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こんにちは、物置です。 暮れもいよいよ押し詰まってきました。 ワタクシも本日今年最後の得意先回りをし、取引先への支払いを終え、給料も出し(なんとか今年ももった … 涙)、年内は商品と帳簿の整理や棚卸などを控えるのみとなりました。 以前は年末というと猫の手も借りたいほどだったのですが、最近はそんなこともなくなりましたね。 そういえば同じことを去年の暮れも書いたような気が ……。
さて今回は、江戸三十三観音札所めぐり の番外札所となる 龍吟山 瑞林院 海雲寺 の参拝記です。 京浜急行本線の青物横丁駅に隣接する海雲寺は、ご本尊として 十一面観世音菩薩 が奉安されていますが、鎮守として 千躰三宝大荒神王 をお祀りしており 品川の荒神さま としてこちらのほうで有名なお寺です。
【龍吟山 瑞林院 海雲寺】
品川区南品川三丁目にある 龍吟山 海雲寺(りゅうぎんさん かいうんじ)は、建長三年(1251年)僧・不山によって同じ南品川にある 補陀落山 海晏寺(※ 1)境内に創建された塔頭の 庵瑞林 が始まりと伝えられています。 元々は臨済宗に属していましたが、慶長元年(1596年)に海晏寺から独立して曹洞宗に改められ、寛文元年(1661年)に 海雲寺 に改名されたといいます。
海雲寺の鎮守である 千躰三宝大荒神王 は、大日如来 ・文殊菩薩 ・不動明王 の姿を現した三面六臂の憤怒の形相をした天竺(インド)の護法神といいます。 尊像は 毘首羯摩(※ 2)の作と伝えられ、元々は肥後国天草郡(現在の熊本県)荒神ヶ原にありましたが、寛永十四年(1637年)、鍋島甲斐守直澄(※ 3)が島原の乱に出陣するときに戦勝祈願をすると、助太刀に千余の神兵が表れて荒神王の如き凄まじさで暴徒を鎮定したといいます。 以後鍋島直澄は千躰三宝大荒神王を守護神として祀り、江戸高輪二本榎の佐賀藩鍋島家下屋敷に遷座したのち、明和七年(1770年)に海雲寺に勧請されたと伝えられています。
三宝荒神信仰は古くからあり、荒神さまは 火と水を守る神様 といわれ、台所にお祀りすれば一切の災難を払い、衣食住に不自由しないとされています。 東北地方の一部では、荒神さまが祀られたかまどの炭を産まれたばかりの赤ん坊に塗って魔物を払うという風習があったといいます。 品川の荒神さまをお参りすれば、心願成就 ・開運出世諸災消除 ・衣食住に不自由しない ということで江戸時代より多くの人々に信仰されてきましたが、現代においても毎年三月と十一月に行われる大祭のときには露店が並び境内は多くの人たちで賑わいます。
【海雲寺 山門】
12月 2日(日)曇り。 午前中は目黒にある 泰叡山 瀧泉寺(目黒不動)を参拝し、武蔵小山で昼食を摂った後に京急線青物横丁駅にやって来ました。 海雲寺は駅に隣接しているのですが、境内に至るにはぐるりと回って旧東海道へ出なくてはなりません。 歩いてわずか数分なので苦にはなりませんが。
【千躰荒神堂】
重厚な瓦葺の山門をくぐると、正面に唐破風を備えた入母屋造のお堂がそびえます。 立派な本堂だなと思いきや、こちらは 千躰三宝大荒神王 をお祀りする 千躰荒神堂 です。 明和七年三月に千躰三宝大荒神王が勧請されて以来、江戸や品川で大火が起きても不思議と火は海雲寺を避け、延焼することが無かったということから、鎮火防火の神 としても信仰されているといいます。
【本堂】
千躰荒神堂に隣接して建つのがご本尊の 十一面観世音菩薩 をお祀りする 本堂 です。 こちらの観音像は建長三年の創建時から伝わるものと伝えられ、春日仏師の作とされています。 本堂は柵があるため内部を拝むことはできません。 合掌礼拝と書かれた立札の前で手を合わせてご真言を唱え、三十三観音札所すべてをお参りしたことを報告しました。
本堂のすぐ右手が寺務所となっており、チャイムを鳴らすと若いお嬢さんが応対して下さり、御朱印を頂くことができました。
【鐘楼堂】
境内には見どころがいくつかあります。 山門と同じ造りと思われる重厚な 鐘楼堂 がありました。 柱に施された彫刻も見事な鐘楼堂ですが、板書などでもう少し詳しく縁起が説明されているといいのにとも思いました。
【烏瑟沙摩明王】
鐘楼堂のすぐ隣には、海雲寺の東司(トイレの意)の守護神として安置される 烏瑟沙摩明王 をお祀りするお堂があります。 烏瑟沙摩明王(うすさまみょうおう)は世の中の穢れや悪事を焼き尽くす力を持つとされるインドの神様で、古くから 火神 として信仰され、密教や禅宗などの寺院では不浄を浄化することから 厠の神 としてトイレに祀られることが多いといいます。 また、この明王は胎内にいる女児を男児に変化させる力を持っていると言われ、世継ぎ・跡継ぎとなる男児を求めた戦国時代の武将に広く信仰されていました。 一部の地域では、この明王には下半身の病に霊験あらたかであるとの信仰があるといいます。
【平蔵地蔵】
こちらの二体並ぶ地蔵さまのうち向かって右側の地蔵さまは 平蔵地蔵 と呼ばれています。 江戸時代末期、品川からほど近い鈴ヶ森処刑場で番人をしていた三人の乞食がいました。 そのひとり正直者の平蔵は町で大金を拾うと落とし主を探して大金を返し、当然のことをしたまでとお礼の小判も断ります。 そのため仲間の乞食たちは、金を返さずに山分けすれば乞食も廃業できたのに、と腹を立てて平蔵を小屋から追い出して凍死させてしまいました。 この話を聞いた大金の落とし主である仙台屋敷に住む若い侍は、平蔵の遺体を引き取って青物横丁の松並木に手厚く葬り、地蔵尊を建てて供養したといいます。
いつの世も 正直者が馬鹿を見る というのは嫌なものです。 平蔵は正直な行動をしたために命を落とすことになりましたが、平蔵の名と善行は未来永劫に語り継がれることになりました。 明治32年、京浜急行が開通することとなり、平蔵地蔵尊が建っていた場所が線路用地にかかったため、時の海雲寺住職は、平蔵の善行を社会の木鐸たらしめんと願望し海雲寺境内に移設して回向、ぼろは着てても心は錦 と、お参りの人が絶えないといい、実際にワタクシがいたわずかな時間にもたくさんの人が手を合わせて行きました。
平蔵地蔵の背側には、門前に住んでいた若い漁師たちや沖仲仕(荷揚げ労働者)が力比べを競い合ったという 力石 がありました。 力比べは大正時代の中頃まで行われていたといいますが、いつからこの石が境内にあったのかはわからないと板書に記してありました。 試しにワタクシも持ち上げようと手をかけましたが、言うまでもなく大方の期待と予想通り微動だにいたしませんでした。
【力石】
写真を編集していて思ったのですが、この力石、ひょっとすると土台のコンクリートに固定されているのかもしれません。 ちなみにこの力石の文字は、人気番組・笑点のタイトル文字で知られる橘流寄席文字家元・橘右近師匠による奉納揮毫だそうです。
今回の番外札所 海雲寺 の参拝をもって 江戸三十三観音札所めぐり のすべてを参拝し終えました。 観音さまのこと、あるいは観音さまの教えは、ぐうたらなワタクシには身にこたえることがあまりにも多すぎました。 今までいかに不信心と不勉強だったかが身に沁みました。 なんというか、この歳まで無駄に年月を費やしてきたのかと思うと ……
しかし、観音札所めぐりを通じて、季節の移ろいや寺社建築・彫刻など今まで興味を持たなかったことを勉強する機会ができたことはとても良かったと思います。
そして、観音さまを拝んだあとに飲むお酒がとても美味しく感じられたことも ……
(完)
※ 1 補陀落山 海晏寺(ふだらくさん かいあんじ) 建長三年(1251年)、品川の海上に大鮫の死体が浮上がったのを漁夫が釣り上げてその腹を割いたところ、中から木像の聖観音像が出てきた。 門前一帯の鮫洲という地名の由来である。 当時の執権北条時頼はこの聖観音像を安置するために一宇を建立、開山に鎌倉建長寺の大覚禅師を迎えて海晏寺を創建した。 明治維新の立役者・岩倉具視の墓所がある。
※ 2 毘首羯摩(ヴィシュヴァカルマン) インド神話においてあらゆるものを設計したといわれる神。 サンスクリット語で 「 全てをなすもの 」「 全知であるもの 」 を意味する。 現代においても物作りや技術、機械の神様としてインドの各工場で祀られている。
※ 3 鍋島直澄(なべしま なおずみ) 寛永十九年(1642年)、肥前国蓮池藩(佐賀藩の支藩。 現在の佐賀県・長崎県の一部)に五万二千石を与えられ初代藩主となった。
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江戸三十三観音礼所めぐり(完)
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こんにちは、トタン屋根です。 師走も半ばを過ぎ、年賀状の受付が始まりましたね。 先日ワタクシは初めて知ったのですが、11月の終わりから 12月の初めくらいに届く 喪中はがき。 これが届くと送り主の方に年賀状を送ることを控えますよね。 ところが実は年賀状は送って構わないそうです。 なぜなら喪中はがきの本来の意味は 「 喪中のためこちらからは新年のご挨拶ができません 」 というだけで、年賀状を受け取ることができないという意味ではないといいます。 なので喪中はがきが届いても年賀状は送っても別段構わないそうです。 みなさんご存知でしたか ? しかしまあ、送る人は少ないと思いますが、どうしても送る場合には 謹賀新年 とか 明けましておめでとう とか、お祝いの言葉は控えたほうがいいでしょうね。 故人の冥福を祈る文章などを添えるのも大人のマナーかもしれません。
なぜこんなことを言うのかというと、元気なのかどうかを年賀状でのみ知る付き合いというのもあると思うからです。 喪中はがきが届いたら 年賀状欠礼 という風習が広まったのはいつ頃からかはわかりませんが、喪中であっても、友人知人からの年賀状が届くと嬉しいと感じる人も案外多いのではないか、とくになかなか会う機会のない場合には。 ワタクシも子供の頃に母親を亡くしていますが、その翌年の正月、たった一通のみ友達から年賀状が届いたのですが、誰も送ってこない中での一通だったので嬉しく思ったものです。 野球少年でリトルリーグに入っていた S 君らしくピッチャーの自筆イラストが描かれたこの年賀状は今でも大事に保管してあります。 彼とは小学校の卒業とともに音信不通になってしまいましたが、当の S 君はワタクシのことも年賀状のこともすっかり忘れているでしょうね。
さて今回は、江戸三十三観音札所めぐり の最後となる 第三十三番 泰叡山 瀧泉寺 の参拝記です。 拙ブログでも何度か訪れて紹介しているのでワタクシ的にはなじみの深いお寺でもあります。 最後なのでここは気を引き締めてしっかりとお参りすることにしましょう。
泰叡山 瀧泉寺 (たいえいざん りゅうせんじ)は、聖観世音菩薩 をお祀りしていますが、不動明王 がご本尊であることから 目黒不動 (目黒不動尊)の通称で親しまれています。 古代中国に端を発する自然哲学の思想である 五行思想 (五行説)の五色 (白・黒・赤・黄・青)にまつわる伝承を持つ不動尊を示す 五色不動 のひとつであり、所在地のある 目黒 の地名はこの目黒不動尊に由来するともいわれています。
【目黒不動堂】
画・長谷川雪旦 『 江戸名所図絵 』 天保五年〜七年(1834〜1836年)
平安時代の大同三年(808年)に当時 15歳の 慈覚大師 ・円仁 が、師の阿闍梨・広智に伴われて故郷の下野国(現在の栃木県)から比叡山の伝教大師・最澄のもとへ向かう途中にこの地に立ち寄ると、その晩の夢の中にとても恐ろしい形相をした神人が枕元に立ち現れ 『 我、この地に迹を垂れ、魔を伏し、国を鎮めんと思うなり。 来って我を渇仰せん者には、諸々の願ひを成就させん 』 と告げました。 夢から覚めた円仁は、その尊容を思い出しながら木像を彫刻して安置し、後に唐の長安にある青竜寺の不動明王を拝したときに、夢の中に現れた神人がこの明王であることがわかると、帰朝して不動明王の木像のために堂宇を建立します。 棟札に 大聖不動明王心身安養咒願成就瀧泉長久 と認め、この 瀧泉 をもって寺号と成し、貞観二年(860年)清和天皇より 泰叡 の勅額を下賜され、山号を 泰叡山 と称したと伝えられています。
江戸時代には徳川家の庇護を受けて大いに栄え、明治時代には西郷隆盛や東郷平八郎など要人たちが篤い信仰を寄せました。 目黒不動尊は関東最古の不動霊場として熊本の 木原不動尊、千葉の 成田不動尊 と併せて 日本三大不動 のひとつとされています。 また、江戸三十三観音第三十三番札所、および 関東三十六不動第十八番 にもなっており、甘藷 (現在のサツマイモ)栽培の普及に尽力し、後の天明の大飢饉から多くの人々を救った 青木昆陽の墓所 があることでも知られています。
12月 2日(日)曇り。 午前 9 時半に自宅を出発、最寄りの京急上大岡駅から快特に乗り、品川駅で JR山手線に乗り換えて目黒駅で東急目黒線にさらに乗り換えて不動前駅で降車、瀧泉寺には 11時少し前に到着しました。
【仁王門】
昭和37年(1962年)に再建された三間一戸の朱塗りの楼門
阿形の 那羅延金剛像、吽形の 密迹金剛像 が安置され、階上には 韋駄天 が祀られている 仁王門 をくぐると、大本堂に至る階段(男坂)の手前に 独鈷の滝 があります。 伝承によると、円仁が堂宇建立の敷地を定めるに当たり、所持していた法具の独鈷 (とっこ ※古代インドの武器に由来する仏具の一種)を投じると、その落下した場所から霊泉が涌き出したといいます。 それが独鈷の滝で、数十日間の炎天旱魃が続いても涸れることなく現在も満々と霊水を湛えています。
【独鈷の滝 と 水かけ不動明王】
開山以来、千百有余年涸れずに流れる龍御神水
二体の龍の口から吐き出される霊水は 龍御神水 と呼ばれ、目黒不動を描いた浮世絵の中には滝に打たれて洗心浄魂に勤しむ不動行者の姿が描かれています。 現代の参拝者は容易に滝行ができないので、その代わりにお不動さまに水をかけて穢れを祓う 水かけ不動明王 が立っています。
【目黒不動尊 大本堂】
破邪顕正の明王として、あらゆる災難厄難を除けて福となす福寿開運の不動明王
水かけ不動明王で穢れを祓い、手水舎で身を清めてから、まずは 大本堂 に向かいます。 入母屋造に千鳥破風をもつ大規模な仏堂で、昭和56年(1981年)に再建された鉄筋コンクリート造です。 天井には日本画家・川端龍子の 『 波涛龍図 』 が描かれています。 いつものように
今日も美味しいお酒が飲めますように …
最後なのでいつも以上にしっかりと手を合わせました。 大本堂の回廊伝いに裏手にまわると、天和三年(1683年)作といわれる 銅造大日如来坐像 と、如来様の四方を護る 四天王像 があります。
【銅造大日如来坐像】
総高 385cm 座高 281.5cm 頭長 121cm を誇る
こちらは蓮華座に結跏趺坐し、膝前で印を結ぶ 胎蔵界大日如来像 と呼ばれるもので、銅製で宝髪・頭部・体躯・両腕・膝など十数カ所に分けて鋳造し、それらを寄せて一体とする 吹きよせの技法 で造られている、と板書に記されています。
【持国天像】 【増長天像】
【広目天像】 【多聞天像】
大日如来像を中心に、四方には 四天王像 (持国天・増長天・広目天・多聞天)がそびえます。 どの像も邪鬼を足で踏みつけています。 大日如来像は現在は露座(簡易な屋根は付いている)ですが、江戸名所図会の挿絵から江戸時代にはお堂の中に安置されていたそうです。
ほかにも見どころはたくさんあるのですが、以前訪ねたときと重複するので割愛し、札所ご本尊の 聖観世音菩薩 をお祀りする 観音堂 に向かいます。 男坂を下りていくと、白い花をつけた樹がありました。 梅にはちと早いしなんの花だろ、まさか ? と思って近づくとそれはなんとそのまさかの サクラ でした。 以前、春に咲くサクラが冬にも咲いてしまったなどというニュースを見たことがありましたが、これがそうなのか。 とても珍しいと思い何枚もカメラに収めたのですが、他の参拝客は見慣れているのか気にも留めないのか、一瞥して通り過ぎていく人がほとんどでした。 興味ないのかな ……
【季節外れのサクラ】
観音堂には 聖観世音菩薩 ・千手観音菩薩 ・十一面観音菩薩 が祀られています。 三十三カ所をめぐるお参りもここが最後です。 しっかりと手を合わせご真言を唱えました。
【観音堂】
江戸三十三観音霊場の結願札所
御朱印は 阿弥陀堂 に設けられた寺務所で受け付けてくれます。 御朱印帖を預けると番号札を渡されますが、この日はワタクシの他に順番待ちをしている人がいなかったため、すぐに呼ばれました。
これで三十三カ所すべての御朱印を頂くことができました。 中にはお寺の方がご不在であらかじめ用意されたものを頂くことになった所(第七番・第十五番・第二十五番・第二十六番)もありましたが、時間を作って再度お伺いしたいと考えています。 始めた当初と違い途中から一人で巡ることになり、また休日にはいろいろとやりたいことが多いため多少時間がかかってしまいましたが、何事も最後までやり遂げることが肝心、無事にすべて巡り終えることができてなによりです。 ただ、御朱印をもらったのでハイお終い、ではなく、一度でもお伺いしてご縁ができたのだから、近くまで来た際にはぜひまた寄ってお参りしていきたいと思っています。
これで一応、昭和新撰 江戸三十三観音札所 はすべて訪ねましたが、番外札所 として 十一面観世音菩薩 をお祀りする 龍吟山 海雲寺 があります。 品川の荒神さま として親しまれるお寺で、瀧泉寺を参拝した同日に伺ったのですが、こちらの参拝記はまた後日。 この日は清々しい気分だったため、行きつけの居酒屋で飲んだビールはことのほか美味しく感じました。
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こんにちは、漆喰です。 先日、日産のカルロス・ゴーン会長逮捕 ! というニュース速報が流れたときには、思わず 「 やったぜ ! 日産 」 と声に出してしまったワタクシですが、同じことを大阪のホンダ販売店の社員がツィッターでつぶやいてしまい、不謹慎ということで販売店のトップが謝罪するという事態になりました。 仮にワタクシがツィッターで同じことをしてもほとんど何事も起こらなかったと思うのですが、やはり同業のライバル会社であるホンダの関係者がやっちゃぁねぇ。 ワタクシは日産のキャンペーン標語にもちろんかけたわけですが、ゴーン元会長の醜聞は以前より雑誌などで報じられて知っていたため、どちらかというとホンダ販売店社員のように標語を揶揄したことよりも、内部告発をした社員の勇気ある行動を よくやってくれた ! と讃えるという意味で 「 やったぜ ! 日産 」 と思わず口から出たのですが、恐らくワタクシの真意をくみ取ってくれる方は多分ほとんどいないでしょうねぇ …。
さて今回は、江戸三十三観音札所めぐり もいよいよ大詰めとなる 第三十二番 世田谷山 観音寺 の参拝記です。 観音寺のホームページによると、徒歩の場合は東急田園都市線の三軒茶屋駅から 15〜20分程度かかるとのこと。 三軒茶屋・祐天寺・目黒・渋谷の各駅からバスで行くのが一般的のようですが、ワタクシは駅から歩いていくことにしました。
世田谷山 観音寺 は、開基である睦賢和尚が 金龍山 浅草寺 に請い開眼の法を修し、昭和26年(1951年)に独力で建立したといいます。 ご本尊に 聖観世音菩薩 をお祀りすることから 世田谷観音 と呼ばれ親しまれています。 他にも 不動明王、阿弥陀如来、仁王尊、特攻観音 をお祀りする各堂があります。 観音寺のホームページを見てみると、境内は広く多くのお堂や仏像などがあることから、今回はそれぞれをじっくりと時間をかけて拝観させていただくことにしました。
11月11日(日)晴。 午前 9時15分に自宅を出発、最寄りの京急上大岡駅から京急線・東急東横線・東急田園都市線と乗り継ぎ、10時半ころに三軒茶屋駅に到着しました。 三軒茶屋には、世田谷通りと国道246号に挟まれた通称 三角地帯 という酒飲み心をくすぐるとっても魅力的な飲屋街があるのですが、横浜からだと帰りが辛いため未だに訪れたことはありません。 その国道246号を南下し、世田谷警察署前交差点を左折すると、観音寺へと向かう世田谷観音通りになります。 通り沿いは世田谷区と UR都市開発機構が共同で開発した新興住宅地で、さすがに三軒茶屋周辺は世田谷区でも一番高い土地価格を誇るだけに立派なお宅が並んでいますが、途中には今年前半にアメフット部の悪質タックルで問題となった日本大学の危機管理学部三軒茶屋キャンパスもありました。 日大のお粗末なマスコミ対応により、同大の危機管理学部はホントに大丈夫か ? と別の意味で話題になりましたね。 住宅と住宅の間には洒落たイタリア料理の店などもあったりして、横浜村からやって来た田舎者がキョロキョロしながら歩いていたらあっという間に世田谷山 観音寺 に到着しました。 道なりに行くと裏門から入ることになるので、一本手前の道を右に入り、正門から入ることにしました。
【あゝ特攻勇士之像 および 地蔵菩薩坐像】 と 【さざれ石】
正門の正面には 仁王門 がそびえます。 手前の参道には あゝ特攻勇士之像、地蔵菩薩坐像、さざれ石 などが並んでいます。 これらの建つ裏手の敷地には 旧小田原藩代官屋敷 だった 世田谷観音本坊 が建っていますが、こちらは後で見学することにしましょう。
【狛犬】
狗犬を寄進した一族はかなりの豪族だったらしい
仁王門の手前には鎧をまとったような 狛犬 があります。 説明によると、清国(現在の中国)の第四代康熈皇帝(こうきこうてい)の辛未の年(1691年)の十月に、あるところに寄進されたもの、とのこと。 あるところの説明が無いのでよくわからないのですが、なぜ世田谷のお寺にあるのか、ということが面白いですね。 鎧をまとっているせいかかなり強そうな狛犬であることは間違いないでしょう。
【仁王門】
本堂、六角堂とともに移築されたもので、その際に六角堂と切り離し両袖部分を増築している
こちらの 仁王門、および 観音堂 ・六角堂 は別のところにあったものを移築したとのこと。 千鳥破風と唐破風の組み合わさったこの門は、お寺の門というよりは神社の拝殿のように見えます。 仁王門には文字通り 阿形(金剛力士)、吽形(密迹力士)の 仁王像 二体が睨みをきかせています。 世田谷区内に現存する仏像の中でも最も古いものに属し、平安時代後期に京都・奈良またはその周辺で製作されたものと推定されています。
【密迹力士像】 と 【金剛力士像】
平安時代後期(12世紀後半頃)の作といわれる
仁王門に懸けられる大提灯には龍の彫刻 がありました。 写真を撮るのを忘れてしまったのですが、仁王門には 鳴き龍 もあり、本堂に向かって手を叩くと龍の鳴き声が聞こえます。 鳴き龍はあちこちでも見られますが、建て替えする前の自宅の二階のワタクシの部屋も手を叩くと鳴き龍と同じ現象が見られました。 廊下も歩くと キュッキュ と鳴るため ウグイス張りの廊下 などと呼んでいましたが、ただ単に安普請だっただけだと思います。 話がそれましたが鳴き龍以外にもここ観音寺には 龍 をあしらった彫刻を数多く見ることができます。
【観音堂(本堂)】
仁王門をくぐると正面にそびえるのが本堂となる 観音堂 です。 まずは手水舎で清めてから観音堂で手を合わせます。 観音堂入口の上にはそれはみごとな 龍神様 がありました。 もともと 福井城(福井県福井市)にあったもの(現在はボストン美術館に所蔵)の復元だそうですが、その見事さには圧倒されます。
【龍神様】
元福井城にあったものを欅材の一本彫りで復元
観音堂内は自由に拝観できるとのことなので、靴を脱いで上がることにしました。 中央にご本尊の 聖観世音菩薩 を奉安し、脇侍に 日光菩薩、月光菩薩、布袋尊、マリア観音 が安置されています。 ほかに参拝者がいなかったので、手を合わせてご真言を唱え、ゆっくりと拝ませていただきました。 ご本尊の聖観世音菩薩像は、三重県にあった興昭寺(廃寺)の秘仏だったものを観音寺にお迎えしたとのこと。 脇侍の日光・月光菩薩像は、南北朝時代(1336年〜1392年)当時足利幕府に重用された院派仏師の作と推定されているそうです。 院派とは平安時代後期から鎌倉時代の仏師の一派で、中国由来の唐様とも言うべき独特の形式美を持ち、他派や後世にも影響を与えたといわれています。 観音寺の日光・月光菩薩像には宗(960年〜1279年)時代の影響がみられるそうです。 また、稚児を抱いた姿のマリア観音は、豊臣秀吉による伴天連追放令や徳川家康による切支丹禁制で弾圧されたキリスト教徒たちによって信仰の対象となった聖母マリアを模した観音菩薩像です。 いずれの仏像にもしっかりと手を合わせ、いつもの通り …
今日も美味しいお酒が飲めますように …
境内には拝観するものがまだまだありますが、とりあえずここで寺務所に向かい御朱印を頂いておくことにしました。 インターホンを押すとセーターを着た私服姿の年配の方(ご住職)がお見えになり、御朱印を捺してくれました。
「 観音堂で拝まれましたか ? 」
「 はい、中に上がらせていただき手を合わせてきました 」
「 それでは椅子に腰掛けになってお待ちください 」
「 こちらのお寺は見所が多くて勉強になります 」
「 それはそれは、ごゆっくりしていってください 」
少し耳が遠いようなので会話の声が大きくなってしまいましたが、とても気さくな方でいただいた御朱印からも優しい人柄が表れてくるようです。 うちの父親よりも歳は上と思われますが、いつまでもお元気でいてもらいたいものです。
【阿弥陀堂】
京都の二条城より移築されたもので、三層の建物は金閣寺を模したものといわれている
さて、境内の散策に戻ります。 こちらは寺務所の隣に立つ 阿弥陀堂 です。 この建物はなんと京都の 二条城 から移築されたものだそう。 どこかで見覚えが … と思ったら、この三層からなる阿弥陀堂は 金閣寺 を模したものだそう。 しかし、戦後にできた新しいお寺なのに、本堂といい六角堂といい代官屋敷といいこの阿弥陀堂といい、よくぞ集めたものだと感心します。
【韋駄天の扁額】
阿弥陀堂の屋根には 鳳凰 が、三階の軒下には 韋駄天 の扁額がありました。 内部は見ることができませんでしたが、ご本尊の 阿弥陀如来、観世音菩薩、地蔵菩薩、韋駄天神、中国ではお笑いの神様として尊敬される 東方朔、そして左甚五郎の作と伝えられる 鬼念仏 がお祀りされています。 さらに、目黒の 羅漢寺 に安置されていた 五百羅漢坐像 のうち、九体がここ観音寺に奉安されており、東京都指定有形文化財に指定されています。
【六角堂】
阿弥陀堂の向かいに建つのが 六角堂 です。 観音寺に移築される以前は仁王門と一体となっていたそうですが、移築の際に切り離し、仁王門の両袖は増築されたものだといいます。
【不動明王ならびに八大童子】
八大童子とは、不動明王に使える従者のことで、矜羯羅童子(こんがらどうじ)、制吒(多)迦童子
(せいたかどうじ)、慧光(えこう)童子、慧喜(えき)童子、阿耨達(あのくた)童子、指徳(しとく)童子
烏倶婆伽(うぐばが)童子、清浄比丘(しょうじょうびく)の八名のことをいう
六角堂には、旧国宝で現在は国重要文化財に指定されている文永九年(1272年)十一月二十一日に完成した 不動明王ならびに八大童子 が本尊として奉安されています。 こちらは鎌倉時代の大仏師・運慶の孫にあたる康円の作だそうで、八大童子を従えた不動明王像は、関西では高野山に安置されている運慶作の尊像、関東ではこの康円作と、国内ではわずか二体しか残っておらず、同一作者によって製作された 不動明王ならびに八大童子 が現存しているのはここ観音寺のみということで大変貴重な文化財と言われています。 扉は閉ざされているため中を窺うことはできませんでしたが、パネルが展示してあったのでこちらを撮影してみました。
【夢違観音】
法隆寺の夢違観音(87cm)を拡大模写している
六角堂の隣には池があり、その中央には奈良法隆寺の 夢違観音 を模した観音さまの姿がありました。 二度と思い出したくない悪夢を良い夢に変えてくださる観音さまだそうです。
【開山塔】
池のほとりには、開基睦賢和尚の墓所である 開山塔 があります。 何度も言いますが、独力で建立した単立のお寺でこれほどまでに貴重な仏像やお堂を集め築いた睦賢和尚は相当立派な方だったと思われます。 現在のご住職もとても温和な方で、気がつくと境内には参拝客が増えており、観音寺が多くの方に親しまれていることがわかります。
【鐘楼堂】
開山堂の隣には 鐘楼堂 があります。 説明には旧石薬師寺の所蔵だったとありますが、石薬師寺が三重県鈴鹿市にある石薬師寺のことなのか、あるいはどこかにあり廃寺となった石薬師寺のことなのかよくわかりませんでした。 慶長十年(1605年)の銘がある 梵鐘 は世田谷区内では最古のものといわれているそうです。
【特攻観音堂】 と 【特攻隊供養碑】
観音堂の隣には戦時中の特攻作戦に志願して若き命を捧げた英霊を供養する 特攻観音堂 があります。 堂内には二体の 特攻平和観音 が奉安され、お堂の周囲には 天山隊之碑、神州不滅特別攻撃隊之碑、特別攻撃隊の頌碑、故吉田茂首相の書による 世界平和の礎碑 などが建てられています。
【達磨大師・観音菩薩・馬頭観音】 と 【文殊菩薩】
本堂の手前には 八方睨み達磨、馬頭観音、樹齢百年以上という 三鈷の松(胴吹三葉の松)、文殊菩薩像 などもあります。 観音堂奥の裏門にあたるところには、煩悩の数と同じ 108枚の板石で造られた 百八煩悩滅除階段 がありました。
【百八煩悩滅除階段】
これで一応境内にあるものすべて目を通したと思われます。 ほかにも 七福神 もいくつかありましたが、それにしても見どころが多くさすがにお腹一杯という感じです。 仁王門で一礼して境内をあとにして、正門脇の 世田谷観音本坊 を見学しました。 地元のなにかのサークルの方が使用するようで食物や飲物などの準備をしていたのですが、一言ことわって写真を撮影させてもらいました。
【世田谷観音本坊】
旧小田原藩代官屋敷を移築したもので、現在は瓦葺きだが当時は茅葺屋根だった
それにしても見どころの多い 世田谷山 観音寺 でした。 観音寺をあとにしたワタクシは、帰りは三軒茶屋に戻らずにバスで目黒駅に向かい、目黒駅から JR山手線 - JR京浜東北線と乗り継いで横浜駅に向かい、熱々のつまみが楽しめる鉄鍋料理が自慢の 鉄なべや とん太 で名物のトマ玉をつまみに一杯とあいなりました。 観音さまに願いが通じたか、この日もとても美味いビールにありつけました。
次回の江戸三十三観音札所めぐりはいよいよ第三十三番、目黒の 泰叡山 瀧泉寺 です。
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こんにちは、長靴です。 先週末に日本列島を縦断した台風24号、こちら横浜では一部で避難勧告が出ましたが、大きな被害は出ずに済みました。 ただ、隣の静岡県では電力設備に被害を受け、大方は復旧したようですが数日にわたり停電が続いている、と報じられていました。 今週末もまた台風25号が日本海伝いに再び列島を縦断するコースをたどるようですから、どなたさまも避難所の確認、災害時の装備点検、非常用食料の確保など警戒を怠らないようにしましょう。 とくに情報の収集には念を入れたいものです。 ワタクシはスマートフォンはおろか携帯電話すら所持しない者ですが、先週は台風による公共交通機関の 計画運休 が、あれだけ 報じられていたにもかかわらず、電車が運休したことを駅員に噛みついている愚か者が各地で見られました。 こういう連中のスマートフォンは情報を得るツールではなく、幼稚なゲームをしたりくだらない漫画や動画を見る程度にしか使われていないのでしょうね。
さて今回は、前回の 第三十番 豊盛山 延命院 一心寺 の続きとなる東京都品川区南品川三丁目にある 第三十一番 海照山 普門院 品川寺 の参拝記です。 この日は 第二十九番 高野山 東京別院 の最寄り駅となる都営浅草線の泉岳寺駅からスタートし、旧東海道の街道に沿って 第三十番 一心寺 のある京急線の新馬場駅を経由し、第三十一番 品川寺 の最寄り駅である青物横丁駅まで約 3.5Km (直線距離:実際にはあちこち寄り道もしたのでもっとある)ほど歩きました。 真夏の炎天下ではなかったのでとても気持ちのいい札所めぐりとなりました。
真言宗醍醐派(※ 1)の 海照山 普門院 品川寺 (ほんせんじ)は品川でもっとも古い寺で、大同年間(806〜810年)に弘法大師空海が東国巡錫(※ 2)の際にこの地の領主だった品河氏に 水月観音(※ 3)を授けたのが始まりといいます。 以来 600年にわたって代々同家に伝えられていましたが、応永二年(1395年)の足利・上杉の合戦で品河氏が滅ぶと、以後は草堂に安置され 観音堂 と称されて人々の信仰を集めました。 その後、太田道灌が品川の地を領ずると道灌はこの水月観音を信仰、長禄元年(1457年)に江戸城を築き品川の居館から城に移る際に、武運長久と城中および江戸鎮護のために居館跡に伽藍を建立、水月観音と道灌自身の念持仏である 聖観音 を本尊として観音堂に安置し、金華山 普門院 大円寺 と号しました。
戦国時代の永禄九年(1566年)、甲斐の武田信玄が小田原の北条氏政を攻めたとき、北条氏の支配下にあった品川一帯は信玄の軍によって民家・寺社問わずことごとく焼き払われ、この時に観音堂も灰燼と帰し、本尊の水月観音像は竹森、蔭村という二人の武士によって甲州に持ち出されてしまいました。 しかし、持ち帰った武士がまもなく発狂、それを聞いた信玄は、本尊を元の地へ遷すように … という霊夢を見、一人の乞食の聖に頼んで水月観音像を品川に戻し、草堂を造り安置させたといいます。
【品川寺】
画・長谷川雪旦 『 江戸名所図会 』
江戸時代の承応元年(1652年)、江戸幕府四代将軍徳川家綱より寺領 4,800坪を拝領し、太田一族の外護のもと一大伽藍を建立し 金華山 普門院 品川寺 と改称しました。 のちに山号は 海照山 と改められ、太田備中守・松平讃岐守・松平阿波守の三家の外護のもと、諸大名の 御祈願所 として隆盛を極めます。 明暦三年(1657年)には徳川三代の将軍(家康・秀忠・家光)を供養するための 大梵鐘 が家綱より寄進され、宝永五年(1708年)には座高 2.75m にもなる 銅造地蔵菩薩坐像 が建立されました。 江戸時代を通し、品川寺の本尊水月観音・大梵鐘・地蔵菩薩坐像の三宝は、町の人々の深い信仰と東海道を行き交う多くの旅人に親しまれていました。
江戸時代末期から明治維新を迎える頃に寺域はすっかり荒廃してしまいましたが、大正から昭和にかけて復興が進められ、鐘楼・会堂・客殿・拝殿・山門などが建立され、昔日の面影を取り戻しています。 また、江戸三十三観音札所第三十一番、東海三十三観音霊場第二十一番、江戸六地蔵第一番、東海七福神(毘沙門天) に指定されているため、四季を問わず境内にはいつも参拝客の姿が見られます。
9月16日(日)、高野山 東京別院、一心寺 と参拝し、この日最後となる 品川寺 へと向かいます。 一心寺からは旧東海道を歩きおよそ 12〜13分ほどの距離です。 以前より何度か参拝しているので 勝手知ったるなんとやら … という感じで自然と足取りも軽くなりますね。
【銅造地蔵菩薩坐像】
江戸六地蔵のうち一番古く、宝永五年(1708年)に鋳造された
山門前の入口でまず迎えてくれるのが、宝永五年に神田鍋町の鋳物師・太田駿河守正儀によって鋳造され寄進された 江戸六地蔵 第一番 に指定されている座高 2.75m にもなる青銅の 地蔵菩薩坐像 です。 江戸六地蔵尊は、江戸深川の僧・地蔵坊正元の発願により建立されたもので、江戸に出入りする六つの街道(東海道・奥州街道・甲州街道・中山道・水戸街道・千葉街道)の入口にそれぞれ一体づつ安置され 江戸六地蔵(※ 4)と称されていました。 体内には小さな六地蔵尊の尊像が納められており、品川寺の地蔵菩薩坐像には、道行く人々の無事を守り、江戸御府内の疫病を払い、世の中を浄土にしよう … という願いを込めて十四年の歳月をかけて建立されたといいます。
江戸六地蔵は現在は五体が現存(第六番の地蔵菩薩は廃仏毀釈で廃棄)し、すべて東京都指定有形文化財に指定されています。 座高はいずれも 2.7m 前後で、造立時には鍍金が施されていました(現在はほとんど剥がれ落ちている)。 現存する六地蔵のうち、品川寺の地蔵像だけが頭に傘を載せていないのですが、その理由はよくわかりません。
【山門前の宝篋印塔】
大亀の上に石塔が載っているが、大亀も塔の一部という説も
山門 の手前には亀趺(※ 5)に載った 宝篋印塔 が目につきます。 以前どなたかのブログで読んだことがあるのですが、この品川寺の宝篋印塔には、たしかに前面に宝篋印塔と刻まれてはいるものの実際は宝篋印塔ではなく、また亀趺のように見えるのも実は塔の一部で、唐招提寺(奈良市五条町)に見られる鑑真和尚が唐から伝えたという仏舎利を納める金銅製の金亀(きんき)舎利塔と同じ造りをしているとのこと。 その正体は真言密教の 瑜祇塔(※ 6) を表している … と記されていました。 真相はよくわかりませんが、石塔としては稀有で面白いものだなと思います。
【品川寺 本堂】
山門をくぐり、まずは右手奥にある 本堂 で手を合わせ、ご真言を唱えることにします。 堂内は照明が落とされていて暗くてよく見えなかったのですが、ご本尊の 水月観音像、札所ご本尊の 聖観音像、薬師如来像、日光・月光菩薩像、毘沙門天像、弘法大師坐像、不動明王像 などたくさんの仏像が安置されており、格天井には梵字の他にとても繊細な仏教絵が描かれているなどなかなかの見応えがありました。 品川寺の最も貴重な宝物は、国の重要文化財に指定されている鎌倉時代初期の作といわれる 絹本著色仏眼曼荼羅図 で、現在は東京国立博物館(台東区上野恩賜公園内)に寄託されています。
堂内にはお札やお守りなどを販売するカウンターが設けられており、御朱印もこちらでお願いすることができます。 お歳を召した小柄な男性(ご住職 ?)に受け付けて頂いたのですが、授かった品川寺の御朱印は今まで頂いたたくさんの御朱印の中では最も力強い筆致のもので、なんだかみなぎるパワーも一緒に授けていただいたような気分になりました。
境内には品川寺の守護神を司る 弁天堂 ・稲荷堂 や、弘法大師修行像、役行者像、七福神像、十三重塔 など見どころがたくさんあります。 山門脇にある イチョウの大木 は推定樹齢 600年といわれ、品川区指定天然記念物となっています。 イチョウの大木の下には保存状態の良い 庚申塔 もあり目を楽しませてくれました。
【弁天堂】 と 【稲荷堂】
【弘法大師修行像】 と 【役行者像】
【鐘楼と十三重塔】 と 【庚申塔】
【イチョウの大木】
境内の中で最も目を惹くのが国指定重要美術品とされる 大梵鐘 です。 四代将軍徳川家綱より寄進されたこの大梵鐘は、明暦三年九月十八日、京都三条・大西五郎左衛門尉藤原村長に命じて鋳造されたもので、徳川三代の将軍の号である 東照宮・台徳院殿・大猷院殿 と、京都七条の大仏師・康斎による六観音(聖観音・千手観音・十一面観音・准胝観音・如意輪観音・馬頭観音)が浮き彫りにされ、さらに観音経一巻が陰刻されており 『 武蔵風土記 』『 江戸名所図絵 』には 世にもまれなる梵鐘 と記されているといいます。
【鐘楼】
しかし、この名鐘は江戸幕府末期の品川寺の荒廃とともに海外に持ち出され、慶応三年(1867年)のパリ万国博覧会、明治4年(1871年)のウィーン万国博覧会などに多くの日本の美術品とともに展示されていたことが伝えられていましたが、その後の行方が分からなくなってしまいました。
時の住職は、大梵鐘が海外に搬出されたことを町の古老から聞き、大正年間を通して全世界に鐘を求め探しました。 この結果、大正8年にスイス・ジュネーブ市のアリアナ美術館で所有されていることが分かると、住職はジュネーブ領事に次のような書簡をしたため、大梵鐘返還の願いを伝えました。
日本の梵鐘は、時を告げると共に、人々がこの響きを耳にする時、
信仰を呼び起こし、心豊かな生活を営む基調となっています。
寺が鐘を鋳造するについては、願いをこめ、多くの人々の寄進により造られ、
鋳造中は願いをこめ祈り、鋳造者は心身を清め、
一心不乱に名鐘を作り出そうとつとめます。
【大梵鐘】
戦時中に金属供出令が出されたが、品川寺は大梵鐘と地蔵菩薩坐像の供出だけは拒否した
一通の書簡はジュネーブ領事の心を動かし、昭和4年(1929年)のジュネーブ市議会は満場一致の議決を以って大梵鐘を品川寺へ贈還することを決定しました。 翌昭和5年5月5日、品川町民総出迎えの中、約 70年ぶりに大梵鐘が品川寺に戻り、この日、品川寺の境内は 1,200人の信徒・町民で賑わい、深夜まで大梵鐘の帰還を喜んだと伝えられています。 品川区とジュネーブ市は、この大梵鐘が縁となって友好都市となり、平成2年(1990年)にはこの大梵鐘を模した鐘が新しく鋳造されてジュネーブ市に寄贈されました。 鐘はかつてと同じアリアナ美術館の庭園に設置され、品川区とジュネーブ市の友情の記念となっています。
参照:品川寺公式ホームページ・読売新聞
※ 1 真言宗醍醐派(しんごんしゅうだいごは) 真言系仏教宗派のひとつ。 総本山は醍醐寺(京都市伏見区)。 宗祖はもちろん弘法大師。 品川寺は真言宗醍醐派の別格本山である。
※ 2 巡錫(じゅんしゃく) 修行僧が衆生教化と自己修養のために錫杖(しやくじよう)を持って諸国を巡歴すること。
※ 3 水月観音(すいげつかんのん) 三十三観音のひとつ。 補陀落山(ふだらくせん)の水辺の岩上に座し、水面の月を眺めている姿で描写・造形される。 水月観音は竜宮出現の像と伝えられている。
※ 4 江戸六地蔵(えどろくじぞう) 第一番 東海道 品川寺(品川区南品川)・第二番 奥州街道 東禅寺(台東区東浅草)・第三番 甲州街道 太宗寺(新宿区新宿)・第四番 中山道 真性寺(豊島区巣鴨)・第五番 水戸街道 霊巌寺(江東区白河)・第六番 千葉街道 永代寺(江東区富岡・現存せず)・代仏 浄明寺(台東区上野桜木町)
※ 5 亀趺(きふ) 大亀の形をした石碑を載せる台石の一種。 功績や功徳などを刻んだ石碑を載せるものが多いが、墓石を載せた例もある。 もともと中国の貴族階級の風習だったが、江戸時代に日本でも取り入れられた。
※ 6 瑜祇塔(ゆぎとう) 正式名を金剛峰楼閣瑜祇塔(こんごうぶろうかくゆぎとう)といい、各地にある多宝塔の原型といわれている。 弘法大師空海によって伝えられた真言密教の第三番目の継承者である金剛智三蔵訳の 『 金剛峰楼閣一切瑜伽瑜祇経(略称・瑜祇経)』 に基づいて建立された。 瑜祇経は真言密教の重要な経典で、高野山金剛峯寺の寺名の由来ともなっている。
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こんにちは、折りたたみ傘です。 24日の月曜日は中秋の名月で、朝の天気予報では横浜は曇りで月見はちょっと無理かもしれないということでしたが、実際はちょっと雲でもやがかかっていたものの美事なお月さまを拝むことができました。 が、こういう時に限って望遠カメラの電池が切れているから腹立たしい …。 上手く撮影できたらブログにアップしたところなのにな。
さて今回は、前回の 第二十九番 高野山 東京別院 の続きとなる東京都品川区北品川二丁目にある 第三十番 豊盛山 延命院 一心寺 の参拝記です。 高野山 東京別院 の最寄り駅は都営浅草線の泉岳寺駅か京浜急行線の品川駅になりますが、泉岳寺駅から京急線の鮫洲駅まではほぼ直線で駅間が近いため、また旧東海道の街道を偲びながら南下するいい散歩コースなので、天気もいいし日ごろの運動不足解消も兼ねて歩いて訪ねることにしました。 京急線利用の場合、一心寺の最寄り駅は品川駅から二つ目の新馬場駅になります。
旧東海道品川宿にある 豊盛山 延命院 一心寺 は、開国機運高まる幕末の安政二年(1855年)に時の大老井伊直弼が、鎮護日本・開国条約・宿場町民の繁栄安泰の願いを込めて開山し、町民代表一同によって建立されたと伝えられています。 その後、明治初期に火災によって焼失しますが、明治18年(1885年)に再興されたといいます。 さらに昭和になると、成田山の分身である 不動明王 をご本尊として中興、品川成田不動尊 として親しまれ、延命・商売繁盛・厄難除災にご利益があるとして信仰を集めています。
9月16日(日)、高野山 東京別院 を出て桂坂から第一京浜(国道15号)に戻り、元来た方角とは逆の品川駅方面に向かいます。 品川駅を通り過ぎると間もなく北品川駅となり、ここから 旧東海道 の街道筋になります。 日曜日のため休業の店が多いのですが、平日は人通りもそこそこの昔ながらの商店街となっています。
【旧東海道品川宿】
東海道五十三次の最初の宿場で、その設置は江戸幕府開府よりも早い
江戸の玄関口として賑わい、吉原と並ぶ遊興の場でもあった
旧東海道の入口から約 400m ほど歩くと左手に 一心寺 の 山門 が見えてきます。 コンパクトな山門ですが、なかなか見事な扁額が懸かっていて思わず見入ってしまいます。
【一心寺 山門】
境内は狭く、山門をくぐるとすぐ右手には一心寺の縁起の書かれた板書と、高さ約 2m ほどの 不動堂再建碑 があり、正面にはこれまたこじんまりとしながらもなかなか立派な 本堂 が建っています。
【境内】
境内左にある手水舎で手を清め、お賽銭をして手を合わせご真言を唱えました。 ご本尊は前述の通り不動明王ですが、札所ご本尊は 聖観世音菩薩像 がお祀りされています。 また、本堂内にはそれぞれのご本尊の他に、昭和61年より東海七福神の 寿老人 の指定寺院となっていることから 寿老人像 も安置されています。
【本堂】
御朱印を頂こうとインターホンを鳴らすと、優しそうな感じの私服姿の男性が奥から出てきて応対してくださいました。 御朱印を授かるときに
「 このあとは(第三十一番の)品川寺にも行かれますか ? 」
「 はい、そのつもりです 」
「 ここから 10 分から 15 分くらいかかりますが、場所はわかりますか ? 」
「 ええ、何度か訪ねていますのでわかります 」
「 それでは気をつけて行ってらっしゃい 」
「 お気遣いありがとうございます 」
と、親切なお声をかけていただきました。 以前、旧東海道を歩いたときは、ここ一心寺に御朱印帖を持った若い女性がたくさんいたので 「 ひょっとすると人気のお寺かもしれない … 人が多かったら御朱印をいただくのにも時間がかかるだろうな … 」 と思っていましたが、この日はワタクシの他には誰もいなかったのですんなりと受け付けていただくことができました。
一心寺では、昭和 6 年から続いているという ほうろく灸 が行われています。 素焼きの皿(焙烙:ほうろく)を裏返しにして頭に乗せてお灸をすえ、悪邪霊を除くという祈祷です。 通常のお灸と違い大量のもぐさを使用するため、本堂内はモウモウとした煙に包まれるそうで、初めて見学した人はみんなビックリするそうですよ。 ほうろく灸は、春分・夏至・土用の丑の日によく行われるそうですが、ここ一心寺では毎月 28日の縁日に体験することができるそうです。
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