WJCC支援会

ワシントン日本人教会と片岡先生を支援する会です。

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〈今日の御言葉〉         (新約聖書82頁:新共同訳)
 
◆イエス、三度自分の死と復活を予告する
10:32 一行がエルサレムへ上って行く途中、イエスは先頭に立って進んで行かれた。それを見て、弟子たちは驚き、従う者たちは恐れた。イエスは再び十二人を呼び寄せて、自分の身に起ころうとしていることを話し始められた。
 10:33 「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して異邦人に引き渡す。
 10:34  異邦人は人の子を侮辱し、唾をかけ、鞭打ったうえで殺す。そして、人の子は三日の後に復活する。」

  カイルくんが主の御もとに呼び寄せられたことを想い、上の御言葉を何度も読み返しています。
「一行が」という言葉に、彼だけでなく、ともに歩む家族、友だち、教会の仲間たちが見えてくる思いがします。一行は同じ目的地を歩んでいる。その中で足が速い人や遅い人、疲れている人や元気が有り余っている人がいる。ともに歩んでいたかと思うと、一人だけが先にもうたどり着いてしまったかのような、そうしたペースの違いも見えてきます。
けれども誰よりも先にたどり着いているお方が、この一行を導かれていることを同時に思わされます。そしてそのお方との距離が縮まるほど、「自分の身に起ころうとしていること」の目的地が魂全体でわかってくるのかもしれません。それはイエス様と同じ道でありながら、同じ死ではなかった。神への道を歩みつつ、呪いの死という大きな穴は、主イエスの十字架によってもうふさがれていた、という場所です。
だからこそ、ハイデルベルク信仰問答でもその問42において、次のような率直な問いに一言で力強く答えてしまっているのだと思います。

        42 キリストがわたしたちのために死んでくださったのなら、

どうしてわたしたちも死ななければならないのですか。

         答  私たちの死は、自分の罪に対する償いなのではなく、

            むしろ罪との死別であり、永遠の命への入り口なのです。

大きな仕事をなしとげて、永遠の命への入り口を通ったカイルくんは、のびのびとした場所を与えられて何をしてイエス様と遊んでいるのかな、とも想像いたします。本当に彼の姿を通して多くの神様の命の種がまかれたことを覚えます。私もその種がまかれた一人であることに感謝しています。その種が芽を出し、実を結ぶには、時間がかかるのかもしれません。とりわけご家族には、その主の時がどうしても必要です。どうかまた続けてお祈りください。

わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである。

マルコによる福音書940

  先週の月曜日にワシントンインターナショナル日本語教会の西郷先生ご夫妻と昼食のお交わりの時を持ちました。多方面にわたる精力的な活動をされ続けているだけあって、とても今月末に引退される先生とは思えない姿が印象的でした。私が徳島にいた時も、特に神父・牧師同士では超教派の交わりがあったので、何か懐かしさを感じつつ元気をいただいたひと時でした。
ほとんどどの日本語・日本人教会が「超教派」ということを掲げて歩んでいますが、やはりその牧師や集う一人一人の背景がその教会に反映されているのも事実です。それはキリストの体と言われる教会に与えられた豊かさです。その体がばらばらになってしまわないためにも、対話というのがいかに大切かを思わされます。
今日の御言葉の新共同訳聖書では小見出しに「逆らわない者は味方」とつけられていますが、岩波書店から出されている翻訳聖書では、「他派の悪霊払い」とつけられています。ちょうど先日の韓国語教会で開かれたミッションフォーラムや、西郷先生ご夫妻との交わりがあったので、聖書本文の前に目に留まってしまいました。しかし、「他派」というとキリスト教の他教派という意味合いが強いですが、ここではもっと広い意味で捉えてもよいだろうと思います。伝統的にはこの箇所は、「よそ者(outsider)の奇跡行為者」と呼ばれてきたためです。つまりキリスト教会の枠からも外れて目を向けて見つめるべき仲間がいるということです。
ちょうど先日読んでいたある書物が、ボンヘッファー(ナチス・ドイツの時代に生きたルター派牧師)とキング(公民権運動を率いたバプテスト派牧師)の共通するものを語っていたのですが、その二人に共通していたのは、ガンジー(非暴力・不服従によって社会正義を実践したヒンドゥー教徒)への強い憧れと尊敬でした。キング牧師は、「イエスは私にメッセージを下さった。それに対しガンジーは私に方法を教えてくれた」と有名な言葉を残しています。そしてこの三者に共通していたのが、山上の説教(とくに「汝の敵を愛せよ」)にみられるイエスを強く慕っていたことでした。
ガンジーは次の言葉を残しています。(マタイ5:43-45を見て)「私は思った、これは人が幼い頃学ぶことだ。確かにこれはキリスト教ではない。私が知って理解していたことと言えば、キリスト者であることは、片手にブランデーの瓶を持ちもう一方の手には牛肉を持つ、ということばかりであったからだ。しかし、山上の説教はこのイメージを変えた。・・・私は、山上の説教はキリスト者としての生を生きたいと望む人にとって、キリスト教のすべてを表している、と思った。山上の説教を通じてイエスは私にとって慕わしい者となった」。
昨日は、子浦兄とともにハノーヴァーにあるフィリピ教会(Church of Philippi)教会で行われたCONNECT2018という宣教大会(Mission Forum)に参加してきました。賛美で始まり、同教会のデイヴィッド牧師の挨拶、パキスタンとアフガニスタンで28年間宣教活動をされていたパトリック先生のスピーチ、それぞれの教会の短いプレゼンテーション、そして最後に二人一組で祈り合うという流れの集会でした。お昼からは、各国の教会が提供している料理を5ドルのチケットと交換という形で、昼食と交わりを楽しみました。
  インド、ヒスパニック、イラン、パキスタン、ネパール、ケニア、アラビック、韓国、日本、多民族教会と多様な教会が集まって共に同じ主を見上げていることを確認できただけでも大きな恵みでした。
  ここで少し分かち合ってくださったインドのサムエル牧師の宣教の状況もそうですが、中東のキリスト教に対する制約と厳しい現実をも分かち合って、ぜひ祈ってください、と訴えられた牧師たちの姿は印象的でした。パトリック先生の冊子でも、またスピーチでも少し分かち合われていましたが、そうした中に入って宣教しているといわゆるメディアからくるステレオタイプのキリスト教のイメージがあり、そこからいかに信頼を取り戻すかに時間がかかることの話も興味深いものでした。そのイメージとは、キリスト教に改宗すると夜遊びをしたり、ドラッグに溺れたりというもので、欧米(の映画)=キリスト教と見られてしまう現状です。
  一人一人の言葉の中で(全部は聞き取れませんでしたが・・・)共通して見えたのは、いかにキリストの愛が人を通して現れ出ているかを問われていることでした。主イエス・キリストに従うことに徹底することです。それは何か歯を食いしばるのではなく、本当の喜びであることをその証が物語っていました。

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