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ここ数日、集中して本を読んでいる。
こんなにも自分の体が「本を読む」という行為に飢えていたのか
と気づかされた。
砂漠の砂が水を吸い込むがごとく
スルスルっと文が、言葉が、文字が
頭に入ってくる。
かなりの飢餓状態にあったようだ。
リバウンドかもしれない。
職業柄、本は日常的に読んではいる。
しかし自分にとっての「本を読む」とは
「真に求めるべき本(小説)を読む」ということだ。
僕にとって本とはエンターテインメントだ。
そこには自己啓発とか学びとか、そういった欺瞞的虚栄心はない。
だから評論や学術書、啓発本などは必要のない限り絶対読まない。
(むろん、そこにはそこなりの良さみたいなものはあるのだけれど)
ただ楽しいから、読みたいから読む。
それが僕にとっての本たり得る。
それ以外は「活字を目で追っている」ぐらいのものだ。
楽しいことは我慢しちゃダメだ。
時としてドップリと体に浸らせないといけない。
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小説・マンガの話
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僕は本が好きだ。
とても好きだ、といっていいと思う。
しかしどんな本でも好きか、というとそうではない。
ビートルズの偉大な点は唯一つ、
「音楽好きでない」「ロック好きでない」人々にも愛された点だと思う。
極めて限定的な嗜好の殻を保ちつつ、マスに訴えかけ受け入れられた希有の存在。
村上春樹氏の本も、僕の中ではそういう位置づけとなる。
しかしその内容をどれだけ理解できるかということになると
そこには「極めて限定的な嗜好」に基づいた多義的思考が必要となる。
つまり、一面的かつ明瞭で論理明快な理解を初めから必要としない姿勢が求められるのだ。
そしてその点にこそまさに彼の小説の最大の美点がある。
多くの人が「感性」という言葉を用いる。
しかし彼の小説にそのような排他的精神は不要だ。
(むろんビートルズにも)
全ての物事に理由や成り立ちが必要ではない。
そんなこと、現実世界で生きていればむしろ自明の理ではないか。
しかし小説にはそれを求める。
それでは「作品を通しての人間理解」という、小説を読むことにおけるもっとも心躍る関わりが
それがもたらす効果とともに失われてしまうように思う。
「分かりづらい」「理解できない」ものを読み解く(感じ解く)。
これこそが読者に求められる唯一の姿勢だと考える。
作者の「産みの苦しみ」に敬意を払うならば。
敬愛するミュージシャン、浅井健一氏 的 物言いをすれば
言葉に意味なんかない。ただ出てきただけだ。
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なぜ今頃?と自分でも思うが、book1を読んでいる。
書店で購入した当時は色々な事情で、どうしても読むことができなかったのだ。
いや、この本をというより、「本を読む」という行為自体ができなかった。
それは他人から見ればどうということもないのだけれど、
僕の中では譲れない非常に大きな「座席」を占めているものであった。
そういった諸々の事情(多くは極めて個人的で精神的なものであるけれど)が
クリアになった今、こうしてこの本と向き合っている。
本を読むというのはなかなかエネルギーを消費する行為であり
「早くページを繰り、次に進みたい」という欲求と
「今このページの内容を余すことなくつかみたい」という欲求の鬩ぎ合いだ。
まだほんの数十ページ。
体に本を読むという行為を一つ一つ確認させている段階だ。
日々の生活の中で何でも適度にバランスよくこなすことに慣れた僕の体には
「読む」という行為にすら目的を求めてくる。
僕は本を読むとき、必ずその本のBGMを決める。
その音楽(たいていは一枚のアルバムをエンドレスにかけ続ける)を聴きながら、本を読むのだ。
今回はパールジャムのベスト盤。
なぜパールジャムのベスト盤を選んだのか、それは自分でもわからない。
おそらく誰にもわからないだろう。
いやひょっとしたら自宅に帰る客を待っている代行運転業のアルバイト学生ならわかるのかもしれない。
「1Q84のbook1に合うのはなんといってもパールジャムのベスト盤ですよ」といった具合に。
そもそも村上春樹の小説にいったいどの音楽が合うのかなど、誰にわかるというのだろう。
村上春樹本人にだってわからないはずだ。
それに今回は選べる範囲にBGMとして適当なものがパールジャムしかなかったのだ。
……これもまだ体がうまく反応していない証拠だ。
なにはともあれ、ひさしぶりの「読む」行為に頭を浸したいと思う。
そして僕の体は思考と精神の闇の海へと下りていく。
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小山ゆうの作品。
大富豪の後継者という地位を捨て
100m走に全てをかけた主人公。
「神の領域」と呼ばれた100m9秒台の記録。
今となってはバンバン樹立。
ただしボルトは本当の神かもしれない。
自らの肉体一つで世界を感動させるというのは
競技スポーツの原点である。
そういう意味で言うなら
速く走るというのは、そのもっとも純粋なものであろう。
子供の頃、とてもワクワクしたマンガだったなぁ。
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僕がこの小説を読んだのは
おそらくみなさんがそうであったように
高校の現国の教科書でだった。
一通りの授業が終わった後、教師は感想文の提出を求めた。
僕はそれまでの授業によるところの
「李徴は自尊心と羞恥心から虎になった」
「自らの尊大さに辟易しながら、それを変えるだけの度量も持たず
人生に失望した」
などとする解説にどうにも納得がいかなかった。
なぜなら、虎として生活を送る李徴に共感こそすれ
同情や哀れみなど感じなかったからだ。
もちろん、中島 敦の文章からは教師が解説したとおりのことが読みとれた。
それでも僕は
「李徴が自らすすんで虎になったのではないか」
という思いを消せなかった。
今でも印象に残っている最後の場面。
友人に数編の詩と妻子の世話を託し、
自らの醜い心の現れたる虎の姿を見せまいと
咆哮一つ、消えゆく李徴。
そこに僕は限りない自由の匂いをかぎ取った。
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