宗麟のまち 模型と私

自然を畏れること、忘れてはいけないなあ・・・

島原・天草探訪記

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さて、今日は天草は二江からお送りしていまーす。
ハイ、そちらの状況はいかがですかあああ?

「ドベックショオオンっっっっ!ドベックショオオンっっっっ!」
おや、いったいそちらでナニが起きているんでしょう。
レポートがまるで日本語ではないですねえ
なんですかこの小汚い叫びはっ!

「ナニ言ってんですかあ、花粉が、花粉がかふふううんぐあああドベックショオオンっっっっ!ドベックショオオンっっっっ!」

そう、昨今まれに見るほど、私の花粉症は先日、洗練され、磨きがかけられ、須弥山の高みにまで引き揚げられた感のあるほど、すさまじいもんでしたよ。
まあとにかく、今回天草にキリシタン墓碑を見に行ったわけですが・・

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やってきたのは上記の如く、天草下島の二江というところ。
島原半島を目の前にした、大変美しい海のまちです。

このまちにあるキリシタン墓碑を見に行きませんかと、大石先生からおさそいがあったので行って見ました。
その二日前の大石先生との電話
大「あのねー、あそこはとってもわかりにくいところだから、近くにきたら電話してよ。迎えにいってもいいからさー」
おお、すっかり私は方向オンチだと思い込まれているようだあ!
私「はい、ご親切にありがとうございます。その時はよろしくお願いいたします」

いやー、先生、大丈夫っすよ!
私は実は、つまらん駄洒落を言ったことのないことと、道を間違えたことがないことで世界に知られているのです。
地図でみたら、いやこれはビギナーでも間違いっこない。
いやいや、私にすれば雑作もないこと。ちょちょいのちょいっすよ!
ま、ご心配には及びませぬ。定刻どおりにピタリと到着して差し上げましょう!

で、当日

いけどもいけどもたどり着かない。
どうやらこのあたりに、絶滅したはずの、オットー・スコルツェーニー(注:第二次大戦中のドイツ軍特殊工作隊のリーダー)とその一座が復活あそばして(←スコルツェーニーは1975に死亡)、
道標をあらぬ方向に向けて混乱させているに違いない。
1944年12月のベルギーはアルディンヌ地方で、どんだけ連合軍が混乱させられたか・・
おめえら冬の間だけ活動してりゃいいんだよ、雪が消えたらひっこみやがれ!
と、車の中でブツブツ言ってたら、見えてきたものが

「おっぱい岩」
誰がつけたか
「おっぱい岩」http://www.geocities.jp/amakusa_tanken/oppai.htm

あーーーーーっ!行き過ぎたかあ

以前、このあたりを通ったときに、必要以上に印象に残った名勝
「おっぱい岩」
もーえーっちゅーねん。

ということは、通詞島の前を完全に通りすぎている。
引き返せ!

引き返しました。
で、やっとたどり着きましたよ集合地点。
今日一緒に行っていただける地元の方しかまだ来ていない。
で、大石先生ご一行さまのお姿が見えない。
「へへっ!あー、これで道間違えたのがバレずにすむなあ」
と思って一人でくすくす笑ってたら・・

「あー大石先生たちなあ、あんたが道を間違えると悪いっていって、たった今しがた分岐点のトコまで迎えにいってくれたよ」

へっ!じゃあ、大石先生と分岐点で会わなかった(つまり私がその地点を通り過ぎてしまった)ということは
完全に私が、鉄道世界では決して許されることのない3キロほどのオーバーランをしたことがバレるということではないかあ!
とあせってたら、先生ご登場
「いやーあんたが道がわからんだろうと思ってね、ちょっと出てたのさ」
ああ、やっぱり私は方向オンチとして認識されていたのだ。
そして私は常に人の期待を裏切らぬ人間として
今日もそれを行いで示したのだった・・・。
エライよ、俺!

で、気を取り直してキリシタン墓碑のある小山へ。

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二日前から、えらく花粉が九州地方に発生しているように思えました。
オットー・スコルツェーニーとその一座が(←いや、だからね、こいつらもう死んでるんだって!)、ドイツが負けた腹いせに、花粉を撒き散らしてるんじゃあなかろうかと真剣に考える今日この頃・・・

久しぶりに夜、鼻が詰まって寝られない夜を過ごしていました。
ここまで来る間に、運転しながらでまくるくしゃみ。
一瞬、視界と記憶が飛んでしまう。
そんな危険をかいくぐり、天草諸島に入ったら、なんとなくそれも収まったような気がしました。

「あー、これで楽になるかなあ」

と思った矢先、
なんとなく目がかゆくなる。
「あれ、あんた風邪でもひいてるの?声がとても変だよ」
と、大先生。
「あー、実はですね、私花粉症なんですよ」
「あー、そりゃいかんなあ」
「いかんですね。」
「あーでもね、今から行くところ、すごいよ」
「へっ?墓碑がすごいんですかあ?かっこいいんでしょうねー」
「ああ、それもすごいんだけど、あんた、それが杉木立のなかにあるんだから、すごいのだ」

一瞬本気でこのまま大分へ帰ろうと思いました。

でもまた阿蘇を越えるとき、
どーせすっげーくしゃみが出て、鼻呼吸ができないくらい鼻が詰まるしなあ・・
いいよ、がんばるよ、俺・・

「おお!そうですか、それはすごいですが、たいしたことはありません。もう花粉の峠も越えたはずです」
見栄をいっぱい張らせていただきました。
で、ちょいと心臓が止まる思いをして山道を上がっていくと
ステキな杉木立がありました。
「ああ、あそこの奥に墓碑があるんだよ、ほらそこに看板があるだ・・」
「ドベックショオオンっっっっ!ドベックショオオンっっっっ!ドベックショオオンっっっっ!ぐああああーーーーっつ!」

私の花粉センサーはたいへん敏感です。
私の方向探知センサーはおそらく、こいつにパワーを吸収されて動きが鈍くなっているのでしょう。

ああ、いまからここで数時間調査をするのかあ。
ハナが詰まってここで私の生涯が終ってしまったら、どうなるのだろう。
そもそも花粉症で殉職した人っているんだろうか?
「ドベックショオオンっっっっ!ドベックショオオンっっっっ!ドベックショオオンっっっっ!ドベックショオオンっっっっ!」

阿蘇越えするときに、車の中ではくしゃみ7連発が出ましたが、それに準ずる連射がでました。
周辺の皆様にご迷惑をおかけしております。
このままだと、拓本用の画仙紙貼るのに霧吹きはいらない、俺で充分だあ
みたいなことにもなりかねないのですね・・・
先生方にすれば、それだけはカンベンしてもらいたいはずですな。

見るにみかねて、ご一行様のお一人が、
「これは眠くならないし、即効性があるし、常習性がないからいいですよ」
と、花粉症の薬をくれました。
これを飲んだらなんとか、「人間霧吹き」にならずに済みました・・・
本当に本当にありがとうございます。

で、このキリシタン墓碑、全長1m弱くらいの半円柱型(カマボコ型)墓碑で
それを仏教の供養塔に転用したものらしいです。
両小口面にはしっかりと、この種の墓碑に見られる縁取り装飾がありました。


ご存知のように、このあたりは16世紀から17世紀にかけて数多くのキリシタンが住んでいたところです。
度重なる禁教令下の中で、潜伏して信仰を守った人々も多くいたと思います。
そして潜伏キリシタンと疑われないために、あるいは実際にキリシタンではないから誤解されないように
この島の方々はさまざまな工夫をし、それが習慣として残っている場合もあるのかな?と思ったりします。

で、ちょっと気になるのが、この注連縄

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この注連縄は天草下島のではよく見かけるとのこと。
別に毎日がお正月なわけではなく
「ひょっとすると、うちはキリシタンではないといくことを示そうとしているのかなあ」
と今回どなたかが想像されていました。
まだこの習慣の意味をはっきりと聞いたわけではありませんが、
この方のご見解も納得できます。

人はさまざまな秘密を持って、生きていくものです。
人の数だけ、秘密があるのでしょう。
しかしそれはその人にとって、他者に理解されるものではないから
秘密として持っておかなければならなくなるのでしょう。
難しいことかもしれませんが、できうるならば
秘密を抱える苦しみを少しでも軽くしてあげるために、
その人を理解し、認めることの大切さを思うことがあります。

歴史の解明というものは、事実を暴くということではなく
真実を明らかにすることで、過去の人々をきちんと評価し
その過去の人々の長く苦しかった「無理解と弾圧」の束縛から
時を越えて、開放してあげることでもあるなあ・・

こうした潜伏キリシタンのいた土地に立つと
そう思わずにはいられません

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先日、大村市に行ってきました。
大村市立図書館内にある、松田毅一南蛮文庫で調べ物をした後、
市内を散策しました。

地元の大石先生にご案内していただいたこともあって、
大村市素人の私が、一人だったら絶対に行くこともなかろう場所に行くこともできました。

その中でも、印象深かったのが、「首塚」と「胴塚」。

これは島原の乱から約20年後の明暦3年(1657)、大村藩が潜伏キリシタンの一斉摘発を行った際に、郡村(こおりむら)の村民を中心とした603名が捕縛され、406人が斬首されたという「郡崩れ」にまつわる史跡です。

斬首者406人のうち、131人は藩内の放虎原(ほうこばる)という場所で処刑されたのですが、その遺骸の胴と首を一緒に、あるいは近くに葬ると
「キリシタンの妖術で、首と胴が繋がり、死人が復活する」
と恐れられ、
処刑者の首と胴は、それぞれ1キロ以上離れた場所に、別々に葬られたのでした。

死してもなお、異国の神を信じているというだけで、人として扱われない彼等・・
南島原市の原城付近にある、原城で籠城し、幕府軍に惨殺された一揆勢の供養碑(江戸時代)の碑文の「きりしたん」の「き」には
「鬼」
という字が充てられていました。

当時の事情はさまざまあるでしょうが
供養されつつも、「鬼」であり、「妖怪」のように扱われることのこの悲しさです。

仏様も神様も決して人は殺しません。
でも、神様や仏様を信じる人々の中にははなぜか、人をときには平気で殺す者もいます。
歴史の中での、宗教の意味を最近よく考えるようになりました。

そして、私にはどうしても宗教観の相違から戦争が起こることに納得がいかないのです。
国際感覚や、多様な世界の文化を理解していないからかもしれませんが、
私の知っている神様や仏様はみんな(いや、向こうは私のことを知らないだろうが・・)

「ケンカすんなよなあ!仲よくしようぜ!」

と言っているようにしか思えませんのです・・・。

やはり宗教は、人が造り上げたものなのでしょうかねえ・・・
でも、ケンカばかりしている人たちがいる以上に
神様や仏様に敬虔な祈りをささげている方たちもたくさんいます。

バチをあてる神様や、仏様以上に、人間がはるかに怖いですね・・
でも、神様や仏様なみに、人の心がありがたいことも確かです。
善良な人間が、心を夜叉にしないように、
この世の平和の意味を、歴史から学ぶことが本当に必要だなあとつくづく思い知らされた旅でした。

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島原の乱で一揆勢が立てこもった原城のある南島原市では、原城や日野江城、吉利支丹墓碑いったキリスト教の文化財が、世界遺産暫定一覧表に登録されていることもあり、これにちなんだ「有馬の城とキリシタン」というテーマで、地域振興フォーラムが開かれたことは前回ご紹介しました。
また、これにあわせて原城文化センターでは、たいへん興味深い特別展が催されていましたので、今回はこの展示について・・・。

この特別展は、全国にわたって採取したキリシタン関係石造物の拓本を一堂に展示するという試みです。
わが臼杵市に所在する、掻懐キリシタン墓や、野津磨崖クルスの拓影も展示されていました。
その数と拓影のすばらしさにも圧倒されますが、
なによりこれだけの膨大な拓影をこつこつ採られていった、長崎県立歴史文化博物館の大石一久先生のご努力に感服するばかりです。

拓影資料は、現地で実物をみてもなかなか読み取りづらい文字や意匠、どうやってこの石造物を加工したかを示すノミ痕などの整形痕をよりわかりやすく捉えることができますし、立体造形物を一枚の紙の上に(実際は何枚もの紙や紙片をつなぎ合わせて一枚仕立てにしています)現すので、多くの石造物資料の大きさや製作技法、デザインなどを比較するにはきわめて効果的なのです。

この展示は、キリスト教関係石造物だけが対象かと思ったら、さにあらず、
なんと仏像の拓本も展示されているのです。
これはなぜかと、大石先生にお訊ねしたら

「キリスト教がどうして有馬地方でスムーズに受容されていったかを考えるとき、それ以前にこの地方ではどういった信仰が根付いていたかということを調べてみる必要性に気がつきました。
ここに展示している阿弥陀来迎図からもわかるように、この地域にはキリスト教の到来以前、どうやら真宗をふくめた浄土教信仰が盛んであったのではないかと思い当たったのです。
ことに真宗は念仏に徹し極楽往生を願っていますが、天国へ向かうことを至福とするキリスト教の教理と通ずる部分が多かったことも影響しているのではないかと考えたわけです」

という意味のお答えをいただきました。

なんだか
「ガッテン!ガッテン!ガッテン!」
ですね。

「火の無いところに煙はたたない」といいますが
その土地で何か特異な歴史的現象が起きるとき、
その現象が単に突発的に起きたのではなく、そうさせる素地がなにかあったのではないか?
とまず考えるべきだと改めて考えさせられました。

そういえば大学時代、歴史地理学の担当教官であった藤岡謙二郎先生の口癖は
「何が彼女をそうさせたか」
でした。
「彼女が何の気なしに特異な行動するわけないでしょう」
お前さんが気がつかないだけで、その理由があるはずです。
それがわからないからお前は野暮天なんだよ、ということ・・・。
なるほど!

確かにわが豊後でも、16世紀において真宗信仰者が村単位でキリシタンに宗旨替えしているケースが宣教師によって報告されています。
そして大石先生は
「臼杵市は国宝臼杵磨崖仏をはじめとする仏教石造物の宝庫でありながら、一方でそのすぐ近くに掻懐キリシタン墓のような優れたキリシタン関係石造物も存在しているような地域です。
このような現象が起きている背景にはなにがあったのか、とても興味深いところですね。」
ともおっしゃっていました。

確かにそうです。
臼杵は宗麟の臼杵所在時代(1556−1587)においても仏教寺院は営まれているし、その当時のものと思われる仏教石造物が城下町周辺地域に転々と残されています。
こうした現象はやはり、最後まで大友家臣団をキリスト教で統一できなかった証なのでもあるのでしょうか・・・?
重大なヒントを大石先生にいただき、新たな視点で臼杵を捉えていく必要を感じます。


さて、このあと
「ありえコレジョホール」で開かれる地域振興フォーラム「有馬の城とキリシタン」の聴講に行きました。
さてそこで私は、ある人物と出会うことになります・・・


それはまた次回のお楽しみということで。

【写真上 ディオゴ作右衛門のキリシタン墓碑 写真下 雲仙でみかけた宝筐印塔】

鉛の十字架

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11月22日から24日にかけて、長崎に行ってきました。
ご用はと申しますと、島原半島の城跡やさまざまな石造物を巡りつつ、
16世紀から17世紀初頭にかけての、この地方でのキリスト教の展開のようすを勉強するためです。

今回は特に、列福式が11月24日に執り行われることもあり、これにちなんだ史資料特別展示や、歴史フォーラムが県下のあちこちで開催されていました。

島原の乱で一揆勢が立てこもった原城のある南島原市では、原城や日野江城、吉利支丹と墓碑いったキリスト教展開に関する文化財が世界遺産暫定一覧表に登録されていることもあり、これにちなんだ「有馬の城とキリシタン」というテーマで、22日に地域振興フォーラムが開かれています。このフォーラムを聴講しました。

主催団体のひとつが財団法人地域総合整備財団であることもあり、
フォーラムの内容は、原城などの史跡を世界遺産とすることで、どのように南島原市が活性化するか、あるいはそのためにどんな手があるのか、
ということにウエイトが置かれていたような気がします。

そんな中で、このフォーラムの冒頭で基調講演を行った、カトリック長崎大司教区司祭 古巣馨神父のお話の内容は 世界遺産がこの世に何のために存在し、それによって我々はこの世界遺産からなにを汲み取り、何を守っていかなければならないのか、ということを説くものでした。

それだけに、他の講演ではなかなか感じることのできない、心にずしりと響くものがあったのです。

古巣神父は「世界遺産」」というものを、
どのような時代にも通用す普遍的な宝としての、その町に刻まれた歴史と文化であると定義なさいました。
またこれらの宝は

「教育の泉・福祉の泉・平和の泉」
という3つの泉でもあり、ここから現代へと水をひくことによって
たくさんの人たちに希望と癒しを与えられるものと信じている、と語られました。

これを具体的に語られるために、古巣神父はある歴史的事象の話をなさいました。
それは、原城から出土した鉛製のクルスのことです。

原城に立てこもった一揆勢は、籠城前から全員がキリシタンであったわけではないようです。
一旦は迫害に屈して棄教したものの、一揆として活動をはじめ、原城に立てこもったのちに再度キリシタンとなる「立ち返った」者も多くあったとのことです。

原城内には最後のときまで、火薬と弾丸が豊富にあったといわれています。(『平戸オランダ商館の日記第4輯』 永積洋子訳 岩波書店)
一揆勢は、本来なら弾丸とすべきこの鉛を、どうやら自らの胸に下げる十字架として鋳直しているとのことなのです。
この原城において、籠城生活の中でふたたび、キリシタンとなる喜びに目覚めた者も多くあった証の一つといえるでしょう。

この、緊急に鋳造されたであろう鉛の十字架は、おせじにも整った形をしているわけではありません。
ただ、二本の棒が直角に交わっているだけのものです。
この十字架は、原城で亡くなった一揆民の遺骨と一緒に出土しています。

古巣神父はともすれば、反体制的暴動としてだけで捉えられることもある島原の乱にまつわる史跡を
「貧しさや抑圧からやけを起こして暴発した人間の悲しみの跡」
として捉えるのではなく
「戦いの道具である鉛玉を、祈りの道具に打ち直した」事実から
「憎しみを許しに、怒りを祈りに変えた人たち」がたしかにここに存在したのだから、
「貧しさのなかでも人間は学ぶことができ、気高く生きられることをあかしてきた場所」
として考えるべきだと強調されました。

そしてそれを語り継ぐことを、その土地とその土地に住む人たちが選ばれて与えられる使命 
「召命(ボカーチオ)」ではないかと。

講演を聴いて涙がとめどなく溢れたことは、これが初めてです。
私の周囲にいた方たちのなかにも、このお話を聞きながらハンカチを取り出している方がいらっしゃいました。

古巣神父のご講演は、まさに歴史を学ぶことの真の意味を、端的に、平易に、そして重厚に物語るものだったのです。
そしてそれは、その会場にいた人たちの心を揺さぶったのです。

世界遺産として多くの文化財や自然環境が、世界のあちこちで登録されていますが、
やはり「召命」として、その責務を私たちが果たすために
世界遺産というものが存在するべきではないかと、心から考えさせられました。
不恰好な鉛の十字架が、他のどんな荘厳された十字架よりも、
人の思いと、その背景の歴史を物語っていることを伝えるために・・・



それにしても古巣神父、だれかに似てるなあと思ったら
「小田和正に似てるね」とある方がおっしゃっていました。
ホント、そっくりでした・・・


【写真は原城の全景】

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