指の斥候たち

験なき物を思はずは 一坏の濁れる酒を飲むべくあるらし

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 横浜から東京にかけて、通称 「 湾岸地区 」 と呼ばれている地域は、古い SF映画にしばしばでてくる未来の都市のような情景を見ることができる。 広大な羽田の飛行場を始め、コンビナートの並ぶ重工業プラント、大型商業施設に高層ビル、高層マンション、巨大なブリッジと空中に巨大なループを描いたインターチェンジ、縦横無尽に拡張する首都高速道路…。

 現在のこの情景からはとても思い浮かべることができないが、この湾岸地区の、とりわけ大森から品川付近を中心とした辺りの沿岸は、かつては房総の山々から霊峰富士まで望むことができ、遠浅の海岸は水が澄み、海老や魚貝も多く棲息し、晩のおかずには困らないというほど、自然に恵まれた土地柄だったといわれている。

 今回は、「 森ヶ崎鉱泉探訪記 」 ということで、森ヶ崎(現在の大田区大森南近辺)を歩いてみることにした。 自宅からは京浜急行一本で行けるので手軽なコースではあるのだが…。

 まずは、この大森近辺の歴史、とりわけ 「 大森海岸三業地 」 を振り返ってみよう。

 三業地とは、芸妓置屋、待合、料亭の営業が許可されている区域をいい、花街もほぼ同じ意味である。 もっとも花街とは、芸妓屋などの集まる地域と、遊廓が集まる地域の両方を指す言葉だが、戦後に遊廓が廃止されたため、現在ではもっぱら芸妓屋などの集まる地域を指すことが多い。 現代では、「 はなまち 」 という読みかたが一般的なようだが、「 かがい 」 が本来の読みかた。 こちらのほうが風流というか、オツである。

 明治24年(1891年)初夏、潮干狩りなどの行楽地として知られていた大森海岸に海水浴場が開設された。 旧東海道に鉄道と、交通の便が良かったことから、すぐに人気の行楽スポットとなった。 これに便乗し、この地で古くから開いていた茶屋が料亭となり、明治27年には付近から鉱泉が湧き出たこと、日清戦争の好景気に沸いたことなどから、待合、料亭、芸妓屋が次々に開店、日露戦争後には後にこの花街を代表する芸妓屋が営業を開始し、大森海岸は花街として賑わうことになる。 その後、明治後期から大正期にかけて、品川海岸、大井、大森海岸、大森新地、森ヶ崎、さらに羽田の穴守にまで花街は広がり、最盛期には 400人近い芸者が在籍し、この辺りでは昼間から三味線を奏でる音色が聞こえてきたという。 

 しかし、花街としての歴史もそう長くは続かなかった。 関東大震災前後がこの辺りの繁栄のピークで、昭和に入り、戦争の足音が聞こえるようになると、周辺に軍需工場が乱立するようになり、華やかな街の様相は徐々にカーキ色に変貌していくのであった。 戦争が終わると、復興による埋め立てと工業地帯としての再開発などで地域の環境が一変、花街としての大森は廃れ、現在は芸妓置屋も大井などにわずかな軒数を残すのみになってしまった。

 現在、この付近の地図を眺めてみても、海岸線はおろか花街の様子さえ頭の中に描くことは難しい。 もっとも、三業地とか花街とか芸妓、遊女などといっても、僕らの年代の者にはピンと来ないのも事実。 遊郭などといっても、赤線がなくなったのは僕の生まれる遥か以前の話。 現在では、三味線や唄などの芸を習得した芸者も、芸も何ももっていないコンパニオンと同意語にされている始末。 まともな芸者さんから 「 三味線や唄を聞いて楽しいか?」 と質問されたら返答に困ってしまう…。 

 次に、今回の題目となっている 「 森ヶ崎鉱泉 」 についても説明をしておこう。

 明治32年(1899年)森ヶ崎海岸至近の畑の畦を掘ったところ、鉱泉が湧き出した。 この鉱泉の湯は、沃度含有量の高い赤黒く濁った湯が特徴で、皮膚疾患やリウマチなどに効能があることが認められた。 明治35年頃から、大森海岸三業地に倣い、森ヶ崎にも鉱泉旅館が建ち始め芸者置屋ができると、新興の二業地がお目見えした。

 この辺りは、当時は開発がほとんど行われておらず、湿地帯が多く残っていて、葦が茂る鄙びた静かな土地柄は、海水浴場や遊興施設を備えた行楽地、保養地として人気を集めたという。 種村氏によると、氏お気に入りの文士たちも好んでここを訪れていたそうである。 人目を忍んで妾と逢うのに丁度いい場所だったようだ。

イメージ 3 しかし、この森ヶ崎鉱泉も戦争を境に衰退し、最後まで残っ
ていた割烹旅館が軍需工場関連施設に利用されるにおよび、
森ヶ崎鉱泉はその短い歴史を閉じていった。 現在の森ヶ崎
は、他の三業地と同様に行楽地、保養地として栄えた頃の面
影はなく、森ヶ崎の地名も現在は大森南と実にさえない地名
に変更されてしまっている。 森ヶ崎鉱泉の存在は 「 日蓮宗
魄光山大森寺 」 の境内にひっそりと立つ 「 鉱泉涌出の碑 」
が伝えているだけである。
 
 僕はこのルートを歩きだす以前から、ある種空しさのような
ものを感じていた。 地図を眺めても、そそられるようなものが
ほとんどなく、また車を運転中に見るこの辺りの景色もほとん
ど記憶になく、都内中心部に行くときの通り道程度にしか感じ
られなかったからだ。 往時の森ヶ崎を知る人や、戦前・戦中・
戦後を知る種村氏の年代の人ならともかく、戦後 20年も経っ
てから生まれた僕が、果たしてこのコースを歩いて何が楽しい
のか? いや、楽しいとか楽しくないとかということではなく、
今回は江戸から昭和に至る歴史の面影を、ほんの少しでもい
いから肌で感じてくるためだ、と言い聞かせ、大森近辺を探訪
することにした。
 
 2月11日(月)建国記念日。 風も穏やかでいい天気である。 10時35分自宅を出発、用足しをしてから、11時21分発の快特泉岳寺行きに乗車、京急蒲田駅で下車。 バス乗場がわからず、検問取締りをやっていた警官が近くにいたので尋ねると、JR蒲田駅前のバス乗場を教えてくれた。 ちょうど森ヶ先行きのバスが出たばかりで、20分ほど待つ羽目になった。 12時18分発のバスに乗り、終点の森ヶ崎(労災病院前)に向かう。

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 20分程度で森ヶ崎に着く。 付近で目立つのはこの労災病院と水処理施設だ。 水処理施設がある辺りが、かつての鉱泉旅館が並んでいたところだ。 とりあえず海岸ぺりまで歩いてみる。 首都高速湾岸線とモノレールの軌道が行く手を遮る。 その先に見える東京港の海に、わずかばかりの砂州が残っており、野鳥が羽を休めていた。 これがかつての遠浅の海岸の名残りだ。 周囲は埋立地の岸壁で囲まれていて、砂浜の海岸はどこにもない。 高速道路に平行して緑道公園になっているが、散歩をしている人は見かけなかった。

イメージ 2 労災病院のはす向かいに大森寺が佇んでいる。 敷地も普
通の住宅のように狭く、少々窮屈そうに本堂が道路を向いてい
る。 塀際に森ヶ崎鉱泉湧出の碑を見つけた。 板書には石碑
が作られた経緯と森ヶ崎鉱泉の様子が簡単に記されている。
 
 石碑に書かれた碑文は漢文で書かれており、僕には読める
ものではないが 「 明治34年の冬至の日に朝鮮の陸鐘允が書
く 」 と記されている。 なぜ朝鮮人が作製したのかは不明。
 背面には、180名にも及ぶ石碑建立の発起人の名が記録さ
れている。
 

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 広大な水処理施設上に森ヶ崎公園がある。 植え込みには梅がほころんでいる。 遊具ではしゃぐ子供たちの声が響き渡る。 その声をジェットの轟音がかき消していく。 すぐ先にある羽田空港からひっきりなしに飛行機が飛び立っているのだ。 展望台に登ってみた。 飛行機が大きく旋回しながら大空に向かっていくのが見える。 冬の空は空気が澄んでいてぬけるように青い。 砂州を洗う波が陽の光に反射して眩しい。

イメージ 6  公園を後にし、森ヶ崎観音を訪ねる。 正しくは 「 三緑山法
 浄院 」 といい、観音堂に縁起を描いた絵巻が飾られている。
 また、ここには 「 飛行機墜落死者大菩提也 」 と刻まれた慰
 霊地蔵尊がある。 これは、戦前に起きた航空機事故で亡く
 なった人たちを慰霊するためのものだ。
 
  事故は昭和13年 8月24日、日本航空輸送(株)の機体と、
 日本飛行学校の機体が森ヶ崎の上空で空中接触、機体は
 直下のねじ工場と民家に墜落した。 両機の搭乗員は合わ
 せて 5名だったが、救出しようと駆けつけた工場従業員 50名
 と住民数十名が機体に近づいた瞬間に飛行機の燃料タンク
 が爆発。 付近一帯は火の海と化し、死者 85名、負傷者 76
名という大惨事となった。 犠牲者のほとんどが巻き添えをくった地域住民だったという。
 

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