WJCC支援会

ワシントン日本人教会と片岡先生を支援する会です。

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上原先生時代より長く続けてきたこのブログは、yahooブログ終了に伴い閉鎖いたします。今後はWJCCのサイトをぜひご覧ください。


よろしくお願いします。

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先週に続けて上の御言葉から「愛する」ということを思い巡らす時に、いつも思い出す言葉があります。神学生の時の最初の年に私が毎週派遣されていた教会の牧師であり恩師が、その一年の最後の日にくださった本(『共同体――ゆるしと祭りの場』)に記されていた次の言葉です。
「愛するとは、弱く、傷つきやすくなることである」
ジャン・バニエというフランスのトロリー・ブリュール村にあるラルシュ共同体の創設者の言葉でした。知的ハンディを負った人々との共同生活の経験の中から手作業で紡ぎだされた言葉がそこにはおさめられていました。
私は「愛する」というのは、「強くなる」または揺るがない意志だと思っていたので、この言葉には驚きと同時に、解放された思いが与えられたことを思い出します。
この本には例えば、「理想的な共同体は存在しない。共同体は、人々の豊かさと同時に弱さ、貧しさから成り、互いに受け入れ、ゆるし合う人々によって成り立つ。完全さ、献身よりも謙遜と信頼が共同生活の基なのである。・・・」など、共同体について様々な角度から、しかし同時に一つのことを目指しているような言葉がつづられています。
ちょうど私自身もその年の夏に教会の子どもたちのキャンプの奉仕で、重度の自閉症と診断されていた子と一緒に過ごしたことが大きな出来事として胸に刻まれていた時でした。その子の純真さに癒される思いが与えられたこととそれに反するように共に生きることの難しさ、自分の愛の乏しさにも気づかされた時でした。
思えば上の御言葉を語られた主イエスは、これから十字架の上で徹底的に打ちのめされるお方でした。強い姿とは言い難い。きれいな姿でもない。しかしそこにおいて語られた愛が実現し始めたことを私たちは見るのです。

今週土曜日に、『Reach theUnreached 』と題して、D.Cエリアの様々な国の人たちへの宣教・伝道のための学びの時が、留学生伝道をしているInternational Student INC主催のもと、第四長老教会(FourthPresbyterian Church)で行われます。その一コマをお願いしてくれないか、ということで私も担当することになりました。

  私自身まだこちらに来て一年過ぎたばかりの者で、どこまで語りえるかというのは甚だ疑問でしたが、その長老教会に通われている日本人の方、宣教師の娘として長野で35年過ごされた方を紹介していただき、協力しつつ安心して参加できるように神様が備えてくださいました。主の御業は不思議で恵みに満ちています。
  その準備の一つの材料として、先日『日本人とアイデンティティ』(河合隼雄)という小さな書物を読んでいました。いかに場の平衡状態を壊さないように、うまく間接的に表現してゆくかという「場の倫理」が一般的傾向として日本的であるというのは、有名なのかもしれません。そのことを著者が踏まえた中で、次の言葉が目に留まりました。「『場の倫理』は、ある程度の貧しさのなかでのほうが体験されやすく、機能しやすい。しかし、そのなかで本当に体験されるべき「倫理」が明確に把握されていないと・・・ものが豊かになったときに機能しがたくなってくるのである」。
  本当に体験されるべき「倫理」とは何だろう、と思いました。単なる知識ではないことは明らかです。上の御言葉に照らし合わせるならば、「論語読みの論語知らず」のような、サドカイ派の人々の「聖書読みの聖書知らず」とならないように、と自戒させられます。もちろん、聖書は単なる倫理の書物ではありません。体験されるべき、人では満たされない神の救いが啓示されています。それゆえに救いを体験する人間の倫理は根源的に喜びです。そして罪人にのぞんだ神の愛がそれを貫徹させます。その御手に今週も私たちを明け渡しましょう。
家を建てる者の捨てた石、 これが隅の親石となった。
これは、主がなさったことで、 わたしたちの目には不思議に見える。
主イエスがたとえの中で御自身を指して、詩編1182223節を引用された言葉です。新共同訳聖書ではその詩編を開くと「・・・わたしたちの目には驚くべきこと」と訳されています。
人がふつう捨ててしまうような、役に立たない石が、家を支える礎石となる。日本の木造家屋で言うなら、大黒柱です。
先日、ふとサン=テグジュペリの『星の王子さま』を読み返していました。キツネと出会った王子さまがその別れ際に言われた言葉は、有名かもしれません。
「じゃあ秘密を教えるよ。とてもかんたんなことだ。ものごとはね、心で見なくてはよく見えない。いちばん、たいせつなことは、目に見えない」・・・「人間たちは、こういう真理を忘れてしまった」キツネは言った。「でも、きみは忘れちゃいけない。きみは、なつかせたもの、絆をむすんだものには、永遠に責任を持つんだ。きみは、きみのバラに、責任がある・・・・」                          (河野万里子 訳)
この「永遠に責任持つ」ということを心の中で繰り返しながら、「私が」捨てた石ころを思い起こします。
 カイルくんが主の御もとに呼び寄せられたことを想い、上の御言葉を何度も読み返しています。
「一行が」という言葉に、彼だけでなく、ともに歩む家族、友だち、教会の仲間たちが見えてくる思いがします。一行は同じ目的地を歩んでいる。その中で足が速い人や遅い人、疲れている人や元気が有り余っている人がいる。ともに歩んでいたかと思うと、一人だけが先にもうたどり着いてしまったかのような、そうしたペースの違いも見えてきます。
けれども誰よりも先にたどり着いているお方が、この一行を導かれていることを同時に思わされます。そしてそのお方との距離が縮まるほど、「自分の身に起ころうとしていること」の目的地が魂全体でわかってくるのかもしれません。それはイエス様と同じ道でありながら、同じ死ではなかった。神への道を歩みつつ、呪いの死という大きな穴は、主イエスの十字架によってもうふさがれていた、という場所です。
だからこそ、ハイデルベルク信仰問答でもその問42において、次のような率直な問いに一言で力強く答えてしまっているのだと思います。

        42 キリストがわたしたちのために死んでくださったのなら、

どうしてわたしたちも死ななければならないのですか。

         答  私たちの死は、自分の罪に対する償いなのではなく、

            むしろ罪との死別であり、永遠の命への入り口なのです。

大きな仕事をなしとげて、永遠の命への入り口を通ったカイルくんは、のびのびとした場所を与えられて何をしてイエス様と遊んでいるのかな、とも想像いたします。本当に彼の姿を通して多くの神様の命の種がまかれたことを覚えます。私もその種がまかれた一人であることに感謝しています。その種が芽を出し、実を結ぶには、時間がかかるのかもしれません。とりわけご家族には、その主の時がどうしても必要です。どうかまた続けてお祈りください。

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