WJCC支援会

ワシントン日本人教会と上原先生を支援する会です。

いかに幸いなことか、このような民は。

いかに幸いなことか 主を神といただく民は。

詩編144編15節

 

Back to Schoolという言葉を子どもたちの入学、入園の準備をしているせいか、いろいろなところで耳にしたり、目にしたりします。いよいよ新学期、新しい学年。それに備えるためのわかりやすい、いい合言葉だなと思っていました。そこからいろいろと思いが巡り、やっぱり立ち帰るところ、根っこのところでは主のみもとしかない、とシンプルに思わされます。

本当に帰るべき場所があるからこそ、いたるところへ旅立つことができるように、または旅立つからこそ、本当に帰るべき場所を求めるように、私たちにはそうした一つの軸になる場所がどうしても必要です。

今、水曜日の聖書を学ぶ会では、創世記の初めから順々に読み進めています。神は人のためにエデンに園を設けられる。しかし神の掟を破った人は、その場所を追われてしまう。それでもその先に神は約束の場所を用意しておられる。こうした神の広い栄光の舞台の中で、人(自分自身を見つめながら!)は何度神を責め、人を呪い、土を汚せば気が済むのか、と一方で思います。そしてそれが加速しているような感覚さえも。

 創世記の初めは、最初に創造された光がだんだんと暗闇に覆われていき、その光は所々しか見えなくなるような雰囲気です。人の罪深さを知るには、とてもよい教材です。守りやすい掟をいとも簡単に蛇の誘いで破り、主の顔を避けて隠れ、罪をなすり付け合い、園を追い出され、自らも自発的に主の前を去っていく。まるで「私」を映し出すような鏡として語られます。

そうした繰り返されるような罪の歴史と呼び得る世界の中で、いつも立ち上がってくるのが、主イエス・キリストの十字架の場所であり、空になった墓であり、約束の場所を用意しに行かれた天という場所です。罪の場、苦難の場、死に至る場、死が私たちの人生・命に対して「すべてが空(むな)しい!」と叫び、時に静かに迫ってくるようなそのような場。しかしそのような死やそれを誘う悪や罪こそが、空しいと言わんばかりの主イエスの復活と天に昇られた場。

宗教改革時代の一つの集大成であるハイデルベルク信仰問答では、使徒信条を解説する中でキリストの「陰府(よみ)にくだり」を次のように答えています。「それは、わたしが最も激しい試みの時にも次のように確信するためです。すなわち、わたしの主キリストは、十字架上とそこに至るまで、御自身もまたその魂において忍ばれてきた言い難い不安と苦痛と恐れとによって、地獄のような不安と痛みからわたしを解放してくださったのだ、と」(問44)。そしてキリストの「昇天」のところでは、「第一に、この方が天において御父の面前でわたしたちの弁護者となっておられる、ということ。第二に、わたしたちがその肉体を天において持っている、ということ。それは頭(かしら)であるキリストがこの方の一部であるわたしたちを御自身のもとにまで引き上げてくださる一つの確かな保証である、ということです。第三に、この方がその保証のしるしとして御自分の霊をわたしたちに送ってくださる、ということ。その御力によってわたしたちは、地上のことではなく、キリストが神の右に座しておられる天上のことを求めるのです」と答えています(問49)。

まるで地獄だと思われる所にも、キリストは先回りしてくださいました。また天にも先回りしておられます。そして帰る場所だけでなく、その道案内の霊も授けてくださっているのです。そうした救いを約束されているからこそ、私たちの歩みは神の栄光をたたえる働きとしてこの地上での義務が与えられているのです。救いは手段です。神の栄光をたたえて、永遠に神を喜ぶことが私たちの目的です。私たちが遣わされる場でその喜びの光が神によって創造されますように!

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わたしの魂は苦難を味わい尽くし 命は陰府(よみ)にのぞんでいます。

詩編88編4節

 

上原先生が残された書物に囲まれながらその書斎で仕事をしていますと、その背表紙に印字されたタイトルだけが何度も目に入り、頭に残り、心の中で思い巡らすことがあります。ある牧師は言いました。「今読まなくともその本を本棚に置いておくとよい。いつか開かれるときが来るから」と。置いているだけで読んだ気になることはよくある小さな満足感ですが、それでもないよりかはそこにあるという存在感だけでも確かに意味のあることを思わされます。その人が何を考えているか、どういう人か、本棚を見せてもらいなさいとも昔から言われるのは、そうなのかもしれません。もっとも今は、タブレットやパソコン、スマホの中に全てしまい込まれているかもしれませんが。

その先生の本棚を前にして、ちょうど私がいつもパソコンの画面からふと目を上げて真正面にくるタイトルの中に『苦しみ』というものがありました。ドロテー・ゼレというドイツの神学者が書いたもので、原著は1973年に書かれた古い本ですが、その序言から一歩一歩丁寧に読まれるべき本であることを思わされました。

「人間の大いなる罪責は彼が犯した罪ではない――試練の力は強く彼の力は乏しい!――人間の大いなる罪責はいついかなる時にも悔い改めうるのに悔い改めないことである。」というマルティン・ブーバーの著書の中に出てくる言葉を引用して、ゼレは「悔い改めうるとは、苦しむ者と共に苦しみ、彼らの戦いをそこで戦うことができるということである」と、最初から鋭く私たちの立ち位置を問いかけます(12頁)。それは著者自身の自己批判でもあり、悔い改めの言葉であることが読み進めるとわかります。共に苦しむことへと招きつつ、そこに留まること。だからこそ安易に苦しみを除去する態度には抵抗します。「人間が、期待されている苦しみの除去に頼れば頼るほど、ますます実際に苦しみに対抗する彼らの力は乏しくなる」(14頁)。

苦しみという普遍的なことは、具体的な苦しみを見つめるとき、普遍的な言葉では語り得ない、それぞれの言葉や状況があることも事実です。ですから、単に過去の経験から学ぶ、歴史から学ぶという言葉や態度に、「苦しみとのやりとりのいろいろな形をあまりに安価に見積」ることであるとも指摘されます(15頁)。

まだ序言しか読み進めていませんが、そこには牧師としての姿、教会としての姿が改めて問われているように思いました。「具体的な苦しみによって燃え立たせられた愛の想像力がなければ、奉仕は見せかけだけのものになってしまうでしょう」(モルトマン『人への奉仕と神の国』、54頁)という以前日本にいた時に紹介されて読んだ本の言葉も同時に思い起こしていました。この言葉に触れた時、まず心に現れたのがイエス・キリストの十字架でした。時にあまりにも美化され、また反対に興味本位でグロテスクに描かれているようなその十字架は、しかしそうした形で押し付けられたものではなく、具体的なそれぞれの私と密接に結びつけられた燃え立たせられた神の愛そのものです。一人一人に与えられたイエス・キリストの十字架の姿と自らが負う十字架の歩み。教会において共に同じ神の言葉を聴きながらも、それぞれの心に描かれる十字架の形が違うことはあってしかるべきでしょう。それがキリストの体として、兄弟姉妹が聖霊によって互いに結びつけられた時、そこにしかない教会の十字架が立てられていく。その教会にしかない十字架を共に背負っていく。

今私たちの教会に掲げられるべき十字架の形はどのような姿でしょうか。それをマルコによる福音書を聴き続ける中で、愛の想像力を燃え立たせていきたいと祈り願っています。「苦しみ」ということさえ消費されるような文化の中にあって、私たちは神の言葉にあって抵抗し続けなければなりません。十字架へ向かう主イエスの後を共に歩んでまいりましょう。

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 二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。

マタイによる福音書18章20節

 

18日(金)のウィリアムズバーグ集会、19日(土)のノーフォーク集会に家族とともに初めて参加してきました。それぞれとても恵まれた時を過ごし、新しい出会いに感謝しました。覚えてお祈りくださりありがとうございます。ウィリアムズバーグ集会ではテイラー暁美さんのお宅を会場にして、私たち家族を入れて10名ほど集まり、ノーフォーク集会ではいつも会場にされているカルバリー長老教会をお借りして、子どもたち合わせて30名ほどが集まりました。

上原先生ご夫妻を通して長年培われてきた主の確かな実りを体験することができたのは何よりの喜びでした。またここにも確かに教会がある思わされた時でもありました。

教会は、神が一人一人に聖霊を送り、その一人一人の呼びかけの言葉をもってまた新たな人を集めてくださる場です。神はご自身のために、一つの群れをご自身の霊と言葉によって世の初めから終わりまで守り、保たれます。そしてその場にあって私たちは神を喜び続けるのです。

なぜなら一人一人がキリストの体のかけがえのない生きた部分であるからです。ノーフォークで苦しみを抱えている集えなかった方、その家族を覚えて祈るとき、そこに涙がありました。自分の体が損なわれたような魂が痛む思いがそこにあったからだと思います。そうした教会の中心におられるのは、ご自身の体も魂も痛みささげつくされた復活の主イエス・キリストです。

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実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、

御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、

エフェソの信徒への手紙 2章14節

 

先週6日の牧師就職式は、主の御前に静まりつつ厳かに行われた恵み深い礼拝のひと時でした。ノーフォークの兄弟姉妹をはじめ、新しい方にも恵まれて、いつもの週報より少し多めにしか作成しなかった私の小ささに対して、主が大きな御声で𠮟咤激励してくださっているように感じました。主のご計画や恵みを小さくしようとする自らの誘惑に、恵みによって戦い続けなければならないと自覚させられました。戦い続ける姿勢。これは教会にとっても大切な要素の一つです。

この地上の教会は、天上の栄光の教会に対して、戦闘の教会、戦いの教会と呼ばれます。勇ましく穏やかな言葉ではありませんが、「神の武具を身に着けなさい」(エフェソ6:11)と言われるようにやはり私たちには戦う相手が与えられているのも事実です。「わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです」(12節)。このエフェソ書の箇所ではその後に様々な武具が紹介されますが、印象的なのは、あまり目立たない、しかしとても大切な部分である履物です。その履物は、「平和の福音を告げる準備」(15節)と呼ばれています。福音というのは、平和だというのです。そして福音という平和は、まさに上にあげた御言葉のようにキリストそのものだとも2章で言われています。このことを今この8月という時に改めて考えさせられています。

15日は、日本にとって戦いに敗れた日として、または終わった日として記念し、国内では教派を超えて多くのところで集会が持たれています。どちらにせよ勝利の日では決してないわけです。何に敗れたのか、何が終わったのか、そして本当にそれは終わっているのかを思い起こし、問い続ける日です。「思い起こすとは、ひとつの出来事を正直に、まじりけなしに思い起こし、その出来事が自分の存在の内部の一部になってしまうほどにするということであります。これは、われわれの真実を問いただす大きな要求であります」(加藤常明『ヴァイツゼッカー』19頁)。

引用した言葉は、1985年のドイツの敗戦記念日である5月8日になされた当時の大統領であるヴァイツゼッカーの有名な演説の一節です。キリスト者としても有名な彼の言葉は、ユダヤ人にとってもキリスト者にとっても、そしてむしろ全ての人にとって「思い起こす」ということがいかにその命を育むことにおいて大切であるかを気づかせてくれます。

「罪責があろうがなかろうが、年をとっていようが若かろうが、われわれはすべてこの過去を引き受けなければなりません。この過去のもたらした結末が、われわれすべての者を打ち、われわれは、この過去にかかずらわないわけにはいかなくなっているのであります。・・・かつての非人間的な事柄を思い起こしたくないとする者は、新しく起こる非人間的なるものの伝染力に負けてしまうものなのであります」(同上、25頁)。

ある面で自らの誘惑と戦うというのは、自らの忘れやすさと戦うことであるのかもしれません。都合の悪いもの、罪を忘れてしまう。すると自然に赦しをも忘れてしまう。そうしますと、和解や平和という言葉もどんどんと遠のいていきます。忘恩(ぼうおん)という言葉があるように、信仰生活に潤いがなくなってくるのも、神の恵みが恵みとして思い起こせなくなるからでしょう。

だからこそ私たちは、祈りをもって聖書を開き続けます。それは神の歴史を思い起こすためです。そこから今を見つめるためです。そしてやがて完成される神の国を見るためです。その国では、ユダヤ人もドイツ人も韓国人も日本人もありません。神の国は地上の教会においてもう始まっています。なぜならそこで平和の主イエス・キリストが聖霊によっておられるからです。


【百合子さんもお元気です】

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8月6日(日) 、Bethesda Presbyterian Churchの大礼拝堂にて片岡継牧師のWJCC牧師就職式がありました。芦田先生(WJCC支援会会長、日本キリスト改革派新浦安教会牧師)が司式、アトランタの長井正人牧師が説教をしてくださいました。長井先生はいくつかのことをおっしゃいましたが、 超教派であることを大切にするように。 超教派であることが維持され祝福されるためには、 互いの違いを尊重し合って、とにかく仲良く、愛し合うことだ、 と説教してくださいました。

《牧師の窓から》
「誓約」という言葉の重みと厳粛さを上の言葉を何度も読みながら、改めて教えられています。牧師に対する誓約を読み返すたびに、自らの足りなさを指摘されているようで、胸が痛くなるのも事実です。けれども、この誓約の初めに、「神の恵みによって」という言葉がおかれていることは、何という慰めであり、励ましでしょうか。
全ては、神の恵みによって始まります。そして神の恵みで終わります。ある引退牧師が、その引退の挨拶を述べるときに、「神様の憐みによってここまで牧師をすることができました」とシンプルに、そしてその牧師だからこそ重みのある言葉として響いたことを思い起こします。神様の憐みは、恵みの大きな現れです。そしてそれは教会という場で互いに仕え合うことによって、外へと満たされていく具体的な神の愛の始まりとなります。

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