WJCC支援会

ワシントン日本人教会と片岡先生を支援する会です。

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白人至上主義団体の抗議活動が、またこのDCであることを伺い、心穏やかではないことは私だけではないかと思います。それに対抗する形の集会もまた開かれているようですが、より溝を深めているようにも感じられます。「分断」とい言葉が、また頭をよぎりました。
  先日、8月の日本の敗戦記念日が近づくのを思い、『きけ わだつみのこえ』(日本戦没学生の手記)を開きました。流して読むことのできない一つ一つの言葉ですが、そこには一人のキリスト者の学生が牧師へ送った手紙があります。その中で次の言葉が目に留まりました。「・・・本夕はじめて支那 ( シナ )人の教会に入ってみました。祈祷会があるようなので町の中の視察の帰途ついでに立ち寄ったのです。中年の男女老人が集っていました。私は日本の耶蘇 ( ヤソ )教徒だといいましたら、とても嬉しそうな顔をしてこちらに日本語の聖書がありますとわざわざ出して来てくれました。支那語の聖書を珍しそうにながめていたからだと思います。すぐ帰ったのですが、帰り際に老人が出埃及記 ( しゅつエジプトき )をくれようとしました。嬉しいことでした。町の中を歩いて帰りながら、廃跡のこの部落ではありますが、今私の心の中には信仰者の喜びが溢れていることを自覚致しました。 教会のことを思って御恵みを祈っています。皆様に宜しく。主にありて 栄光生」
  信仰を通して中国人と日本人の壁を越えたほんのひと時の出会いが、廃跡の部落に光が差し込むような喜びとなっています。それだからこそ、その顔が見えた関係を破壊する戦争にはお互いに一層心を痛めたはずです。
  戦争は分断の極致であり、十戒のすべてを破ることだとも言われます。それなのに無くなるどころか、どんどんと火がつけられていくのは、「戦争もほかの道徳と同様、あるいはひそやかに人間の生活に忍び入り、あるいは善を装って腰を据える」(エラスムス『戦争は体験しない者にこそ快し』)からです。これは何も戦争に限ったことではなく、小さなけんかの火種にも言えることでしょう。自分の善に捕らえられ自己批判できなくなるのです。外からの声を聴かなくなる。聴けなくなる。当然対話も生まれません。「人の心は何にもまして、とらえ難く病んでいる」(エレミヤ179)。だからこそ誰しもが自分の心から解放される権威ある赦しの言葉を必要としているのです。「主よ、あなたがいやしてくださるならわたしはいやされます。あなたが救ってくださるならわたしは救われます。あなたをこそ、わたしはたたえます」(同14節)。

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