|
人とか企業でも、一方的な依存関係にある場合は結構見られるものです。親子で云えば依存関係にあるのはある次期まで当然であり、反抗期などを経て子の就労と共に完全に自立し、子は自立した一人の人間として世間に認められると共に、自尊の心が生じるのでしょう。
企業においても、政略的作られた子会社だとか、資本注入を受け入れざるを得なくなって子会社化された企業において、常に親会社の意向だけを第1義として子会社そのもの自体やその従業員のことは、優先順位の後方に置いておかれる事例は事例に事欠かないのでしょう。
国の関係で云えば、日本はアメリカ(正確には米国を中心とする連合軍)に完膚なきまでに敗戦(1945年)し、その後のサンフランシスコ講和条約(1951年)で日本の主権は回復しました。しかし、爾来70年近くを経ますが、法理論としては日本は独立国家だが、真に独立国かを問う意見は根強く残りますし、様々な事象から感じる確かことでしょう。
このことは、現代日本の様々な問題に行き着くと共に、何か何時も卑屈でアメリカの顔色だけを必要以上に気にし、独立国が自国を守るという意志の最高法令であるところの憲法改正もままならないというところにも現れているのでしょう。
現代日本の国防は自衛隊という陸海空の事実上軍隊で行われ、それなりの防衛力を保持しているという意見があります。しかし、沖縄とか厚木、横須賀などに配備されている米軍に負うところも多々なのは確かなことでしょう。そんな中、もしも他国により日本の米軍基地以外を先制核攻撃されたとしたら、米国は果たして報復核攻撃を行うだろうかと考えたとき、幾ら日本人として報復すべしと思っても、判断は米国の意志に委ねられますからどうなるかは予断できません。
先日、論客家の故西部邁(すすむ)氏の日本は核を持つべきだとの意見を読みました。もちろん、先制攻撃を禁止し、報復兵器としての核保有を憲法に明文化して配備するとの趣旨です。これにより、先制攻撃で例え数百万の被害を受けたとしても、報復核を確実に撃ち返すことを宣言します。つまり報復の実際効果をよりも、報復できうることを示すことによる先制核攻撃の抑止効果を現実的に示すことにあります。現在の日本では、核兵器を作るための、材料たるプルトニウム、大陸間弾道弾を製造するロケット技術などを既に所有しており、政府決定を受ければ1年以内に配備は可能でしょう。しかし、真っ先に強く反対することはアメリカでしょう。
|
過去の投稿日別表示
[ リスト | 詳細 ]
全1ページ
[1]
|
世には様々な怪しげな学者達がいることを感じさせる機会は多い。現行政府の拠り所となるべ、それに寄り添うことだけに執着する学者が有名国立大学教授に多いが、御用学者と揶揄されるのもむべなるかなと思う。一方、学者とか官僚から、現在は独立して評論家となっており、Youtubeで論を張ってる者に多いのだが・・・。一件まともな正論を述べていると聞いていると、その法令もしくは条例なりを政府で決めたのに私も関わったとか、最近首相と懇談したが・・・とかの内容を話し間にはさまれている。この学者は何を云いたいのか、多分本人は政府仕事で条例作りに関わる程のプロなのだと自らを権威付けしたのだろうが、なんでその欠点に気がついたら、その時意見しなかったのだと思う。ましてや、政府要人を懇談したと云うならば、本人は頼られて要請された価値に権威を表明してるつもりだろうが、何を聞かれ、これこれの考え方が間違っていたので、強く修正を指摘したぐらいの話しをして欲しい。そもそも権力者は重要事項を、他人の判断を仰ぐ場合、そのことを秘匿にするのが当然だろうと思う。そのことは、将来において権力者が将来の弱点をなることを怖れるゆえんだろう。
およそ学者にしても論評家にしても、その内容は自らの信念基づく冷ややかな目線が必要であって、ある権力とか権威に依拠し、その方向を促したり、逆に威勢よく吠えるが何ら影響力を持たない発言が多過ぎる様に感じる。
およそ学者という道議に照らせば、他人がどう評価しようが自らの信念は変わるものではないだろう。彼のガリレオが廻りが総てそんなバカなことはあり得ないと投獄されても「それでも地球は回っている」と唱えたと云うが、それが学者魂というものだろう。
|
|
テクノロジーの発展が近い将来にも自動運転を可能にするらしい。らしいと記したのは、路面の状態は舗装、雪、氷結、泥濘と状態は摩擦係数は大きく変化する。そして、路面の傾きは前後左右にと、また凹凸路までと様々な変化があるだろう。タイヤと路面の関係だけで、少なくともこの程度は想定されるし、実際走るとなると、様々な認知、判断、予測などの状況が想定される。自動運転は以下のレベル0(なし)から5まで、現在のところ区分している様だが、本当にレベル5が走る日が来るのかと些か懐疑的な思いだ。
レベル 名称 主体 走行領域
0 運転自動なし 人 − 1 運転支援 人 限定的 2 部分運転自動化 人 限定的 3 条件付き運転自動化 車 限定的 4 高度運転自動化 車 限定的 5 完全運転自動化 車 限定なし しかし、レベル5の完全自動運転車が普及すれば、運転免許も不要になり、スマホなりで呼び出せば近くの空いてる車はたちどころに目の前に来るという環境だろう。運送会社でも、余程特殊品でも、それなりのリクエストにより配車がなされる。・・・ということは運転手が不要になるばかりでなく、車両の保有が意味をなくすと思える。
現在、日本の車両保有台数は、10年前からおおよそ8千万台で頭打ちになって推移している。完全自動運転となり、呼べば直ぐ来て、駐車場所を探す手間もいらず、かってに車両基地に帰って行く。そんな環境になったら、自ら保有し続けたい者は何処までいるのだろうか。多めに見積もっても3割ぐらいの保有台数があれば、十分共有することで人々の業務や生活をまっとうできてしまうのだろう。それは、街を眺めれば、駐車している(つまり運用されていない)車の多さから明らかだろう。
考えて見れば、今や日夜しのぎを削って完全自動運転車の研究に没頭しているメーカー(傘下関連会社含む)だが、目標達成と共に没落する運命にあることは承知しているはずだ。それでも、世の動きがある以上、遅れる訳には行かないと必死の研究をしている姿はちょっと滑稽にも感じる。私的な思いだが、完全自動運転とは、今に生きる私の定義する自動車とは似て非なるものだろう。何れは完成してしまうのだろうが、願わくば生きてる内に、完全自動運転車のお世話にならぬことを思う。
追記
完全自動運転化は、新交通システムなどとして一部の路線鉄道で既に採用されて久しい。車でも直ちに可能なフィールドとして思い浮かぶのが、F1などのレーシングサーキットだ。マシンの制御を追い込むことで、たぶん人の限界を超えたタイムを連続的に叩き出すことだろう。しかし、コックピットもないマシンの競争を見物するのは、極一部の限られた者に限定されることだろう。 |
全1ページ
[1]




