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前編より
七五三詣で賑わう 深川不動堂 をあとにして、富岡八幡宮 にやってまいりました。 昨年のことがあったので人出は少ないのではないかと懸念していたのですが、どっこいこちらも七五三詣の家族連れで大いに賑わっており、人の噂も七十五日とはよく言ったもんだなぁ … と内心ホッといたしました。
深川八幡 とも呼ばれて親しまれる 富岡八幡宮 は、寛永四年(1627年)に菅原道真の末裔といわれる京都の公卿・長盛法師 が神託によって永代島に八幡宮の祠を建てたのが始まりと伝えられ、当時は 永代嶋八幡宮 と呼ばれていたそうです。 敬愛する作家・種村季弘氏の 『 江戸東京《奇想》徘徊記 』 には、富岡八幡宮についてのよもやま話が散りばめられています。
… 砂村の海岸にあった八幡宮を現在の場所に移して富岡八幡宮(深川八幡)を開基した。 ところが元禄の永代橋開通までは渡し船で島へ通ったのでろくすっぽ人が来ない。 さすがの幕府も規制緩和を許した。 『 紫の一本(ひともと)』 という江戸案内記によれば、
「 永代島、八幡の社有。 此地江戸を離れ宮居遠ければ参詣の人も稀にして、島の内繁盛すべからずとて、御慈悲を以て御法度ゆるやかなれば、八幡の社より手前二、三町が内は、表店はみな茶屋にて、数多の女を置きて参詣の輩(ともがら)の慰(なぐさめ)となす。」
江戸市中から孤立した島だったおかげで万事が大目に見られた。…
【富岡八幡宮 社殿】
さすがに客引きの女性がいるような店はありませんが、参道には深川酉の市 の屋台が建ち並んでおり、お酉さまの日ともなればさぞや賑わうのだと思われます。 七五三の記念写真の撮影に忙しい家族連れの脇を抜け、まずは 社殿 で手を合わせます。 社殿は震災や空襲などで再建と修復が繰り返し行われてきましたが、現在の社殿は昭和31年に造営された鉄筋コンクリート製の建物となっています。 さて、いつもの通りワタクシの願いはただひとつ …
今日も美味しいお酒が飲めますように …
お酒を飲む前に境内散歩をしておきましょう。 鳥居をくぐると左手にまず現れるのは近代日本地図のパイオニア 伊能忠敬銅像 です。 伊能忠敬は本名を神保三治郎といい、下総国香取郡佐原村(現在の千葉県香取市佐原)の酒造家・伊能家の跡取りとして 17歳で婿入りし伊能三郎右衛門忠敬と名乗りました。 若き忠敬はすぐさま商才を発揮し、伊能家の本業である酒、醤油の醸造・貸金業・河岸問屋を次々と成功させ、寛政六年(1794年)に 50歳で隠居すると、翌年に暦学や天体観測、測量を学ぶために江戸に出て富岡八幡宮近くの深川黒江町(現在の門前仲町一丁目)に居を構えました。
【伊能忠敬銅像】
忠敬 55歳の寛政十二年(1800年)4月19日の早朝、富岡八幡宮を参拝した忠敬一行は蝦夷地(北海道)へ測量の旅に出かけました。 測量は困難を極めましたが、江戸に戻った忠敬が収集した測量結果を基に作成した地図は、当時も後世からも高い評価を得ることとなります。 忠敬は正確な日本地図作成のため十回におよぶ測量を企画しましたが、そのたびに内弟子と従者を率いてここ富岡八幡宮に参詣して無事を祈念したのちに測量開始地点へ向かったといいます。
さて、江戸勧進相撲発祥の神社である富岡八幡宮には、横綱力士碑 ・大関力士碑 ・巨人力士身長碑 など相撲にまつわる数々の石碑が建ち並んでいます。 以前も拙ブログで紹介したことがありますが、改めて写真と解説を。
【大関力士碑】
大関力士碑 は、歴代の大関を顕彰する(横綱に昇進した力士と取組には入らなかった看板大関を除く)ために昭和58年(1983年)に建てられました。 九代目市川團十郎と五代目尾上菊五郎が明治31年(1898年)に寄進した仙台石を利用しているといいます。 大関力士碑の周囲には、巨人力士身長碑、巨人力士手形・足形碑、強豪関脇力士碑、釈迦ヶ嶽等身碑 も建てられています。 釈迦ヶ嶽は江戸時代に活躍した大関で、身長 227 cm、体重 180 kg という日本人離れをした巨体の持ち主だったといいます。 当時の日本人の平均身長は 160 cm 程度だったというから、初めてその巨体を目にした人はさぞや仰天したことだろうと思います。 また、本当かどうかわかりませんが、摂津国(現在の大阪府北中部から兵庫県南東部にあたる)の住吉神社に参詣した帰りに茶店に立ち寄り、茶代を支払うのに二階の窓へ支払った、という逸話が残っているそうです。
ウィキペディアより
【横綱力士碑】
横綱力士碑 は歴代の横綱力士と強豪大関・雷電爲右エ門を顕彰する碑です。 江戸時代最後の横綱・陣幕久五郎が発起人となって明治33年に完成しています。 雷電爲右エ門は江戸時代に活躍した大関で、現役生活 21年、江戸本場所在籍 36場所中、通算成績が 254勝 10敗 2分 14預 5無勝負という勝率 9割 6分以上を誇った 大相撲史上未曽有の最強力士 とされています。
【雷電爲右エ門】
勝川春亭 江戸時代後期
現在、横綱力士碑には四股名を刻む余地がなくなってしまったため、副碑が設けられここに刻まれています。 横綱力士碑は横綱昇進時に四股名が刻まれますが、大関力士碑は現役引退後に刻まれることになっています。 また、横綱力士碑の手前には本場所で 50連勝以上を記録した力士を顕彰する 超五十連勝力士碑 も建っています。
あらかじめワタクシは相撲ファンであるということをお断りした上で余談として記しますが、かつてコラムニストの勝谷誠彦氏は 「 ふんどし芸者が円い座敷で裸踊りをすることを相撲っていうんだよ 」 と言って、アンチや相撲ファンから不興を買いましたが、ワタクシは相撲が真剣勝負のスポーツではないということを口汚く言っているだけで本質を考えればいい得て妙だな、といたく感心したものです。 相撲の歴史をひも解いていくと、ただ単に勝敗がすべての競技とは言えない複雑な要素が相撲にはあります。 現代の社会状況からすると、相撲界には矛盾や不条理がはびこっているように感じている人が多いと思うのですが、ワタクシは矛盾や不条理もひっくるめて相撲なのだと考えています。 昨今、相撲協会の改革が声高に叫ばれていますが、個人的にはなにも早急に改める必要は無いと考えます。 ただ、日本の国技であるという点から、外国人力士を土俵に上げることは反対である、とだけは言っておきます。
境内にはさまざまな 末社 や 石碑 があります。 ひとつひとつ解説していくと大変なのでこちらは写真をゆっくりとご覧ください。
【永昌五社稲荷神社】
五穀豊饒・商売繁盛の神として信仰を集める 近隣の稲荷社五社が合祀された神社
【八つの末社が鎮座】
祖霊社 … 富岡八幡宮の歴代祖霊が祀られている
花本社 … 深川にゆかりの深い松尾芭蕉を御祭神とする
天満天神社 … 学問の神・菅原道真をお祀りする
聖徳太子社 … その名の通り聖徳太子をお祀りする
住吉社 … 古来より航海安全・和歌・農耕の神として信仰される
野見宿禰神社 … 江戸勧進相撲発祥の地であることから、
相撲の始祖である野見宿禰(のみのすくね)をお祀りする
車析社 … 車折大明神と称される平安後期の儒学者・清原頼業命をお祀りする
客神社 … 芸能の神である天宇受売命(あめのうずめのみこと)をお祀りする
【七渡神社】
七渡弁天と称されて親しまれる地主神 八幡宮が創祀される以前から祀られていた
裁縫上達の神として信仰を集める 粟島神社 も合祀されている
毎年2月8日には折針・古針が供えられる献針祭が行われる
【針塚 と 庚申塔】
【木場木遣之碑】
深川木場は江戸時代初期から建設用材木の集積場として発展していた
木遣りは重い木材や岩などを多人数で声を掛けたりしながら運ぶ掛け声が歌へと変化したもので、
建築儀礼などに歌われ江戸では美声の鳶職に伝承されて棟上げや祭礼の練歌に転用されている
【木場の角乗碑】
角乗は木場の筏師が水辺に浮かべた材木を鳶口ひとつで乗りこなして筏に組む仕事の余技から発生した
角材を使用するため丸太より高度な技能を必要とし、これに数々の技術が加わり芸能として発達してきた
東京都指定無形民俗文化財および江東区登録無形民俗文化財となっている
【力持碑】
民俗芸能 深川の力持 を記念した石碑
東京都指定無形民俗文化財および江東区登録無形民俗文化財となっている
深川の力持は米俵や酒樽などの運搬から発生した余技で、これに種々の力自慢が加わり芸能として発達した
文化・文政の頃(1804〜1830年)には興行として盛んに行われた
【三末社】
左より 富士浅間神社・金刀比羅神社、大黒宮・恵比寿宮、鹿島神社・大鳥神社
【神輿庫】
奉納された二基の神輿を展示
一の宮神輿は台輪幅五尺(1.5 m)、屋根の幅九尺三寸(2.9 m)、高さ十四尺五寸(4 m)を超え、
かつぎ棒を含めた総重量約 4.5 t、鳳凰の胸をはじめ使用されたダイヤモンド 16 ct、ルビー 2,010個、
屋根に使われる純金 24 kg、その他各所にプラチナ・銀・宝石を多数使用し日本一の大きさと豪華さを誇る
深川不動堂では人の多さに旧本堂で手を合わせてきただけでしたが、富岡八幡宮ではくまなくじっくりと見て回ることができました。 さ〜て、一通り境内を見学してから時計を見ると午後1時ちょっと前。 神戸屋のサンドウィッチはボリュームもあって腹持ちがよかったのですが、さすがにこの時間になるとお腹が減ってきました。 それになにより歩いたのでビールが飲みたい。 いつもなら店を探そうというところですが、今回は富岡八幡宮の参道にある 東京名物・深川めし で有名な 深川宿 八幡店 にお邪魔することに決めていたので早速入ってみましょう。 作家・種村季弘氏の 『 江戸東京《奇想》徘徊記 』 でも深川めしの名店として紹介されています。
【深川宿 八幡店】
江戸時代より伝わる伝統の味を今に伝える店
休日で人出も多いせいか昼食には遅めの時間なのに先客が一組待っています。 店の外で作業をしていた男性店員がいたので …
「 すみません、一人でも大丈夫ですか ? 」
「 大丈夫ですよ、今片付けているのですぐに案内できると思います 」
ほどなく店内から年配の女性店員が出てきてまずは先客を案内、そのあとに
「 囲炉裏のある大きいテーブルでの相席でもよろしいですか ? 」
「 ええ、かまいませんよ 」
「 じゃこちらへお願いしますね 」
店内はとてもきれいで、ワタクシの座ったテーブルの中央には小さな囲炉裏があったり、江戸情緒を感じさせる小物があちこちに飾られていて女性や年配の客が喜びそうな造り。 ある意味観光地なので愛想のほうは期待していなかったのですが、応対してくれた女性店員さん始めみな愛想がよく、気持ちよく食事ができそうです。
「 お飲み物はなにか飲まれますか ? 」
「 とりあえず、ビンビールを一本下さい 」
「 ハ〜イ、今お持ちしますね〜 」
農林水産省郷土料理 100選のひとつにも選ばれ、日本五大銘飯といわれる 深川めし は、長ネギとアサリを味噌で煮込んで熱いご飯に汁ごとぶっかけた江戸時代から伝わる漁師料理のこと。 かつての深川は漁師町としても栄え、良質のアサリやカキが豊富に獲れ、とくにアサリは深川名物とされていました。 深川めしは忙しい漁の合間にも手早く作れ、しかも美味しく栄養価が高いため漁師の日常食としてもてはやされました。 また、アサリを一緒に炊き込んだアサリの炊き込みご飯も人気で、こちらは木場の大工職人などが弁当に持っていけるようにと作られたのが始まりと言われています。
「 ビールをお待ちの方〜、ハイどうぞ、こちらお通しね 」
【キリン クラシックラガー】
隅田川に近いのに、アサヒではなくキリンビール(笑)
お ! お通しにはこれは嬉しい好物のアサリの佃煮ときた !
それでは … お疲れ、オレ !
ゴクゴクゴクゴクゴク ……
はぁ〜 …… ウマい !!!!
アサリの佃煮も甘すぎずしょっぱすぎず、ちょうどいいねぇ
「 ご注文はお決まりですか ? 」
「 ええ、深川めしのぶっかけのほうを … 」
「 もしよかったら、ぶっかけと炊き込みの味比べができる 辰巳好み がお勧めですが … 」
「 それならせっかく勧めてくれたのでそれをお願いします 」
「 は〜い、ありがとうございます〜 」
ご飯の量が多くないかと心配して訊ねたら 「 半分づつ盛るので、でも、若いんだから大丈夫よ ! (笑) 」 と言われました。 若作りしているつもりはないけれど、実際は五十過ぎのおっちゃんなんだぜ、あっちもこっちもそっちも結構ガタがきてるんだから …… ま、いいか(苦笑)
ちなみに、辰巳好み の 辰巳 とは 辰巳芸者 のことを指します。 深川が江戸の東南にあたるため、東南の方位をあらわす 辰巳 から深川の芸者は 辰巳芸者 と称していました。 意気と気っ風のよさを売り物とし、薄化粧で身なりは地味な鼠色、冬でも足袋を履かず素足のまま、男物の羽織を羽織って座敷に上がり、男っぽい喋り方をしていたことから 羽織芸者 とも呼ばれていました。
【風俗三十二相 さむさう 天保年間深川仲町芸者風俗】
月岡芳年 明治21年
芸名も女名前でなく、ぽん太や音吉など男名を名乗り、気風は吉原やその他の芸者と違って勇み肌だったため、深川界隈の威勢のいい商人や職人衆にとても人気があったといいます。 気風がよくて情に厚く、芸は売っても色は売らない心意気が自慢という辰巳芸者は、舞妓・芸妓が京の 華 なら、辰巳芸者は江戸の 粋 の象徴と讃えられていました。
「 ハイ、辰巳好みの方、お待たせしました。 あとで葛切りが出ますのでね 」
【辰巳好み】
深川めし(ぶっかけ・炊き込み)にアオサの吸い物、煮物、香の物、白玉の黒胡麻餡添え
いい景色だなぁ〜 美味そうだなぁ〜
さっそくいただきます。 深川めしのぶっかけは熱々、アサリだけにあっさり味と思いきや、甘みのある濃厚な味噌味で自分好みの味 ! これは箸が止まらない !! 実にウマい。 アサリの身も大きくふっくらとしており、噛むほどにアサリの滋味があふれ出てくるよう。 テーブルにある七味を振ると、アサリの甘みが出てきて、いやぁ本当に美味しいなぁ。
もう十年も前になるのですが、拙ブログ 種村季弘を歩く〜その六 「深川南北漫歩」 でも深川不動堂の近くで深川めしを食べたのですが、雑誌でも紹介されるほどの店だったにもかかわらず、夫婦と思しき若い店員の態度が非常に悪く、そのせいもあってか味のほうも凡庸で、他にも多数客がいましたが皆さっさと食べて会計をしていたのを思い出しました。 半年後くらいに同じ場所を通ったらすでに店がなくなっており、やっぱりな … と納得したことがあります。
醤油味の炊き込みには刻んだ大葉と白胡麻がかかっています。 箸でよそうとアサリの香りが鼻をくすぐります。 口に入れると、アサリの香りと味が口いっぱいに広がり、ぶっかけよりもよりアサリ本来の味わいが楽しめます。 どちらも甲乙つけがたく、いや、甲乙なんてつける必要はありませんね。 どっちもとても美味しい。 煮物は薄い味付けで炊いてあるのでアサリの味を邪魔しないし、吸い物のアオサの磯の香りは深川めしとの相性が抜群です。 深川めしは半分づつの盛付けといいながらもかなりのボリュームでしたが、その美味しさにあっという間に完食できました。
白玉の黒胡麻餡添えを口にしようと思ったら、タイミングよくお茶を出してくれました。 黒胡麻餡の風味がとてもよく、白玉は普段あまり食べる機会がないのですが、味噌味や醤油味とややしょっぱい料理のあとなので口の中が洗われるようでとても美味しくいただきました。 お茶をゆっくりとすすり、あぁ美味かった … と会計をお願いしようと席を立とうと思ったら
「 遅くなってごめんなさいね〜、葛切りをどうぞ 」
【葛切り】
そうだった、最後に葛切りが出ると言ってたんだっけ。 デザートが二品も出るなんて … あぁしかし、葛切りもほとんど食べる機会がないけれど、この店ではなにを食べても美味しいなぁ。 それにしても、黒蜜のおかげで口の中がすっかり甘くなってしまった …… ウ〜ムイカン、なんだかまたビールが飲みたくなってしまった。
もう一本飲もうかどうしようか悩みましたが、こういう店で長居をするのは大変野暮なので、また店内も家族連れの客が入店して席も再び埋まりにわかに忙しくなってきたのでここで会計をしてもらいました。
「 今日はお待たせしてごめんなさいね 」
「 いえいえ、とっても美味しかったですよ 」
「 あら良かったワ〜、またぜひ寄ってくださいね 」
「 どうもごちそうさまでした 」
帰り際もとても愛想よく送り出してくれました。 深川不動堂 と 富岡八幡宮 にしっかりと手を合わせたご利益をさっそく授けていただきました。
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名所・史跡・美味めぐり 散歩旅
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さて今回も 「 私鉄沿線 東京近郊、あの街この街 名所・史跡・美味めぐり 散歩旅 」 をお送りいたします。 このコンテンツは、東京近郊を走る私鉄を利用してその路線にある名所や史跡を訪ね、ついでにグルメも味わおうという企画です。 東京近郊の電鉄 9 社による共同企画として発案された歴史スポットとあったかグルメをめぐる 「 おいしい歴史さんぽ旅 」 というスタンプラリーを手本とし、居酒屋めぐりの達人・太田和彦さんが案内する 「 ふらり旅 いい酒いい肴 」 や、BS-TBS の人気長寿番組 「 吉田類の酒場放浪記 」 あるいは、松重豊さん主演のドラマ 「 孤独のグルメ 」 といった番組から 「 アカデミック 」「 ほろ酔い 」「 看板メニューを堪能 」 という要素もちょっぴり足して、歴史趣味と酒飲みの両方を満足できる散歩旅にしたいと思っています。
第二十九回目は 「 東京メトロ東西線 - 門前仲町駅 深川不動堂と富岡八幡宮 × 東京名物 深川めし 」 をお送りします。
●東京メトロ東西線
東京メトロが運営する東西線は、東京都中野区の中野駅と千葉県船橋市の西船橋駅間 30.8 km を結ぶ地下鉄路線です。 名目上は地下鉄ですが、およそ 45% にあたる 13.8 km は地上を走る路線となっています。 東西線はその名の通り東京の東西に延びる路線で 23 駅が置かれていますが、東は JR総武線の津田沼駅および東葉高速線の東葉勝田台駅まで、西は JR中央線の三鷹駅まで直通運転を行っています。
【東京メトロ15000系電車】 東西線の歴史は計画自体こそ大正6年(1917年)と古いのですが、開業はずっと時代が下った昭和39年(1964年)で、まず高田馬場駅 - 九段下駅間 4.8 km の開業から始まり、現在の中野駅 - 西船橋駅間全線開通は昭和44年のことでした。 その後、西葛西駅・南行徳駅と新駅が順次開業し、平成12年(2000年)の妙典駅の開業をもって現在の路線が完成しました。
東西線最大の特徴は地下鉄では珍しく快速列車を運行していること、そしてなんといってもラッシュ時の混雑です。 国土交通省によると、平成29年度の調査では最も混雑する木場駅 - 門前仲町駅間の混雑率は 199% (定員のほぼ二倍)に達し、国内大手私鉄で ワースト 1 位、JRを含めても ワースト 3 位 という不名誉な記録を持っています。 20 m クラスのロング車輌(銀座線は 16 m クラス)による 10 輌編成で、ラッシュ時の朝 8 時台には 1 時間に 26 本 ! という超過密ダイヤで運行しているにもかかわらず混雑する原因は、千葉と東京を結ぶ JR路線に比較して運賃が安いこと、他の路線へ接続する駅が多く乗り換えに便利なことなどが挙げられますが、最大の原因はなんといっても沿線に人口が非常に多い、これに尽きると思います。
今回は東西線路線のちょうど真ん中の駅となる門前仲町駅で降車してみます。 東京下町散策のガイドブックには必ず採りあげられる 深川エリア へはこの駅が最寄り駅となります。 深川といえば 深川不動堂 に 富岡八幡宮 がとくに有名です。 門前仲町の名は、富岡八幡宮の別当寺(神社を管理するために置かれた寺のこと)とされた 永代寺 の門前町だったことが由来しています。 永代寺は明治新政府により出された神仏分離令によって廃寺となりましたが、現在の深川公園および深川不動堂が建っている場所がかつて永代寺のあった場所です。
【ライトアップされた永代橋】
このほかにも、吉良邸討ち入り後の赤穂浪士が泉岳寺に向かう折に渡った 永代橋、深川の閻魔さんで有名な 法乗院、松尾芭蕉が 『 奥の細道 』 へと旅立った 採荼庵(さいとあん)跡 など名所・史跡が数多くあります。 また、江戸を代表する戯作者・四世鶴屋南北、日本地図のパイオニア・伊能忠敬、映画監督の 小津安二郎 など、深川にゆかりのある人たちもたくさんいます。 今回はこの中から 深川不動堂 と 富岡八幡宮 にスポットを当ててみたいと思います。 そういえばドラマ 「 孤独のグルメ 」 の記念すべき第一話は門前仲町の焼鳥屋でしたね。 富岡八幡宮ではイチャつくカップルに井之頭五郎はフンっと鼻で息をして不快感(ヤキモチ ?)を表していました(笑)。 深川不動堂も富岡八幡宮もすでに何度も訪れてブログでも採りあげていますが、改めて時間をかけてじっくりと見て回るつもりです。 そして、散歩のあとは深川の名を冠した東京を代表する 名物料理 を味わってみたいと思います。 まずはいつもの通りちょっとだけ予習を。
●深川不動堂
深川のお不動さま、深川不動尊 などと称されて親しまれる深川不動堂は正式名称を 成田山 東京別院 深川不動堂 といいます。 真言宗智山派の寺院で、千葉県成田市にある大本山 成田山 新勝寺 の東京別院です。 元禄十六年(1703年)に、成田山のご本尊である 不動明王像 を江戸に奉持し、富岡八幡宮の別当寺である 永代寺 において出開帳(特別公開)が行われました。 これが深川不動堂の始まりと伝えられています。 この出開帳には五代将軍徳川綱吉の生母桂昌院も参拝したといわれ、一説には成田不動尊の熱心な信者であった桂昌院が江戸における出開帳の実現に尽力したといわれています。 永代寺での出開帳は幕末の安政三年(1856年)まで江戸時代を通じてたびたび行われ、大勢の江戸庶民が押し寄せて大いに賑わったと伝えられています。
【成田山 東京別院 深川不動堂】
旧本堂
永代寺は明治元年(1868年)の神仏分離令によって廃寺となり、旧境内は 深川公園 となりました。 しかし、江戸時代より続く民衆の不動尊信仰は止むことがなく、ゆかりのあるかつての境内地に不動堂を建立する機運が高まり、東京府(当時)や成田山当局にも熱心に働きかけた結果、深川公園の一部を永久かつ無償で借用することが認められ、明治11年に成田不動の分霊を祀り、同14年には堂宇が完成、深川不動堂 として存続していくこととなりました。
永代寺は廃寺となりましたが、本坊以外にあった十一院の塔頭のうち 吉祥院 が明治29年に再興され、歴史ある永代寺の名跡を継ぐことになりました。 現在の永代寺は深川不動堂門前の参道途中にあり、気軽に立ち寄ることができます。 かつては目を惹くほどの大きさを誇った 江戸六地蔵 が置かれていましたが、廃寺とともに廃棄されてしまいます。 今日では 子育地蔵尊 や 取持地蔵尊 など六体の小さなお地蔵さまが安置される 地蔵堂 が建てられています。 また、弘法大師霊場 御府内八十八箇所 第六十八番 にも指定されています。
【永代寺の地蔵堂】
●富岡八幡宮
富岡八幡宮の創建は二つの説があるようです。 江戸時代初期、現在の深川一帯が砂州に囲まれた永代島と呼ばれていたころ、京都の公卿・長盛法師 が神託によって一帯を干拓し八幡宮の祠を建てたのが始まり、という説が一つ、永代島の干拓が難航したため当時 波除八幡 として信仰されていた横浜の 富岡八幡宮 (横浜市金沢区富岡東4丁目)を分霊したのが始まり、という二つの説です。 いずれにせよ、主祭神に応神天皇(八幡神)をお祀りすることから、江戸時代には八幡大神を尊崇する徳川将軍家の厚い保護を受け、江戸最大の八幡さま として庶民の信仰を集めていました。
【富岡八幡宮】
明治維新後は先述の通り別当寺として建立された旧永代寺が廃寺となりますが、富岡八幡宮は東京の鎮護と万民の安泰を祈る神社として 明治天皇 が定めた 准勅祭社(じゅんちょくさいしゃ) の一つとされたため、皇室からも尊崇を受けることになりました。
昭和20年 3月10日、米軍の国際法違反となる非戦闘員である民間人の殺害を主目的とした無差別絨毯爆撃(東京大空襲)において、深川エリアは第一爆撃目標とされたため、200 機以上もの大型爆撃機(B-29)から数百トンにもおよぶ焼夷弾を落とされ、この時発生した未曾有の火災によって社殿を焼失しますが、終戦の 10年後となる昭和31年に再建されています。
【深川の水かけ神輿】
富岡八幡宮の祭礼は 深川の水かけ神輿 として知られ、約 370年の歴史を誇ります。 神田明神の 神田祭、赤坂日枝神社の 山王祭 とならび、江戸三大祭 の一つとして有名です。 毎年 8月15日を中心に開催され、三年に一度の八幡宮の 御鳳輦(ごほうれん=鳳凰の飾りがある神輿) が渡御を行う年は本祭りと呼ばれ、大小あわせて 120数基にもおよぶ町神輿が担がれる様は実に壮観です。 沿道の観衆から担ぎ手に暑さ避けも兼ねた清めの水が浴びせられると歓声とともにとても盛り上がり、これが 水かけ神輿・水かけ祭 とも呼ばれる由縁です。 現在でも祭礼当日となると相当な人出がありますが、江戸時代の文化四年(1807年)の祭礼ではあまりの人の多さに隅田川に架かる 永代橋 が崩落し、死者・行方不明者 1,400人以上となる大惨事となりました。 しかし、江戸の粋を伝える祭として、平成の現代も大切に受け継がれています。
富岡八幡宮は 江戸勧進相撲 (神社仏閣の再興や造営費用を捻出するために見物料を徴収した興行相撲) 発祥の地 としても知られ、相撲にまつわる数々の石碑が建っています。 現在でも新横綱が誕生すると 刻名奉告祭 などの式典が執り行われます。 直近では平成29年 6月 9日、第七十二代横綱・稀勢の里 が境内の 横綱力士碑 への刻名式に参加して自らの四股名を刻み、奉納土俵入り を披露しました。
【巨人手形・足型】
また、富岡八幡宮といえば、平成29年末に後継者問題に端を発した殺人事件が記憶に新しいところです。 縁起やご利益を呼ぶ神社内で起きた事件に加え、主犯であった元宮司の放蕩行為がスキャンダラスに報じられたため、初詣の参拝者が平年の 1/10 にまで減少したといわれていました。
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11月4日(日)曇り。 朝起きてなんだか寒いなあと思ったら今シーズン一番の冷え込みだとか。 天気予報では日中は曇りで夕方から弱い雨が降るそう。 この日はとくに予定を立てておらず、こういう日は例外なく午前中から野毛に繰り出して昼酒となってしまうため、無理にでもどこかへ行こうと思案、結果 7月以来更新の途絶えていた 名所・史跡・美味めぐり 散歩旅 で久しぶりに深川エリアに行ってみることにしました。
9 時15分頃に自宅を出発、最寄りの京急上大岡駅から都営浅草線直通の電車に乗り、日本橋駅で東京メトロ東西線に乗り換えます。 朝食を摂っていなかったため日本橋駅の神戸屋でサンドウィッチを買い、ホームのベンチでサッと済ませることにしました。 一本か二本電車をやり過ごし、食べ終わったころに西船橋行の電車が来たのでこれに乗車、朝夕の通勤通学ラッシュでは殺人的な混雑度を示す東西線ですが、さすがに日曜の昼前ともなればのんびり座っていくことができます。 二駅先の門前仲町駅には11 時ちょっと過ぎに到着しました。
【人情深川ご利益通り】
門前仲町駅から地上に出て永代通りを東進し、まずは 深川不動堂 の参道となる 人情深川ご利益通り に向かいます。 デパート・百貨店のそびえる日本橋エリアからそう遠く離れているわけではないのに、隅田川を渡るとグッと庶民的な街並みになるのが深川界隈のいいところ。 今では埋め立てによって夢の島まで陸続きとなってしまいましたが、かつては江東区佐賀から門前仲町にかけての辺りは、隅田川や神田川が運んできた土砂が堆積して形成された 永代島 という島でした。 それを開発したのが慶長年間(1600年頃)に伊勢からやって来た 深川八郎右衛門 という人物だったので、深川という地名が付いたといいます。
人情深川ご利益通りは、和菓子店・甘酒店・京漬物店・江戸小物店・宝飾品店など 40店ほどの店舗が並ぶ仲見世商店街です。 この日は七五三詣の家族連れで大変な賑わい。 人情深川ご利益通りに入りほどなくすると呑兵衛には良く知られる角打ちの折原商店があります。 ドラマ 「 ワカコ酒 」 のロケ地にもなったこの店は朝から営業しており、店内にはすでに酔客の姿がチラホラと。 ワタクシもついフラフラと店内に引き込まれそうになりましたが、ここで飲んでしまうと一日の全てが終わってしまう …… のでここはグッと我慢。 すると右手に明治29年に再興された 永代寺 が見えてきました。
【大榮山 金剛神院 永代寺】
高野山真言宗寺院の永代寺は、正式名称を 大榮山 金剛神院 永代寺 といいます。 前述の通り、旧永代寺は寛永元年(1624年)に永代島に創建、江戸時代には富岡八幡宮の別当寺として、また江戸六地蔵のひとつが置かれて栄えましたが、明治元年の神仏分離令に基づく廃仏毀釈によって廃寺となり地蔵菩薩坐像も取り壊されてしまいました。 現在の永代寺は旧永代寺の塔頭の 吉祥院 が名称を引き継いだものです。 『 江東区の民俗 深川編 』 には永代寺の縁起が詳しく記されているのでここから引用してみます。
富岡八幡宮の別当寺永代寺は御成門にあり、大栄山金剛神院と号し、古義真言宗で、御室仁和寺末。 開山は長盛法印で、寛永十三年(1636年)に亡くなる。 中興開山周光阿閣梨が慶安五年(1652年)の夏、「 名にしおわん法のわか家を、人の心のうるほはずとも 」 との弘法大師の夢告を受け、高野山両門主碩学そのほか東国の納僧が永代島に集まり、一夏九旬の間法談があり、高祖大師の影堂を立て、真言三密の秘蹟を講じ、元禄十二年(1699年)関東五ヵ寺同等の格をたまわり、正徳五年(1715年)有章院殿(家継)、享保十二年(1727年)有徳院殿(吉宗)が永代寺を訪れたという。
永代寺には本坊以外に地中に十一院(功徳院・多聞院・般若院・吉祥院・明王院・長寿院・愛染院・東光院・海岸院・大勝院・支王院)あったという。 永代寺は讃岐国象頭山金光院より附弟を受けていたが、明治維新となり、復飾すべと、第十六代周徹法印は別当永代寺を改め、富岡家となり、神主として富岡八幡宮に奉仕することになる。
吉祥院の住僧覚阿坊は再建工事を落成し、あまり年月が経ていないので、取り壊しに忍びがたく永代寺法類の湯島円満寺の附属となし、従来般若院付きの大師堂も吉祥院付きとし、本坊代々の墓守と定め、存置することを願い許可され、円満寺附属となる。 明治29年、歴史ある名称を残すため、吉祥院を改めて永代寺となり、円満寺末を離れ、仁和寺直末となったという。
【永代寺 山開】
『 江戸名所図会 』
当時の永代島は 60,508 坪にもおよぶ砂州で、そのうち 22,193 坪が永代寺の寺社地だったといいます。 平常は非公開でしたが、毎年 3月21日から 28日迄は弘法大師の御影供が行われ、その期間に限って 「 山開き 」 と称し林泉(庭園)を解放し、江戸庶民に見物を許し大層な賑わいであった様子が 『 江戸名所図会 』 に描かれています。
さて、深川不動堂 です。 七五三詣の家族連れで大変な賑わいです。 ワタクシにもそういえばこんな時代があったんだよなあ …… (遠い目)
【深川不動堂】
印旛沼畔の龍腹寺のお堂を移築した
前述の通り、成田山 東京別院 深川不動堂 は、元禄十六年(1703年)に永代寺で行われた成田山 新勝寺のご本尊である 不動明王像 の出開帳を起源としています。 先の 『 江東区の民俗 深川編 』 には深川不動堂の縁起も詳しく記されています。
元禄年間に江戸町人に成田山の本尊不動明王を江戸で参拝したいという気運が高まり、元禄十六年(1703年)に開帳が深川永代寺境内でおこなわれた。 成田山出発の総勢は 300人を超える行列が組まれ、江戸まで一週間ほどかけて本尊が運ばれ、二ヵ月あまり開帳された。 明治に入り、永代寺は廃寺となり、境内は深川公園となる。 明治2年(1869年)、現在地に深川不動堂が認められ、明治14年に本堂が完成する。 大震災・空襲で二度にわたり本堂が焼失し、再建され、平成3年に本坊・客殿・奥殿を再建する。
成田山不動堂は下総国成田山新勝寺の出張所で、はじめは出張所を日本橋坂本町に設けた。 その創設年代は不明である。 天保十二年(1841年)に浅草御蔵前八幡神社(現:蔵前神社)内に移転。 明治2年、深川吉祥院境内へ移転。 明治11年、旅宿を不動堂と改称する。 明治14年、成田山不動堂完成、大仏供養。 本堂が完成してから十数年後、明治31年に日清戦争勝利を記念して大きな石造燈明台が燈明講の手により奉納され、その台石正面に当時の有名歌舞伎役者九世市川団十郎(屋号成田屋)の名前が彫られているように、深川不動尊は明治から多くの方々の信仰を集めていた。 現在でも、参拝者は多く、縁日などに月参りする信者は約 10万人、正月三が日には 200〜300万人の信者がお参りするという。
【深川不動堂 旧本堂】
本堂内に おねがい不動尊 が安置される
こちらの立派なお堂が 旧本堂 です。 平成23年 4月まで本堂とされていました。 明治14年に完成した本堂は、関東大震災および東京大空襲によって焼失してしまったため、昭和25年に千葉県本埜村(現在の印西市)の 龍腹寺 のお堂(文久三年(1863年)建立)を移築して本堂としたといいます。 江東区内最古の木造建築といわれ、江東区指定登録文化財となっています。 旧本堂内には樹齢 500 年を超える楠の霊木を使用した身の丈一丈八尺(約 5.5m)からなる国内最大級の木造不動尊像となる おねがい不動尊 が安置されています。
【深川不動堂 本堂】
外壁の 真言梵字 によって仏の力で守護されている
現在の 本堂 はこちら、開創 310 年記念事業として建立された新しい本堂です。 外壁はお不動さまのご真言が梵字で散りばめられているという斬新な建物です。 旧本堂よりご本尊の 不動明王像 および脇侍の 二童子像、四大明王像 が安置されています。 また、ご本尊の真下には回廊が設けてあり、一万体にもおよぶクリスタル製の五輪塔が奉安されています。
この日は七五三詣以外の参詣者も大変多く、本堂の回廊や 内仏殿 もお参りしていこうと思っていたのですが、あまりの人の多さに断念してしまいました。 その代わり旧本殿ではしっかりと手を合わせてご真言を唱えてきました。
後編に続く
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前編より
穴守稲荷神社 の拝殿と 奥之宮、および 境内社 でしっかり手を合わせた後、社務所でお守りでも頂こうかと思ったのですが、祭りの準備のため作業員の出入りもあって忙しそうなのでまた別の機会にということにしました。 時計を見るとまだ午前 10 時半です。 地図を見ると、穴守稲荷神社から約 700m ほどの所に、米軍に接収される前の穴守稲荷神社の参道にあった 赤鳥居 があるので訪ねることにしました。 予報どおりの猛暑で、歩いていると大粒の汗が流れ落ち、持っていたタオルは絞れるほど。 海老取川に架かる弁天橋にさしかかると羽田空港に駐機する旅客機が見えました。 この歳になっても大きな乗り物を見るとなぜかワクワクしますなぁ。
【羽田空港】
弁天橋を渡ると右手に件の 赤鳥居 がありました。 鳥居の前には、羽田の地名の由来や米軍に接収された当時のことなどが地図や写真付きで詳しく記された板書があります。
【赤鳥居】
穴守稲荷神社が遷座される前に参道に建っていた鳥居
第二次世界大戦終結後、連合国による占領下におかれた日本は一般命令第一号により飛行場や航空施設の保存を命じられました。 東京飛行場(現在の羽田空港)は、1945年 9月12日に連合国への引き渡しが命じられ、翌 13日には武装した兵士らがジープで乗り付けて飛行場にいた者を追い出して接収したといいます。 東京飛行場は日本に駐留する米軍が使用する基地となり、ハネダ・アーミー・エアベース( Haneda Army Airbase : 羽田陸軍航空隊基地 )と呼ばれることになりました。 飛行場の正式名称に 羽田 の地名が用いられたのは、このときが初めてといいます。
しかし、当時の東京飛行場の規模(面積 72 ha)は、米国の基準から見るとローカル空港程度でしかなく、早急な機能拡張が求められました。 そのため、12日の引き渡し命令の対象は既存の飛行場施設に留まらず、拡張用地確保を目的として隣接する三つの町(羽田鈴木町・羽田穴守町・羽田江戸見町)をも含んでいました。 この地区には 1,200 世帯 ・ 3,000 人が居住していましたが、敗戦国であった日本に拒絶の余地はなく、終戦を迎えたばかりの対象住民らは 9月21日に警察から口頭で 12 時間以内の退去 を知らされました。 その後、区役所と警察を介して行われた交渉によって制限時間が 48 時間以内 に延長されましたが、それ以降立ち入った者に 生命の保証はない との条件が付けられました。 住民らは短時間のうちに家財をリヤカーや舟に積んで立ち退くことを余儀なくされたといいます。
平和 と書かれた扁額には、二度と戦争を繰り返してはいけないという願いが込められている
制限時間経過後も忘れ物を取りに命懸けで戻る者がいたことなどから、その後 GHQ から日中に限り町への出入りが一週間だけ認められたといいますが、住民の退去後旧居住区は稲荷橋に設けられた入場ゲートや武装した米軍憲兵によって封鎖され、住民たちは完全に排除されることになりました。
なんら補償も行われないままこの地を追われた旧住民らは、住居が米軍の巨大なブルドーザーやショベルカーによって軒並み取り壊されていく様を海老取川の対岸からただただ見守ることしかできませんでした。 接収された地が旧住民らの手に再び戻ることはなく、その大部分が B滑走路の一部を含む空港敷地として今日も使われ続けています。
参照 : ウィキペディア
穴守稲荷神社の遷座 と 鳥居の祟り については前編 にも記しましたが、板書によると、強制退去により住まいや仕事場、なじみの商店や遊び場のすべてが破壊される中、取り壊しを免れたこの鳥居だけが往時を物語る唯一の建造物で、歳月を重ね風雪に耐えた鳥居は米軍に強制退去させられた住民たちの 心のふるさと として往時を偲ぶ象徴となっていたと記されています。
昼食にはまだ早いので、穴守稲荷神社からほど近い 羽田神社 も訪ねてみることにします。 弁天橋から西に向かってどこまでも歩き、産業道路にぶつかったら渡って南に進路を取り多摩川に架かる大師橋のたもとにあります。
【羽田神社】
羽田の総鎮守である 羽田神社 は、羽田の氏神さま として親しまれ、場所柄から航空会社各社の崇敬も篤く、運行安全・航空安全祈願の参拝も多いことから航空安全祈祷に特化した神社として知られています。 創建は古く、鎌倉時代に羽田浦の水軍で領主だった行方与次郎(なめかたよじろう)が牛頭天王(ごずてんのう)を祀ったことからとされ、代々羽田に暮らす住民の中には羽田神社を てんのうさん と呼ぶ人もいるといいます。
江戸時代の文久元年(1861年)に疱瘡(天然痘)が流行すると、十三代将軍徳川家定は疱瘡治癒祈願に参詣、治癒した故事から病気平癒のご利益があるとされ、徳川家・島津家・藤堂家などに篤く信仰されたといいます。 明治元年(1869年)の神仏分離令により、隣接する自性院境内に祀られていた牛頭天王社が 八雲神社 として独立、明治40年に 羽田神社 と改称し現在に至っています。
【疱瘡除祈願御礼の碑】
徳川家定の参拝により疱瘡が治癒したことから病気平癒の神として信仰された
手水舎で身を清め、社殿で手を合わせます。 ご祭神は 須佐之男命(すさのおのみこと) と 稲田姫命(いなだひめのみこと) の夫婦の神様をお祀りしていることから 縁結び・勝負事 のご神徳があると伝えられています。 とはいえワタクシの願い事はただ一つ
今日も美味しいお酒が飲めますように …
ま、勝負は時の運だし、縁結びにはもうすでに縁は無し … 若い頃は、愛や恋で酔えたけど、今のワタクシは酒でしか酔えません。 その日その日に 美味い酒が飲めること だけが望みという ……
【羽田富士塚】
社殿の左手には大田区文化財にも指定されている 羽田富士塚 がありました。 拙ブログでは何度も何度も紹介していますが、富士塚 とは、富士山へ登りたくても登れない高齢者や女性、体の弱い人達でも登拝できるように各地の社寺境内などに本物の富士山から持ち帰った溶岩などを積み上げて模造富士を築いて浅間神社を祀り、ここをお参りすることで富士山に参拝したのと同じご利益が得られるようにしたものです。
富士塚は江戸中期より関東を中心に各地で盛んに造られましたが、ここ羽田富士は明治初年に築造されたもので大田区では唯一といわれています。 毎年7月1日の山開きには、羽田富士講の講員が登詣する風習が残っていたといいますが、近年は崩落の危険があることから行われていないようです。
頂上に祀られる浅間神社のご祭神は 木花咲耶姫命(このはなさくやひめのみこと)です。 木花咲耶姫命は、古来より 安産・子育て・子宝 の神様として崇敬されていますが、子作りすることはできても子育てする自覚が完全に欠落 しているワタクシにはまったく縁がありません。 結局ここでも … 美味しいお酒が飲めますように … と手を合わせるだけのワタクシでした。
社殿の右手には、江戸時代に羽田の地を開墾した鈴木弥五右衛門の鈴木新田、増田市左衛門の増田新田にちなむ 鈴納稲荷神社・増田稲荷神社 に、日枝神社・羽田稲荷神社 が祀られています。 いずれも現在地より離れた場所に祀られていたのですが、米軍による強制退去や京急線および道路拡幅工事などにより行き場を失ったため羽田神社と合祀され境内社となりました。
いちばん奥には 鳳輦庫 がありました。 鳳輦(ほうれん)とは、屋根に鳳凰の飾りのある天子の車 を意味し、天皇が行幸で使用する乗り物のことをいいますが、現代では神社の祭りなどに使われる 鳳凰の飾りがある神輿 のことをいいます。
【鳳輦庫】
板書によると、こちらに保管されている鳳輦は東京オリンピックが開催された昭和39年に製作されたものだそうです。 2020年に開催される東京オリンピック・パラリンピックの年の羽田祭りにて渡御することを目標に現在修復中とのこと。
一通り境内を眺め歩いていると、さすがに暑さで汗だくになり喉もカラカラ。 自販機の清涼飲料水についつい手が伸びそうになりますが、本日はお稲荷さんをはじめさまざまな神様に美味しいお酒が飲めますようにと願掛けした手前があります。 お腹も空いてきたしここはひとついい店が見つかるまで我慢しよう。 元来た道を駅の方に戻ってみることにしました。
コンビニエンスストアはすぐに見つかるのですが、食事処や、とくにビールが飲めるような店がなかなか見つかりません。 中華料理店はあったのですが、ビールと餃子の相性の良さはわかっていても、この暑さではどうにも中華料理を食べようという気分にはなりません。 また、穴子を使った珍しい鍋料理の 羽田鍋 が名物の店がありましたが、残念ながら日曜は休業のようです。
ふ〜む … そうか、羽田といえば穴子だよな …
蕎麦屋か天婦羅屋でもあれば穴子天が食べられるかもしれないな …
穴子天でビールか、そういえば前に 金沢文庫 に行った時もそうだったなぁ …
とはいえ穴子の旬は今ごろだからな、どこかいい店はないかな …
この暑さでのどはカラカラ、早くビールを飲まないと倒れそうだよ …
ん ? あの店の看板、なんだか見覚えがあるなあ …
雑誌か TV で見たのかな、たしか天婦羅とか鰻の蒲焼が名物の店じゃなかったかな …
あ、客が入っていった … ム、11 時半か、開店したばかりかもしれないな …
ああ、そうだ ! アド街ック天国かなんかで紹介された店だ !
ちょっと高そうだけど、ここに入ってみようか …
【食通 ゆたか】
江戸前のとれたて穴子や地魚の天婦羅が堪能できる店
本日の昼食に選んだ店は 食通 ゆたか という店です。 店名を口にするのはちょっと気恥ずかしい感じがしますね。 江戸前の穴子やボサエビの天婦羅で有名な店だそうです。 木の枝や竹を束ねたものをボサといい、これを数日から数週間海底に沈めておき、小魚やカニ・エビなどが住み着いたころを見計らって引き上げることを ボサ漁 といいます。 この漁法で獲れたスジエビをボサエビと呼び、メバル釣りの餌でもよく知られていますが、江戸前の天婦羅のタネとしても珍重されています。
【店内壁のいたる所に有名人のサインがずらり】
芸能人・著名人だからといってすべての人が 食通 とは限らない
店内に入ると年配の女将さんと思しき女性がカウンターに案内してくれました。 店内にはここに訪れた芸能人やスポーツ選手のサイン色紙がずらり。 品書きを見ると、昼食時は三種類の穴子天重に天重とカツ重のみ提供しているようです。 ボサエビ天には激しくソソられましたが、夜の営業でしか提供していないようで残念。 また、高級そうな店構えのわりにはリーズナブルな価格設定で一安心。
「 いらっしゃいませ 」
「 すみません、最初にビンビールをいただけますか ? 」
「 ビールですね、ハイ今お持ちします 」
料理を注文する前にとにかくビールです。 この一杯を美味しくいただきたいために、歩いている最中は手水舎で口をゆすいだ以外水分は一切摂りませんでした。 ビールは注文後すぐに運ばれてきましたが、今日ほど待ち時間が長く感じられたことはないのではないか …
【アサヒスーパードライ】
乾杯、オレ !
ゴクゴクゴクゴクゴク ……
プハ〜ッ !! ウメェ !!!!
炎天下の中を汗だくになって歩いてたどり着いた一杯、ビールがこんなにもウマく感じられたのは久しぶりのような …。 500 ml の中ビンがアッという間に残り 1/4 になったところでようやく一息つき、名物の穴子天重の中からせっかくなので一番いい 上穴子天重 を注文することにしました。 穴子天重には上穴子(¥1,690)、中穴子(¥1,450)、ランチ天重(¥1,080)と三種類ありましたが、鰻重の松竹梅と同じで恐らく大きさで違うのではないかと思われます。 確かめたわけではありませんが …。 数分後、ワタクシのあとに来店した客が上穴子天重を注文したら 「 本日は品切れです 」 と断られていました。
一本目のビールがすぐになくなったので二本目を追加、暑さも和らぎ汗も引いたところで穴子天重ができあがるのを待ちます。 それにしてもビールがウマい。 グラスなので注いでは空になり注いでは空になりと忙しいけれど、これはビール好きにとっては実に楽しい作業。
「 お待たせしました〜、上穴子天重です〜 」
「 うわっ、ウマソ〜 !! 」
「 ごゆっくりどうぞ〜 」
【上穴子天重】
特大穴子が一尾まるまる入る !!
江戸前の天婦羅らしく、胡麻油の香ばしい香りが鼻をくすぐります。 穴子天は三つになっていますが、これでまるまる一尾の大きさ、約 40 cm はあるのではないか。 茄子としし唐が彩りを添えています。 天婦羅は揚げたてを一気呵成に喰らうのが一番美味しく食べる方法。
まずは穴子の一切れを口に ……
ダハァ〜、シ・ア・ワ・セ 〜〜〜
身は厚く、フワッとした食感の中に穴子の旨味が凝縮されていてホントにもうこれは絶品 !! タレがまた甘すぎずしょっぱすぎずで穴子の味を大いに引き立ててくれます。 昼の営業では提供されていませんが、白焼きや煮穴子もこの穴子なら相当美味しいのではないかと思いました。
胡麻油が香り立つ正統派江戸前の穴子天婦羅
隣に座ったカップルはお手頃なランチ天重を注文していましたが、チラリと横目で見ると穴子天の大きさがまったく違いました。 やはり値段の違いは大きさの違いだと思われます。 とても大きな穴子なのに、油のくどさはまったく感じられず、最後の一切れまでとても美味しくいただくことができました。 これでボサエビの天婦羅が単品で注文できれば最高だったのですが ……。
会計をする場所が厨房と繋がっているので、女将さんに会計をお願いしたときに調理人に聞こえるように少し大きい声で
「 とっても美味しかったです、ごちそうさまでした ! 」
と言うと、皆さんニコッと笑って
「 ありがとうございました〜 」
と、愛想よく返してくれました。 ワタクシが帰る頃には二つある四人掛けのテーブルが埋まり、奥の座敷も団体の予約客で埋まっていました。 店の外には二組ほど並んでおり、ワタクシと入れ違いにカウンターへ案内されていました。 早めの時間に伺って、品切れする前の上穴子天重も注文できて、お稲荷さんに美味しい酒が飲めますようにと願掛けしたご利益をさっそく授けていただけたようです。
この後、空港線から京急本線直通のエアポート急行・新逗子行に乗り、日ノ出町駅で降りて野毛の行きつけを数軒はしごして、とてもいい気分で自宅に戻りました。
< 追記 >
一週間後の 7月29日(日) 羽田祭り がやはり気になって再び穴守稲荷駅までやって来ました。 そこかしこから祭囃子が聞こえてきて、腹掛に半股引の江戸前スタイルでキメた担ぎ手が大勢いていかにも楽しそう。 前日、関東地方沿岸を台風12号が通過したおかげで各地で花火大会や夏祭りが中止されましたが、羽田祭りの神輿渡御は問題なく行われそうです。
【羽田神社】 と 【穴守稲荷神社神楽殿】
ただ、時間を確認すると、神輿渡御は午後二時半からとのこと。 午前中に着いてしまったワタクシはもうちょっとスケジュールを確認してくればよかったと反省。 ともかく 穴守稲荷神社 と 羽田神社 を参拝。 両神社とも境内に屋台が出ていて、こちらもまだ準備中ではありましたが、いくつになってもこういう風景を見ると童心に戻りますね。
と、どこからか子供たちの 「 ワッショイ !! ワッショイ !! 」 という掛け声が聞こえてきました。 どうやら子供神輿が始まったようです。
ワタクシが子供の頃も町内会の夏祭りで神輿を担いだことがありましたが、終わったあとにご褒美で出される冷たいジュースやスイカは重労働(?)のあとともあって、この上なく美味しかったことが思い出されます。 ワタクシが小学生の頃、四十年前は子供がとても多かったので町内会の催し物も子供が参加できるもの、例えばお神輿や正月の餅つき大会など盛んに行われていましたが、現在は少子化のせいで子供も少なくなったのかほとんどの行事が催されていないようです。
この日も猛暑となり、路上でカメラを構えているだけで汗がしたたり落ちてきます。 居酒屋チェーンの 養老乃瀧 や ひもの屋 はこの日ばかりは午前中から営業しており、キンキンに冷えた生ビールには激しくソソられましたが、二時半過ぎから始まる神輿渡御までは身体が持ちそうもないので、正午過ぎに穴守稲荷駅から京急線に乗り、地元の野毛に戻って行きつけの焼鳥屋 鳥福 の縄暖簾をくぐることにしました。 結果的に子供神輿だけ見てきた格好になりましたが、お祭りの雰囲気は十分に堪能できたのでなかなか有意義な一日となりました。 暑い中水分を一滴も摂らずに我慢していたおかげで、この日のビールも瞬く間に五臓六腑に沁みわたっていきました。
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さて今回も 「 私鉄沿線 東京近郊、あの街この街 名所・史跡・美味めぐり 散歩旅 」 をお送りいたします。 このコンテンツは、東京近郊を走る私鉄を利用してその路線にある名所や史跡を訪ね、ついでにグルメも味わおうという企画です。 東京近郊の電鉄 9 社による共同企画として発案された歴史スポットとあったかグルメをめぐる 「 おいしい歴史さんぽ旅 」 というスタンプラリーを手本とし、居酒屋めぐりの達人・太田和彦さんが案内する 「 ふらり旅 いい酒いい肴 」 や、BS-TBS の人気長寿番組 「 吉田類の酒場放浪記 」 あるいは、松重豊さん主演のドラマ 「 孤独のグルメ 」 といった番組から 「 アカデミック 」「 ほろ酔い 」「 看板メニューを堪能 」 という要素もちょっぴり足して、歴史趣味と酒飲みの両方を満足できる散歩旅にしたいと思っています。
第二十八回目は 「 京浜急行空港線 - 穴守稲荷駅 穴守稲荷 × 穴子天重 」 をお送りします。
●京浜急行空港線
京浜急行空港線は、東京都大田区の京急蒲田駅と羽田空港国内線ターミナル駅間 6.5 km を結ぶ路線です。 分岐となる京急蒲田駅を含めて 7 駅が置かれます。 近年、羽田空港の国際便が復活したことにより、浜松町駅と空港駅を往復する東京モノレールと激しい集客争いを演じていますが、京浜急行のほうがやや優勢のようです。
【京急新1000形 エアポート急行】
新逗子駅〜羽田空港国内線ターミナル駅間を 逗子線・本線・空港線 と経由して結ぶ急行列車
京浜急行空港線の歴史は古く、また、京急の路線の中ではもっとも紆余曲折のあった路線として知られています。 明治35年(1902年)、京浜電気鉄道(現在の京浜急行電鉄)によって大森停車場前駅(現在のJR大森駅)と穴守稲荷神社参詣客のための穴守駅(現在の穴守稲荷駅)を結ぶ穴守線として開業したのが始まりで、当時は羽田支線とも呼ばれていました。 当時の羽田は、穴守稲荷神社参詣人気は言うにおよばず、潮干狩りや海水浴など海浜レジャーのメッカで、京浜電気鉄道も海の家や海水プールなどを運営し観光事業にも注力していました。 また、昭和 6 年(1931年)、日本初の国営民間航空専用空港東京飛行場(羽田飛行場)が開港すると、飛行場への人員輸送にも力を入れていました。
昭和20年、大東亜戦争の敗戦によって羽田飛行場が米軍に接収され、後述しますが、その拡張整備のため穴守稲荷神社が強制退去により移転、ならびに穴守線も接収地内にかかる末端部が営業休止、残る区間も貨物線を建設するため単線化とされる憂き目に遭い、路線縮小を余儀なくされてしまいます。 翌年に開業した貨物線では蒸気機関車による貨物輸送、ならびに GHQ 専用車の運転も行われていました。
【穴守稲荷駅】
開業当時は終着駅だったが、現在の駅舎は蒲田寄りに約 1.3 km ほど移設されている
米軍の接収解除後、昭和38年に穴守線から空港線へと改称しますが、国の方策により京浜急行電鉄の羽田空港への乗り入れができず、羽田空港駅は存在したものの、空港からは距離があったために空港線とは名ばかりの路線となっていました。 しかし、羽田空港の拡張事業が本格化すると、まずは平成 5 年(1993年)に羽田駅(現在の天空橋駅)が開業して京急本線からの直通運転が開始され、平成10年には羽田空港駅(現在の羽田空港国内線ターミナル駅)が開業、羽田空港への路線として本格的に機能するようになります。
また、開業以来、内外の要因から路線や駅の移設、それに伴う駅名の改称が頻繁に行われたのもこの路線の特徴です。 近年話題になった移設工事としては、京急本線からの直通運転を円滑に行うための高架化があります。 かつての空港線は、分岐となる京急蒲田駅に隣接する環状八号線(環八通り)および国道15号(第一京浜)のそれぞれに踏切が存在し、ラッシュ時にはそれが開かずの踏切と化したため、慢性的な交通渋滞を起こして問題となっていました。 さらに、正月に行われる箱根駅伝では、列車通過のため踏切で走者が足止めを食らったり、京急側も特別ダイヤを組まざるを得ないなど、年々高まる需要増大も加わって空港線の早期高架化は重要な課題となっていました。
【高架化された現在の空港線】
高架下が国道15号 かつてこの場所に大踏切があった
平成13年に高架化工事が開始されると、平成22年にまずは上り線が高架化、平成24年には下り線も高架化され、環状八号線および国道15号を横断する踏切が廃止されました。 これによりラッシュ時の渋滞は大幅に緩和され、箱根駅伝への影響もなくなり特別ダイヤによる運行問題も解消されます。 また、この高架化により京急蒲田駅にも大改修が行われ、二面六線を有し 12輌編成と 6 輌編成電車が同時に停車および待避が可能な機能的かつ大きな駅へと生まれ変わりました。 ちなみにこの高架化工事事業は グッドデザイン賞を受賞しています。 このように開業から 110余年の間にはさまざまなことがありましたが、羽田空港の国際線の増加によって更なる利便性が付加されることは間違いなさそうです。
さて、ワタクシにとっての京急空港線は、幼稚園に上がる前に父親に羽田空港へ連れて行ってもらったのが最初の乗車でしょうか。 初めて見る旅客機の爆音に驚いて、持っていたコカ・コーラのビンを落としてしまい、着ていた服を汚したために怒った、と父親は 50年近く前の出来事を今でも思い出して言うときがあります。 怒られた記憶は残っていないのですが、この時に買ってもらった今は無きパンアメリカン航空(パンナム)のマークが入った空色のショルダーバックは大そうお気に入りで、幼稚園に上がったあともどこか出かけるたびに提げていたのはよく覚えています。 その後、空港線は父親の故郷である山形県の庄内空港へ飛ぶために何度も利用しています。
さて、約九か月ぶりの更新となる 「 名所・史跡・美味めぐり 散歩旅 」 ですが、今回は羽田空港ではなく、穴守線開業時の終着駅となっていた穴守駅(現在の穴守稲荷駅)で降車し、京急空港線とともに米軍に翻弄されながらも羽田の歴史をずっと眺めてきた 穴守稲荷神社 を訪ねてみたいと思います。 そして散歩の後のお楽しみですが、羽田といえばなんといっても 穴子。 江戸前の穴子は羽田に限る、と昔から言われているほど羽田の穴子は有名です。 神社にお参りしたあとは美味しそうな店を探しに周辺をブラブラ散歩してみましょう。 その前にいつもの通りまずは予習から。
【穴守稲荷神社】
●穴守稲荷神社
食物・穀物を司る女神である 豊受姫命(とようけひめのみこと) を祭神とする稲荷神社です。 穴守とは、堤防に開いた穴の害から田畑を守るという神徳にちなんでいます。 文化元年の頃(1804年頃)鈴木新田(現在の羽田空港内)開墾の際に、築いた堤防に大波による穴が開き、そこから大量の海水が浸入したために村々は甚大な被害を蒙りました。 そこで村民が堤防の上に祠を勧請し稲荷大神を祀ると、神霊の御加護あらたかにして、水害は収まり田畑は五穀豊穣に恵まれたといわれ、これが穴守稲荷の由緒と伝えられています。
神社のある羽田周辺の遠浅の海岸は古くから潮干狩りの名所であり、明治の終わりに温泉が湧くことが発見されると、門前には旅館や芸者置屋ができるなど、羽田は参拝客だけでなくレジャー産業でも賑わいを見せるようになりました。 さらに、京浜電気鉄道(現在の京浜急行電鉄)が蒲田駅より延伸され交通の整備(穴守線)がなされると、国内外より多くの参拝客が訪れました。
しかし、大東亜戦争が終わった直後の昭和20年、羽田飛行場を接収した米軍は飛行場拡張計画に基づき、計画区域内にある穴守稲荷神社および住民たちの強制退去を敢行します。 退去は 48時間以内に行わなければいけない、という信じ難いほど理不尽なものでしたが、これに対して地元の有志らは移転先となる現在の鎮座地 700坪を寄進し、現在地(大田区羽田五丁目)に遷座、仮社殿を再建します。 有志と崇敬者の協力の下、現在は 本殿・拝殿・奥之宮・神楽殿・社務所・神輿庫・納札所 などが復興し、神社は昔日の姿を取り戻しつつあります。
ねがいごと かならずかなう 穴守の いなりの神よ いかに尊き
羽田ではやる お穴さま 朝参り 晩には 利益授かる
●奥之宮と神砂(あなもりの砂)
今は昔、羽田浦に老漁師がいました。 ある時、漁を終えて帰宅し魚篭を覗くと、魚ではなく湿った砂が入っているだけでした。 翌日も翌々日も大漁で沖からあがり魚篭を見ると、やはり湿った砂があるばかりです。 老漁師はいぶかしく思い、村人たちにこのことを話すと、村人たちはこれを狐の仕業として稲荷神社を取り囲み、一匹の狐を捕まえました。 しかし、老漁師は狐を許して逃がしてやります。 それ以降、老漁師が漁にでると必ず大漁となり、魚篭には多くの魚とわずかばかりの湿った砂が残るようになりました。 ある日、老漁師がその砂を持ち帰って家の庭に撒いたところ、商売が繁盛し富を得ることができました。 そのため、穴守の砂には招福のご利益があるとされ、多くの参拝者を集めました。 また、江戸時代には性病除けの守り神として、遊女たちから信仰を集めたとも伝えられています。
●鳥居の祟り
つい最近(平成11年)まで、羽田空港敷地内の駐車場に、場違いな赤鳥居が取り残されていたことは有名な話です。 穴守稲荷神社が現在の場所に遷座したのが昭和20年、旧社地に残された社殿などの建造物は米軍によってすぐに取り壊されましたが、門前の赤鳥居を撤去するためにロープをかけて倒そうとしたところ、そのロープが切れて作業員たちに死傷者が出てしまいます。 その後、何度も撤去案が出されますが、その度に工事関係者が事故に遭ったり原因不明の病気になったりと、それはいつしか 鳥居の祟り とささやかれ、とうとう赤鳥居の撤去はできず駐車場内に残されることになりました。 昭和29年には東京国際空港ターミナルビルが建設されますが、同時期に行われた滑走路拡張工事でも工事中に死傷者が続出します。 しかし、羽田空港の沖合拡張事業にあたり鳥居の存在は滑走路増設に支障が出るため、結局、穴守稲荷神社の遷座から半世紀以上経った平成11年に、撤去ではなく移設という形でようやく現在地(弁天橋のたもと・大田区羽田空港一丁目)へ移されることになりました。 この移設工事で死傷者が出たかどうかは不明です…。
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7月22日(日) 朝からよく晴れ、この日の予想最高気温は 35度超。 炎天下に街歩きというのもどうかと思うのですが、なにもやらないと朝から冷蔵庫を開けて缶ビールを …… となってしまい一日を丸々無駄にしてしまうため(ほとんど休日は酒場で無駄な時間を過ごしているのだが)、せめて近間でも … ということで一番身近な京浜急行線の支線のうち記事に採り上げていなかった空港線を利用して商売繁盛にご利益があるという 穴守稲荷神社 を訪ねることにしました。
【穴守ふれあい通りサンサン会】
穴守稲荷駅前にある商店街
午前 9 時ちょうどに自宅を出発し、最寄りの京急上大岡駅からは乗り換えなしで行くことのできる 9:27分発のエアポート急行・羽田空港行に乗り、目的地の穴守稲荷駅には 10 時ちょうどに到着しました。 駅前には線路と直角に交差するかたちで商店街があり、夏祭りを飾る彩とりどりの提灯が風になびいており、初めて来た場所なのになぜか懐かしさを感じます。
【穴守稲荷神社の鳥居】
改札口を出て左に曲がり提灯を眺めながら駅前の商店街を歩き、二つ目の路地を右に入ると 穴守稲荷神社 の鳥居が見えてきます。 通り沿いにはかつての花街の名残を思わせる雰囲気の良い割烹料理店がありました。 歴史のある店なのだろうなと思っていたのですが、あとから調べたら昭和30年代後半〜40年代初頭の創業だそうでわりと新しい料理店でした …。
【参道にあるなかなか趣のある料理店】
店先に掲げられたホワイトボードの品書きを見ると、コース料理以外の丼物などはその佇まいのわりには手頃な値段なので昼食にはいいかな … と思ったのですが、午前 10 時を回っても店内が暗く開店前の仕込みをしているようには見えず、日曜日は休業あるいは昼間の営業はやっておらず夕方から開店といった感じ …。
【穴守稲荷神社神楽殿】
28〜29日に催される羽田祭りの準備に大忙し
さて、穴守稲荷神社 の境内に入ると、神楽殿 の前では毎年7月の最終土日に催される 羽田祭り の準備の真っ最中。 地域一帯が協力して行う羽田祭りは、神輿の担ぎ手だけでも 3,000人、見物客も 30,000人以上が訪れるという大きなお祭りです。 日曜日の午後に行われる町内神輿連合渡御では、14町会 14基の神輿が三時間近く練り歩くといいます。 また、羽田空港から各航空会社の客室乗務員さんたちも多数参加するという大変賑やかなお祭りだそうです。 ワタクシは一度も見学したことが無いのでこれはぜひとも目にしたいですねえ。
【穴守稲荷神社拝殿】
まずは 手水舎 で身を清めてから 拝殿 に向かいます。 名の通っている神社なので参拝客が多いだろうと思っていたのですが、暑さのせいか時間のせいか意外と人出が少なく、祭りの準備で忙しい職人の声が響く以外はいたって静かな境内です。 お賽銭をし、手を合わせていつものように …
今日も美味しいお酒が飲めますように …
拝殿の隣、奉納された千本鳥居をくぐり抜けた先に 奥之宮 があります。 別名 お穴さま とも呼ばれ、ここの 御神砂 を持ち帰り自宅の敷地内または玄関や床下に撒いたり、あるいは身に着けると願い事が叶うとされ古くから信仰を集めています。
【奥之宮】
しっかりと手を合わせてから金属製のケージに納められている御神砂を備え付けの袋に入れて頂きます。 袋にはご丁寧に砂の撒き方が印刷されておりとても親切です。
【御神砂】
しかし、無造作に積み上げられた鳥居 ……
これはこれでいいものなのだろうか ??
御神砂には 家内安全・商売繁盛・病気平癒・災厄禍除 にご利益があると伝えられています。 御神砂を持ち帰った翌日の月曜日、ワタクシは
景気がもっと良くなりますように …
と、職場の店先に撒いたのですが、その日以来現在まで約10日ばかり、売上が若干ですが良い状態が続いております。 さっそくご利益を授かったのでしょうか、これはお礼参りもしないといけませんね。
奥之宮と本殿の裏手に築かれた山には 福徳稲荷・幸稲荷・末廣稲荷 など、さまざまなお稲荷さまが祀られています。 頂上には 御嶽神社 が祀られていました。 米軍に強制移転させられる以前からお祀りされていたものなのでしょうか、どれも歴史を感じさせいかにもご利益がありそうです。 せっかくのご縁なのですべてのお稲荷さまに手を合わせます。
また、奥之宮の手前にも 稲荷大明神 を筆頭に 出世稲荷・開運稲荷・必勝稲荷 が祀られています。 こちらはいくぶん新しくいかにも若者ウケしそうなお稲荷さまですが、出世はともかく、開運という言葉にヨワいワタクシはいずれもしっかりと手を合わせてまいりました。
【狐塚社】
こちらはお稲荷さまの使いである 狐 が祀られる 狐塚社 です。 鳥居の前に立つと、たくさんの狐がこちらを見ているように見えます。 ここでも、美味しいお酒が飲めますように … と、しっかりと手を合わせてきました。
後編に続く
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【市ヶ尾竹下地蔵堂の庚申塚と地蔵像】
さて今回も 「 私鉄沿線 東京近郊、あの街この街 名所・史跡・美味めぐり 散歩旅 」 をお送りいたします。 このコンテンツは、東京近郊を走る私鉄を利用してその路線にある名所や史跡を訪ね、ついでにグルメも味わおうという企画です。 東京近郊の電鉄 9 社による共同企画として発案された歴史スポットとあったかグルメをめぐる 「 おいしい歴史さんぽ旅 」 というスタンプラリーを手本とし、居酒屋めぐりの達人・太田和彦さんが案内する 「 ふらり旅 いい酒いい肴 」 や、BS-TBS の人気長寿番組 「 吉田類の酒場放浪記 」 あるいは、松重豊さん主演のドラマ 「 孤独のグルメ 」 といった番組から 「 アカデミック 」「 ほろ酔い 」「 看板メニューを堪能 」 という要素もちょっぴり足して、歴史趣味と酒飲みの両方を満足できる散歩旅にしたいと思っています。
第二十七回目は 「 東急田園都市線 - 市が尾駅 市ヶ尾遺跡公園 × 五目釜めし定食 」 をお送りします。
●東急田園都市線
東京急行電鉄株式会社の運営する東急田園都市線は、東京都渋谷区の渋谷駅と神奈川県大和市の中央林間駅間 31.5km を結ぶ路線です。 同社の東横線と並ぶ基幹路線で、ラッシュ時は東京圏内の私鉄の中でも非常に高い混雑度を示す路線となっています。 また、路線内に踏切が一つもないことでも知られています。 運行は急行と準急および各駅停車の三種類の列車によって行われ、置かれる駅は 27 駅、東京メトロ半蔵門線・東武伊勢崎線などと相互直通運転も行っています。
【東急8500系電車】 と、直通運転により乗り入れする 【東武50050系電車】
東急田園都市線は、東京急行電鉄の主導によって開発が行われた 多摩田園都市地域 と都心を結ぶ交通機関として発展してきました。 多摩田園都市とは、主に溝の口以西のニュータウンを指しますが、田園都市線で最も早く開業したのは溝の口よりも東側の二子玉川駅 - 溝の口駅間で、昭和 2年(1927年)に玉川電気鉄道の運営する玉川線の支線となる溝ノ口線として開業したのが始まりです。 玉川線は二子多摩川付近で採取した砂利を東京都心に輸送する目的で敷設された路線でしたが、現在は東急世田谷線区間を除いてすべて廃止されています。
溝ノ口線は、玉川線の支線として運行されていましたが、昭和18年に大井町線に編入されて大井町線として運営されます。 大井町線は昭和38年に田園都市線と改称され、以来この名称が使用されています。 昭和41年、溝の口駅から長津田駅まで延伸される一方、渋谷駅 - 二子玉川園駅(現在の二子玉川駅)間が昭和52年に開通します。 これは昭和44年に廃止された玉川線を継承する路線で、新玉川線の名称が与えられました。 新玉川線開通当初は田園都市線との直通運転を行っていませんでしたが、昭和54年より直通運転が開始されました。 この時に田園都市線から大井町駅 - 二子玉川駅間が分離して大井町線の名称が復活しています。 昭和59年には長津田駅から中央林間駅までが延伸され現在の路線が完成しました。 また、昭和54年以降新玉川線と田園都市線の重複を解消するために、平成12年(2000年)に新玉川線を田園都市線に編入し、渋谷駅 - 中央林間駅間を田園都市線とすることになりました。
さて、前回に引き続きしばらく更新が滞ってしまった 「 名所・史跡・美味めぐり 散歩旅 」 ですが、今回は 東急田園都市線 に乗車して市が尾駅で降り、古墳時代後期( 6〜7 世紀頃)にかけて造られた 横穴墓群 が保存・展示されている 市ヶ尾遺跡公園 を訪ねてみたいと思います。 いつもの通り少しばかり予習を。
横穴墓( おうけつぼ・よこあなぼ )とは、台地や段丘の斜面に穴を掘り死者を埋葬した施設のことをいいます。 5 世紀後半頃に九州北部の豊前地域が起源とされ、6 世紀から 7 世紀にかけて山陰・山陽・近畿・東海・北陸・関東・東北南部まで広がったといわれています。 九州・山陰・近畿・南関東がとくに多く、そのほとんどが国の史跡として指定されています。
【埼玉県比企郡:吉見百穴の横穴墓群】
地域や年代によって差異があるようですが、南関東で発掘される横穴墓は、谷あいの斜面を利用し泥岩や凝灰岩質の柔らかい岩盤を掘り込んで造られているのが特徴です。 横穴墓は、玄室(げんしつ:死者を葬る部屋)と、羨道(えんどう:玄室に通じる廊下のようなもの)からなり、死者には武器や装身具、土器など副葬品が添えられます。 玄室と羨道は間仕切石で仕切られ、穴の入口には 前庭部 と呼ばれる墓道があります。 横穴墓は単独で設けられることはほとんどなく、複数の横穴墓からなる横穴墓群を構成します。
神奈川県横浜市青葉区市ヶ尾町にある 市ヶ尾横穴墓群 は、古墳時代後期の 6 世紀後半から 7 世紀後半にかけて造られたとされ、この地域で有力な農家を葬った 家族墓 といわれています。 この横穴墓群の周辺には、神奈川県では初めて発見された前方後円墳がある 稲荷前古墳群 や 朝光寺原古墳群 など、一帯を治めていた首長層の墓が発掘されていますが、市ヶ尾横穴墓群に葬られた人々は、こうした首長層となんらかの関わりがあった人々ではないかと推定されています。
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11月 5日(日) 朝からよく晴れて、暑くも寒くもなくちょいと歩くにはいい陽気になりました。 午前 8 時半に自宅を出発し、最寄りの上大岡駅から横浜市営地下鉄に乗車し終点のあざみ野駅で東急田園都市線に乗り換え、二駅隣りの市が尾駅で降車しました。 地名では 市ヶ尾 と表記するのですが、駅名では 市が尾 と ヶ の字がひらがな表記になっています。 これは東急線の駅名のうち常用漢字になかった文字やカタカナによる地名を平仮名に変更していたため、ヶ の字がひらがなの が の字に置き換えられたからです。
市が尾駅は初めて利用しましたが、ホームには東急の車輌以外にも東京メトロ半蔵門線の車輌や東武線の車輌も入って来るのでなかなか楽しいですね。 改札を出て駅西口から目的の 市ヶ尾遺跡公園 に向かいます。 国道246号に架かる陸橋を渡り、地蔵堂下交差点を過ぎたら右折し、すぐ次の交差点も右折すると突き当りに市ヶ尾小学校があります。 市ヶ尾遺跡公園は小学校と隣接しているのですぐにわかります。 駅からは約 600m ほどなのでどうって距離ではありません。
【市ヶ尾横穴古墳群(市ヶ尾遺跡公園)】
公園の入口は小学校の正門横にあります。 市ヶ尾横穴古墳群 と書かれた表示があるのでとても分かりやすい。 公園内にうっそうと茂る木立の中の散策路の先が広場になっており、ここから遠く大山の山並みが望めるなど眺めが良いところでもあります。 市ヶ尾は多摩丘陵の南端に位置しているため、平地らしい平地がなく斜面に住宅地が造成されているので高台にある家はどこも眺望がいいに違いありません。 これから秋も深くなり冬にかけて空気が澄んでくれば、大山から丹沢山地、富士山に南アルプスまで望むことができると思います。
【公園内広場からの眺望】
広場には市ヶ尾横穴墓群について記された解説板が設置されているのですが、ところどころ破損しているため説明が途切れてしまっている部分があったのが残念。 近隣の小学生や中学生も社会科見学で訪れることが多いらしいので、破損している部分は早急に直してもらいたいものです。
【解説板】
とても詳細に説明されているだけに破損は残念
市ヶ尾横穴墓群は昭和 8年(1933年)に発見され、昭和31年に二回目の発掘調査が行われた後、翌年に神奈川県の史跡に指定されており、昭和53年には 市ヶ尾遺跡公園 として整備されています。 市ヶ尾周辺では、丘陵の谷間の崖面に掘られた横穴墓群が多数発見されており、この市ヶ尾横穴墓群はその代表的なものになるそうです。 公園内には二カ所の横穴墓群があり、それぞれ A 群(12基)、B 群(7基)と名付けられています。
【A 群横穴墓】
散策路に沿って歩くとまず A 群の横穴墓が見えてきます。 山肌に掘られた穴は以前見学した埼玉県比企郡吉見町にある 吉見百穴(よしみひゃくあな・よしみひゃっけつ) と同じくらいの大きさです。 吉見百穴ほど大規模な横穴墓群ではありませんが、各墓前には断面図や寸法、発掘されたときの状態などを記した解説板があるためとても親切です。
解説板によると、造られた時代によって内部の造りが微妙に異なっているとのこと。 入口の穴の比較的小さなものはガラス板によって塞がれており内部を窺うことはできるのですが、湿気によって汚れていたり暗かったりでよく見ることができません。 大きなものは中に入って見学できるようになっていますが、大人にはちょっと厳しいかも。 また、得体の知れない生き物でもいたらその場で卒倒しかねません。 横穴墓内でアルコール臭が漂う中年男性の変死体発見 ! なんてニュースになったらシャレにならないので中に入ることはしませんでした。 さらに、地震などで一部崩壊するなど保存状態のよくない横穴墓は危険防止のため内部を補強したうえでコンクリートで塞がれているものもありますが、先述の解説板のおかげで詳細は分かるようになっています。
A 群の横穴墓は左から A-1号、A-2号 … A-12号 と番号が与えられ、昭和57年〜58年にかけて行われた調査では、それぞれの横穴入口に至る墓道から造られたおおよその年代も推定できるようになったといいます。 とくに、A-4 号横穴の前庭部からは 須恵器(すえき)の甕の破片が並べられた状態で発見されたといいます。 須恵器は日常的に使用される 土師器(はじき)と違い、死者の副葬品や墓前で行われる儀式に用いられる貴重な土器といいます。 このことからも、市ヶ尾横穴墓群に葬られた人々がどのような地位にあったかをうかがい知ることができます。
【B 群横穴墓】
A 群から 約 40m ほど離れた西側の斜面に B 群の横穴墓群があります。 B 群はさらに B-1 小群(1〜5号)と B-2 小群(6・7号)のふたつの小群によって構成されているといいます。 このうち B-6 号横穴は玄室が方形で複室構造という特徴的な構造を持った横穴で、市ヶ尾横穴墓群の中では最も古い 6 世紀後半頃に造られたものといいます。 また、B-2 号と B-5 号横穴からは勾玉などの装身具や土器など多数の副葬品が出土したともいいます。
左 【横穴墓内部の様子】
右 【崩落防止のため山肌はコンクリート補強されている】
市ヶ尾横穴墓群は、もっとも古いもので 6 世紀後半頃に造られ、ほとんどは 6 世紀末期から 7 世紀前半に造られたもので、最も新しいものは 7 世紀後半もしくは 8 世紀初頭と推定されています。 先の A-4 号横穴は最も新しいものと考えられています。
さて、市ヶ尾遺跡公園はこれですべて見学したことになります。 市ヶ尾遺跡公園内の横穴墓群は正式な名称では 市ヶ尾横穴古墳群 となっていますが、古墳とは本来は墳丘を有する墳墓を意味するため、現在は 横穴墓群 という呼称が一般的です。 市ヶ尾遺跡公園の場合、昭和32年に県の史跡に指定されたときの指定名称になっているため容易に変更できないのかもしれません。 また、出土した副葬品類を展示する施設なども併設されていればいいと思うのですが、管理が難しいのでしょう。 ただ、せめてどこぞの博物館で展示している旨の案内があってもいいのではとも思いました。
【解説板】
ここで時計を見ると、午前11時30分。 朝食を抜いてきたのでお腹がペコペコです。 途中にファミリーレストランやラーメン店などを見かけたのですが、この辺りの住宅地の真ん中では昼間から開いてる居酒屋なんて無いだろうなあと思いつつ、駅まで戻って駅の周辺で店を探してみることに。
予想通り居酒屋などどこも見当たりませんねえ。 駅の東口に行ってみると、こちらは商店街になっていて人通りもありますが、食事できるところが …… と思ったら、西友市ヶ尾店の二階に定食・釜めしの幟を発見、お腹が空いているので久しぶりに釜めしもいいなと、この店に入ってみることにしました。 鳥はな 市ヶ尾店 という店です。
【鳥はな 市ヶ尾店】
昼は定食、夕方からは焼鳥居酒屋に
「 いらっしゃいませ〜、こちらのテーブルへどうぞ 」
開店早々だったらしく一番乗りの客となりました。 ご夫婦で営まれているようで二人ともとても愛想がいい。 壁には俳優の村上弘明さんが来店したときに一緒に撮影された写真が貼られていました。 テーブルに備え付けの品書きは焼魚定食やとんかつ定食などすべて定食になっています。 単品でもいくつか料理が注文できるようですが、朝食抜きなので単品でビールなんぞ飲りだしたらすぐに酔いが回りそう、ということでここでしっかりお腹に入れて、店を出たら移動してひとりはしごをすることにします。
「 スンマセ〜ン、ビンビールとこの五目釜めし定食をお願いします 」
「 ビンビールはアサヒとサッポロがありますけど 」
「 んじゃサッポロでお願いします 」
【サッポロ黒ラベル】
ビールはサッポロ黒ラベル。 空気がやや乾燥していたので乾いたのどに沁みるようにスーッと入ってきます。 ウマい。 釜めしは炊きあがるまで 20分程度かかるとのことで、持参した 『 酒とつまみ 』 をパラパラとめくりながら …… これでお通しになにかつまむものでもあればいいんだけどなあ。
「 は〜い、おまたせしました〜五目釜めし定食です、ごゆっくりどうぞ 」
【五目釜めし定食】
これで¥800 はお値打ちだが、もう少し華が欲しい…
供された定食は、釜めしに味噌汁と漬物、生野菜といたってシンプル。 煮物かなにか小鉢でもついていればビールのお供になるのに … とは思っても、税込みで¥800 だから大きいことは言えません。 釜めしは、海老にズワイガニのほぐし身(おそらくベニズワイガニ缶)、筍、椎茸に鶏肉そぼろで五目をなしています。 グリーンピースを加えれば六目になりますね(笑)。 ワタクシの想像する五目釜めしは、海老に帆立貝あるいは牡蠣、蟹爪、焼鮭、鶏ももの照り焼き、それに筍に椎茸、銀杏なんぞが入っていたらベストなのですが、これだと最低でも¥2,000 くらいはしそうですね。 でも、そういつもいつも食べるものでもないからいざという時は多少金額がかさんでも贅沢にいきたいなあ。
「 孤独のグルメ Season 3 第 11 話 」 で井之頭五郎が新潟県十日町市の
ドライブインで食べた 五目釜飯 は具が大きくてエラい豪華だったなあ…
小ぶりなお椀に三杯はよそえるほどボリュームがあります。 味付けはあっさりしていて個人的にはもう少し濃い方がいいかと思いましたが、そこそこ美味しくいただくことができました。 食事中に数組の客が来店しましたが、釜めしを注文している人はおらず、唐揚げ定食や鳥重定食などを注文している人が多かったようです。 釜めしは時間がかかるからかな。
いちばん美味しいおこげの部分も釜からしっかりこそげ取って残らずいただきました。 朝食抜きだったのでこれでやっと調子が出てきた感じ。 あ〜食った食った、ごちそうさんでした。
今回歩いた距離は大したことがなく散歩というほどではありませんでしたが、よくよく考えてみたらもう少し足を延ばして 稲荷前古墳群 にも行っておくべきでした。 人間お腹が減ると思考力がなくなるもんだなあと痛感。 いや、もともと思考力が備わっていないのかもしれませんが …… あささささ
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