指の斥候たち

験なき物を思はずは 一坏の濁れる酒を飲むべくあるらし

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その八 徳恩寺と長屋式山門
 
 日野春日神社 のすぐ隣にこの辺りではよく目立つ 長屋門 があります。 ここが日野春日神社の別当寺となっていた 徳恩寺 です。 長屋門(※1)は一般的には武家屋敷などに多く見られたものですが、長屋式山門を持つ寺院は全国的に見ても珍しいのではないでしょうか。
 
 平安時代後期の康和元年(1099年)九月、京都仁和寺の 尋清僧都(じんせいそうづ)がこの地に止宿し、尋清に帰依する 武蔵大守藤原成実 より与えられた 紫冠帯剣のご神像 を山の中腹に建立した神祠に奉安し、奈良・東大寺二月堂から初代の司を招き 穂井の神社(ほいのじんじゃ)と称したのが 日野春日神社 の始まりといいます。
 
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【日野春日神社】
 
 尋清僧都は自ら別当となり傍らに住居となる堂宇を建立、この堂に、弘法大師空海・恵心僧都源信・行基法師・伝教大師最澄・智證大師円珍 がそれぞれ造ったと伝えられる 五霊像(釈迦尊・文珠菩薩・薬師如来・地蔵菩薩・観音菩薩)を安置し 真如坊 と称しました。 これが徳恩寺の起源とされています。
 
 五霊像は尋清僧都が堂宇を造営するときに、尋清に帰依する 武蔵大守藤原成実 が多くの寺々に懇請して集めたもので、このうち 地蔵菩薩像 は、平国香(※2)が護持した行基法師の作と伝えられ、徳恩寺のご本尊となっています。 尋清僧都は、正覚坊・萬蔵坊・光明坊・安養坊・観音坊・正福坊 の六僧房を建てて大いに興隆したといいます。 さらに、長治元年(1104年)堀川左大臣源俊房(※3)自筆の 「 徳恩寺 」 の扁額が寄与され、以後真如坊は 徳恩寺 を寺号としたと伝えられています。
 
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 久安六年(1150年)火災の厄をうけて荒廃、その後、百数十年間無住が続き、徳治二年(1307年)に元の姿へと復興しました。 しかし、正慶二年(1333年)新田義貞の鎌倉攻めの余波を受けて春日神社ともども焼失、以後も幾度となく火災全焼の憂き目に遭っています。
 
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 徳恩寺最大の特徴である 長屋式山門 は、安政三年(1860年)より建築が始められ、四年後の安政七年に完成しています。 本堂は明治42年(1909年)に改築されたものでしたが、建材の老朽化や災害対策などのため現在は大規模な新築工事が進められています。
 
 明治維新の神仏分離令により春日神社の別当職を退き、以後、宝生寺末、増徳院末派と転属、大正12年(1923年)高野山金剛峯寺の直末となり現在に至ります。
 
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 徳恩寺の起源となる 真如坊 の名を受け継ぐ 真如殿 は平成 7 年に新築されたもので、葬儀斎場や説法の場として利用されています。 境内は工事によりかなり狭くなっていますが、良く整えられておりそれなりに見どころがあります。 驚いたのは中ほどに孔雀の檻がありましたが、残念ながら孔雀の姿を見ることはできませんでした。(工事のため避難中だったのかもしれません) 新本堂が完成した後はさらに整備されてまた一段と見応えのあるものになるはずです。
 
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 徳恩寺を出て、しばらく日野川支流沿いを南進し左に折れて坂を上ると 兎ヶ谷公園 にたどり着きます。 『 こうなん道ばたの風土記 』 によると、この辺りは 「 兎谷(うさぎや)と呼ばれたところで、ここには新宮十郎源行家(※4)の従者たちの子孫と称する人が住んでおり、伝承にふさわしい隠れ里のような風景があった 」 との記述がありますが、現在は面影も名残りまったくない閑静な新興住宅地が広がっています。
 
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 公園から出て日野川支流沿いに戻りしばらく歩くと、この辺りが宮下村と呼ばれていた頃からある 共同墓地 が見えてきます。 比較的新しく建てられたものもありますが、多くは無縁仏となっているかもしれません。 この中に、江戸時代初期に建てられた 宝篋印塔 があり、その脇には 如意輪観音 も並んでいます。 『 こうなん道ばたの風土記 』 は 「 寂しげな如意輪観音を見ると、苦労に満ちた江戸時代の女性の日々を思い、悲しい気持ちにさせられる 」 と結んでいます。
 
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-∴-∵-∴-∵-∴-∵- 源氏の隠れ里 -∴-∵-∴-∵-∴-∵-
 
 全国各地には、平家の隠れ里はたくさんありますが、この港南区内では、もうひとつ珍しい源氏の隠れ里があります。 それは、春日神社に近い 「 兎ケ谷 」 というところです。
 
 鎌倉幕府を創設した源頼朝は、幼少のとき伊豆の蛭ケ小島に流されました。 弟の義経は、京都の鞍馬寺にあずけられました。 頼朝の叔父の新宮十郎行家は、山伏の姿の修行者になって、武士たちをたずねて源氏の再興をうながして歩きました。
 
 平家をたおし、源氏の世の中をつくる糸口をつけた、行家の功績を忘れてはいけないと思います。 しかし、頼朝は、この行家も弟の義経をも討たせてしまいました。 行家の家来の中に、紀伊の国(和歌山県)の田井庄からでた武士がいました。
 
 この人たちは、頼朝と行家の仲がわるくなってから、この日野川支流の奥の兎ケ谷に、ひそかに隠れ住んだと伝えられています。 
 
『 ふるさと港南の昔ばなし 50話 』 平成6年 港南の歴史研究会編より
 
 
 
※1 長屋門(ながやもん) 武家屋敷の前面に家臣・下男などを住まわせるための長屋を建て、その一部に扉をつけて門としたもの。 屋根は左右の長屋と一つづきとなる。 江戸時代に主に上級武士によって盛んに造られたが、石高によってその形式が定められていた。 また、名字帯刀を許された地方の名士や旧家などにも長屋門を持つことが認められた。
 
※2 平国香(たいらのくにか) 平安時代中期の武将。 常陸平氏および伊勢平氏の祖。 平将門の伯父。 父の平高望に従い関東に土着、常陸大掾(ひたちのだいじょう)、鎮守府将軍となる。 一族間の内紛にまきこまれ、甥の平将門に常陸真壁郡(現在の茨城県筑西市)の石田館を攻められ、承平五年(935年)二月焼死。 これが承平・天慶の乱の発端となり、子の貞盛が一族とともに将門を討った。
 
※3 源俊房(みなもとのとしふさ) 平安時代中〜後期にかけての公卿・能書家。 村上天皇の皇子を祖とする村上源氏中院流の祖、源師房の子。 後冷泉天皇から鳥羽天皇まで五代の天皇に仕え、左大臣・従一位の官位を得た。 村上源氏の最盛期を築いたが、永久元年(1113年)実子の仁寛が鳥羽上皇の暗殺(永久の変)を企てたとされ、弟の顕房に村上源氏の主流を譲った。
 
※4 源行家(みなもとのゆきいえ) 平安時代末期の武将。 河内源氏の棟梁源為義の十男。 長兄は源義朝、二つ上の兄が源為朝で、源頼朝・義経兄弟の叔父。 治承四年(1180年)後白河天皇の第三皇子以仁王が打倒平氏のための挙兵を計画、諸国の源氏や大寺社に蜂起を促す令旨を発すると、この令旨を伝え歩き平氏打倒の決起を促した。 晩年は頼朝と不仲になった義経に接近したことから頼朝の不興を買い、鎌倉幕府から命を受けた北条時定の兵によって捕らえられ、山城国赤井河原(現在の京都市伏見区羽束師古川町、桂川沿い)にて斬首された。
 
  

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