構成し、一つ一つが生きていて語りかけてこなければならない。そのためにはどう描けばいいのか?マネの絵には革新性がある。しかし、これだけでは物足りない。もっと時代性を出し、色彩も考えねば。そして、構図というものも科学的に考えて描いてみなければ。マネのオランピアについての僕の意見はこうだ。あの女は娼婦と思うが、同じ人に非難されるならもっと本気で描くべきと思うが。巷に娼婦が溢れている。僕がもっと直接的な、この時代の売春を赤裸々にしてやるよ!」「セザンヌ!君の洞察力にはいつも参っている。この時代の醜さや真実をそのまま描いて欲しい。君の絵をわからないという奴のことなどかまう必要がない。僕等はエクスで走り回り、飛び回った。金のことも明日のことも考えず、ミツバチがきれいな花をさがすように芸術に向かっていった。僕は君のその純粋さに引かれているのだよ!」「サロンにこの絵はむいていない。落選確実だ!しかし、すこし絵のわかる奴がいれば、ひょっとして入選するかもしれない。新しい風を吹き込めばいつか頭の固い連中も変わるだろう」。 | http://www7.ocn.ne.jp/~shiraya/img/ulvi_min.jpg
ウルビノ の ビーナス | http://www7.ocn.ne.jp/~shiraya/img/olym_min.jpg
オランピア | http://www7.ocn.ne.jp/~shiraya/img/mode_min.jpg
モデルヌ・オランピア |
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セザンヌがどのように糖尿病 DM(DM:Diabetes Millitus)と診断されたか、治療は?と考えてみました。糖尿病は初めて2世紀頃カッパドキア(現在のトルコ)の医師アレテウス(Aretaeus)が多尿症について記載し、豆を食べることをすすめています。糖尿病はギリシャ語でサイホンという意味で、水を飲んでもどんどん出てしまう状態をさしています。1797年ジョン・ラロウ(Jhon Rollo)による食事摂取による尿の甘味の違いの記載があります。古来、糖尿病は恐ろしい不治の病でした。
糖尿病の歴史について少しふれてみます。
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アルタエウス | | 1800年代初 | 尿中のブドウー糖の検出方法が確立し糖尿病診断の決めては尿糖の有無と考えられました。 | | 1870年 | 普仏戦争時、パリはプロシャに包囲され食料不足になります。フランスの医師のブーシャルダは彼の糖尿病患者の尿糖、ケトン尿の減少、消失、心臓症状の改善に気付きます。そして1875年初めて食べることを少なくすれば良いと食事療法について記載しました。そしてまた糖尿病の原因が膵臓にあると推測した最初の人間でした。糖尿病患者やそのためになくなった人のバイオプシー(生検組織診断)により、膵臓の萎縮を発見。犬の膵臓摘出により糖尿病の発現を証明しょうとしました。残念ながらこれは犬が死亡したため失敗に終わりました。 | | 1889年 | ドイツの医師オスカー・ミンコフスキーとフォン・メーリングのイヌの膵臓摘出により糖尿病と膵臓の関連が証明される・ | | 1901年 | アメリカの病理学者ユージン・オピーが糖尿病は膵臓内にあるランゲルハンス島不全によると報告。 | | 1922年 | カナダのフリデリック・バンティングとチャールズ・ベストがインスリンを発見する。同年1月、14歳のレナード・トンプソン少年に世界で初めてインスリンが投与される。 |
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セザンヌは、1906年67歳でなくなっています。セザンヌは20年間 糖尿病。一度だけ医師に相談したとあります。セザンヌはエクスの街から山のアトリエまで毎日歩いていました。これは良い運動療法です。また、贅沢はせず質素でした。とは言っても、あのアトリエのお勝手では質素な食事しか作れなかったでしょう。セザンヌは知ってか知らずか、自ら良い治療をしていたと思われます。 | |
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| http://www7.ocn.ne.jp/~shiraya/img/kakke.gif | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | 佐伯は1924年大正12年12年11月26日香取丸に乗り、
翌1月3日パリに到着。
この頃の船の旅で食事はどうであったか。
現在日本の死因3大死因は 脳梗塞、癌、心筋梗塞、
当時は腸チフス、結核、脚気。
脚気は昔恐ろしい病気であった。脚気細菌説を支持したのが森鴎外。
| http://www7.ocn.ne.jp/~shiraya/img/kakkebun.gif | 森鴎外はドイツに留学している。
陸運省に陸軍軍医副として勤務
1884年 22歳 陸軍省の命でドイツに留学
1888年 26歳 ドイツから帰国
1922年 60歳 7月9日死去 |
| ドイツのロベルト・コッホは1876年、炭疽菌の純粋培養に成功し、炭疽の病原体であることを証明した。このことによって細菌が動物の病原体であることを証明し、その証明指針であるコッホの原則を提唱した。病気が細菌によるという考え方は森鴎外のころ、広く支持されていたでしょう。
1885年緒方正樹 脚気菌を発見したと発表これを最後まで支持したのが陸軍軍医総監、森鴎外。 このため多くの軍人が脚気で死亡。
これに対し高木兼寛は海軍省に入ってから1875年イギリス留学、疫学、栄養学などを学ぶ。(日本の海軍はイギリス海軍を模範としていたので、イギリス医学を採用、陸軍はドイツ医学を採用)高木兼寛は脚気は食物摂取に関係するのではと疫学的な考え方で、この病気に取り組み、二つの軍艦の兵士にそれぞれ、白米だけ、麦をまぜたものを食べさせ、食物が関係することを証明、海軍は陸軍と違い脚気をなくす。
1910年鈴木梅太郎がビタミンB1が脚気を予防すると発表。1924年大正12年12年11月26日香取丸の佐伯の乗った船ではすでに食事はバランスが考えられたものだったのでしょう... |
以下 WIKIPEDIA (パソコン百科事典) の引用 | 森鴎外 ドイツ留学時代
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鴎外は当時軍隊内部で流行し、軍事衛生の上で大きな問題となっていた脚気の原因について細菌による感染症であるとの説を主張し、のちに海軍軍医総監になる高木兼寛と対立した。あくまで自説に固執し日露戦争でも兵士に麦飯を支給するのを拒んだ(自ら短編「妄想」で触れている)ため、陸軍が25万人もの脚気患者を出し、3万名近い兵士の命を犠牲にしたことについて責任があるとされる(同時期、高木の指示で兵員に麦飯を支給していた海軍では脚気患者は軽症者がわずかに発生したのみで、死者は無しと伝えられる)。「ロシアのどの将軍よりも多くの日本兵を殺した者」との批判すらある。一方、森を擁護する意見としては、生活的に決して裕福ではなかった下士官・兵たちの「軍隊に入ったのだから白米を食いたい」(当時麦飯は囚人や貧乏人の食事とされていた)という主張があったことを考慮すべきであるとの説もある。
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しかし脚気の項目で詳細が記されているように、麦飯を採用していた海軍において脚気による死亡者が無かったことを考えると、鴎外に対する擁護は信奉者による過大評価と言っても過言ではなかろうと思われる。日露戦争終戦直前、業を煮やした陸軍大臣寺内正毅が鴎外の頭越しに麦飯の支給を決定、鴎外の面目は全く失われた。「予は陸軍内で孤立しつつあり」とは、この頃の鴎外の述懐である。
後に鈴木梅太郎が脚気の特効薬であるオリザニン(=ビタミンB1)を発見し、オリザニンと脚気との因果関係が証明されて治癒の報告が相次いだ後も、かたくなに鈴木と学会の見解を誤りであるとして糾弾したとも言われており、医学界での孤立をますます深める結果になった(結局、鴎外は死ぬまで「脚気は細菌による感染症である」との自説を撤回しなかった)。
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高木兼寛
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佐伯祐三 「クラマール」 1928 | クラマールに行ってきました(平17末)。パリからすぐのところです。佐伯が首をつったと言う森、教会、家など、日本と違う油絵になる風景でした。
クラマールの佐伯の住まいや首をつったとされる森は駅から20分くらい歩いたところにあります。佐伯の家は山手で教会の近くです。なぜ佐伯ははるばる死に場所を求めてクラマールの森に行ったのか?ブルヴァール・デュ・モンパルナス162乗り物ではるばるクラマールに行き歩いて森に入っていく。そこで首をつる。
この森は今では散歩道があり、犬を連れた人に雪の中で出会いました。しかしこの近辺はそう人が通るところではなかったはず。
6月20日佐伯は姿を消す。
5フラン、顔見知りのホテル・パックスのマダムに5フラン借り、クラマール(ムドンの森)に向かう。クラマールの村役場前のカフェの主人は1人の東洋人が一休みして森に行くのを記憶していた。ブローニュ警察から夜10時佐伯保護の連絡あり。 (中略)
| 佐伯のこのときの気持ちは本当のところどうであったのか。
自殺することをわざわざ人に知らしめたように見え、また結局死に切れず、友人の前で芝居がかったようなことをしている。クラマールに行くまではかなりの時間があり、自分の行先を知らしめるような行動をしている。死ぬぞ、死ぬぞとふれ回りるヒステリーに似た行動を取っている。つまり本当は死ぬことが目的でないように見える。
彼は草としての自分、米子の加筆になやんでいたのではないかという疑問がおこる。パリでのホテル住まい一つをとってもかなりの大金が必要。この金は兄からだけの仕送りであったのか?草だから得られた金ではなかったか。
草とすれば彼の草としての記録は本願寺に送られたはず。草として文章を書けば書くほど彼の心はゆがんできたと思われる。絵にしても自分本来のものを求めて現実から逃避したくなっていったと思われる。このままでは俺は死ぬぞと周りのもの、自分にも言いたかった、知らしめたかった。
自分本来にもどりたかったのが本音ではなかったのか。
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ムドンの森 |
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