みんな生きているんだなぁ。

もう少し、自分勝手に生きてもいいかも。

人間関係

[ リスト | 詳細 ]

記事検索
検索

全3ページ

[1] [2] [3]

[ 次のページ ]

評価基準を下げる

 友達がいない、親友がいないという方の中には
 友だちとはこういうものだという基準を持って物事を判断している人もいます。
 たとえば、親友とは
 「自分が困ったときに助けてくれて、自分の気持ちをよく分ってくれて
  どんな相談でも一緒になって悩んでくれる人。
  自分の考えと同じで、価値観も同じ人。
  自分のことを大事にしてくれ、大切に扱ってくれる人。」だそうです。
 極端に言ってしまえば、自分の召使のように自分に忠実な人。
 でも、そんな人いるのかな?
 自分だって、自分のことよく分らないでいるのに。
 ただ、本人はその要求が高すぎるとは思っていないらしい。
 自分は友人に恵まれていないと信じている。

 たぶん、結婚しても配偶者とはこうあるべきだと要求し続ける。

 一方で、近所の子供とも友だちだし
 野良猫や犬だって友だちだし
 花や木だって自分の友だちなんだと言う方もいる。
 友だちとはこういうものだと定義している人からは否定されるかもしれないけれど。

 でも、どちらが幸せを感じて生きているかは明白だよね。

 どうせ考えるなら、自分が楽しくなれるように、幸福を感じるように
 考えた方が得だと思うのだけれど。

 相手に対して評価の基準が高い、要求が高い人は
 自分に対しても要求が高いことが多いように思う。
 だから、
 自分のことOKと思えない。
 まだまだ足りない部分が多い、だめな部分が多いと
 自己評価は低くなる。
 人に迷惑かけずに生きているのだから、それだけでもたいしたものだと
 そんな風には思えないのだろうね。

 他人から評価されているにもかかわらず
 自分の評価基準が高いので、
 その程度の評価では満足しない。
 だから、「自分は認められていない」と感じてしまう。

 先日、ある雑誌の記事で
 「悩みとは、負の感情に支配されている状態」であるという言葉を見つけた。
 悩んでいるときは、いろいろ考えている気になっているけれど
 実は否定的な感情に翻弄されているだけで、思考は働いていない。
 なるほどなと思った。
 悩んでいるときは、感情に囚われているんだと気づくこと。
 感情的になっているんだと、気づくこと。
 そのうえで、冷静になってきちんと考えを整理してみる。
 そうすれば、いかに自分の考えが偏っていたか、
 非論理的な思い込みに縛られていたかが見えてくる。

深読みしないこと

 気を使っているのに、それが相手に伝わらない。
 気を使っているのに、人間関係がうまく行かない。
 それって、気を使っているというより
 相手の気持ちを深読みしているからではないでしょうか?

 私が学生のとき、部活で合宿をしたのですが
 朝の起床当番に指名した男の子が
 時間通りに皆を起こさなかったことがあります。
 「なぜ、起こさなかったんだ」と問いただすと
 「起こそうと思って、部屋を回ったんですが、
  みんなの気持ちよさそうな寝顔を見ていると
  起こしたら気の毒かと思って・・・」

 笑い話のようですが、本人は気を使っているつもりです。

 仕事のことで説明したときも
 「分らないことはないか?」と聞いたとき
 よく分らない部分があるにもかかわらず
 「こんなこと聞いたらわるいかな」と聞かない。
 そういう人も多いと思います。
 でも、それが「こんなことを聞いたら恥ずかしい。笑われる。」
 そういう気持ちが自分にあるからだと
 本人が自覚している場合はいいのですが
 中には、本気で聞いたら相手に悪いと思っている人がいる。
 自分では相手に気を使っているから聞かないのだと
 そう信じている人がいる。
 このような人が一番ややこしいのです。
 自分では、相手に気を使っているつもりでも
 相手は気を使われたとも思わないし
 気を使ったのだと分っても感謝の気持ちもわきません。
 でも、本人は相手に気を使っていると思っている。
 それなのに、相手には伝わらない。
 どうして、こんなに相手に気を使っているのにうまく行かないのかと悩む。

 大体、深読みしてもそれが当たっていることは少ないのです。
 だから、話がかみ合わない。
 どうして、かみ合わないかとよくよく話してみると
 「だって、あなたが私のことを嫌っているから。」とか
 「私のことを馬鹿にしているから。」とか
 「あなたに迷惑だと思って。」とか
 「こんなこと言ったら、気分を悪くするかと思って。」とか。
 まるっきり私の思っていることと違うことで気を使っている。

 簡単に言ってしまうと、偏見なんです。
 気を使っているのでなくて、偏見。
 自分の側からしか相手を見ていない。
 自分の価値観でしか相手を見ていない。
 だから、気を使っても相手には伝わらないのです。

 相手に気を使うということは、相手をよく見て
 相手の立場や価値観を考えて
 相手を思いやることです。

 自分の立場を守ろうとして
 自分の価値観や自分の感じ方で
 相手に気兼ねすることは、思いやりではないのです。

 だから、そういう人は相手に気を使っているのではなくて
 自分が傷つかないように自分を守ろうとしているだけなのです。
 そのことをまず自覚することです。
 その自覚がないと、自分でも相手に気を使っていると信じてしまう。
 そして、こんなに気を使っているのにうまく行かないと
 おかしな悩み方をするのです。

 相手に気を使っているわけではないのですから
 うまく人間関係が保てなくても当たり前なのです。

価値観の違い

 あるおばあさんの話です。
 おばあさんは、年老いてから老人ホームにお世話になったのですが
 夜になると、「こんなことをしていてはいられない」と、家に帰ろうとするのです。
 家に帰って何をするのかと尋ねると、「田んぼの草を刈らなければならない」と答える。
 このおばあさんは、農家にとついできた方なのですが
 何も働かずに、飯を食って寝てばかりいたのでは、世間の人に何を言われるかわからない。
 その不安が夜になると現れるらしい。
 
 私が会社に勤めた頃、
 私が仕事のことで不満を述べると、上司はよく言ったものです。
 「それは、甘えだ。それでは社会で勤まらない」
 その上司は、休みの日もサービスで仕事に出てきていたのですが
 「残業申請すればいいのに」と、私が申しますと
 「会社にお世話になっているんだから、このくらいサービスしないと申し訳ない」と言っていました。
 私は、「何もしなくて給料を貰っているのなら、会社に恩を感じるのもわかるけれど
 きちんと働いた対価として、給料を貰っているのだから、働いた分は請求するべきだ」と
 そう言ったのですが、「そういうもんじゃない」と、答えたように記憶しています。
 
 も、私が働きに出た頃、
 「嫌なことがあっても、文句を言わずに我慢して働け。
 そうすれば、必ずその姿を上の人が見ていてくれる。
 上の人間が、きちんと評価してくれる」と、私に話をしました。
 
 そうやって、上からの指示が理不尽だと思っても我慢して耐えていれば
 もしかしたら、いずれ報われることもあるかもしれない。
 でも、それは終身雇用の時代の話。
 滅私奉公なんて価値観は、今の時代に合わないのではないか。
 少なくとも、今の若い人はそんな考え方をしないのではないかと思っていたら、
 「仕方ないですよ。会社に食べさせてもらっているんですから。
 我慢しなくちゃね」と、若い子に言われて驚いた。
 私の考えのほうが変なのかなと、思った。
 
 自分が我慢しているのは、家族を養うためだと思っている人もいる。
 家族がいなかったら、とっくに会社を辞めている。
 それでも、家族のためを思って、嫌なことでもはい、はいと引き受けてきたんだ。
 口の悪い奥さんだったら
 「だれも、我慢して欲しいなんていわなかった。」なんて言うんだろうな。
 
 誰もが、自分の生きてきた環境や、育ってきた環境に対応しようとして
 自分なりの価値観を作り上げているんだろうと思う。
 どういう価値観を支えにして生きるかは、その人の性格や歴史によるのだとは思うけれど
 その人にとって、その価値観は必要なものだったんだろうなと思う。
 
 だれしも、自分の価値観が正しいと思うから
 相手の価値観の誤りを探し出すのは容易なんだけれど
 自分から見れば誤った価値観と見えても、それが相手にとっては生きる支えである場合もある。
 相手の価値観を否定することは、相手の生きてきた歴史を否定することになりかねない
 
 最近、そんな風に思うことがある。
 
 だから、自分の価値観では「会社に自分の人生の責任を負わせるのはおかしい」とか
 「世間体ばかり気にしすぎている」なんて、相手の価値観を否定できるのだけれど
 自分の価値観からすればおかしいと思える価値観であっても、
 相手はそれを支えにして、つらさを乗り越えてきたんだなと思うと、何も言えない。
 それに、自分の価値観だって、相手からすればおかしいものだと感じるだろうしね。
 
 私に出来ることは、相手の価値観を理解すること。
 納得できなくても、尊重すること。
 それが、相手の今までの人生を尊重することにつながると思うから。
 
 
 

自己主張

 先日読んだ本の中に、面白いエピソードがありました。

 子供がバスの中で、あっちへ行ったりこっちへ来たりと落ち着かないのを見て
 腹を立てた母親が「じっとしていないと、運転手さんに怒られるよ」と、叱りました。
 それを聞いた運転手が、
 「私は怒りませんよ。お母さん、だからあなたがきちんと話してください」
 そう、車内放送で言ったそうです。

 今は、あまり使わないかもしれませんが、
 「そんなことしていると、世間に笑われる」とか、
 「みんなが、どう思うだろうね」
 「おとうさんに、怒られるよ」
 「先生に、叱られるよ」と、自分の言いたいことを他人の責任にする。
 そういう言い方は、私はあまり好きではありません。

 好きではないのですが、そういう風な言い方をするのは
 たぶん、自己主張をすることがうまく出来ないからなんだろうなと思います。

 人の意見にすりかえて、間接的に自分の意見を言うことはないのですが
 私も、自己主張がよく出来ているとは思いません。

 なぜなのかなと、考えるに、「拒否されたくない」「嫌われたくない」
 「反論されたらどうしよう」と、いう気持ちがあるのかもしれません。

 自己主張の仕方として、アサーティブネスという方法があるのですが、
 それは、「あなたは〜」で、話し始めると、
 どうしても、相手を攻撃してしまう。
 だから、「わたしは〜」で、自分の気持ちを伝えようということ。
 慣れてくればいいのでしょうが、
 日本語は、主語を省略した言葉が多くて
 普段の会話でも、「わたしは〜」という言い方をしていないため
 なんとなく、ぎこちなくなりそうに思うのですが・・・

 感情的にならず、理性的に自分の主張を相手に伝える。

 そのためには、私は「相手と交渉する」という気持ちで
 自分の意見を言うようにしている。
 交渉だと思えば、自分の要求も伝えやすいし
 反論されても、それも交渉の駆け引きだから
 そのことを持って、相手に嫌われた、拒否されたという気持ちにはならない。
 たとえ、自分の要求が通らなくても
 それは、交渉がうまく行かなかっただけで
 自分の意見が間違っていたとか、気持ちが伝わらなかったとか
 そういうことよりも、交渉の仕方が悪かったかなと、考える。
 次は、違う角度から交渉してみようかなという気にもなる。
 だから、一度言って拒否されて、
 自分のことを相手はわかってくれないんだと
 そんな風に考えることもない。

 私の方法が、他の人に役立つかどうかはわからないけれど、
 相手との話し合いを「交渉」」と捉えるようになってから、
 自分の意見が言いやすくなった気がする。

人に期待しないこと

 自己主張が出来ないのはなぜだろう。
 どうして、自分の意見を言わないのだろう。
 こんなこと言ったら笑われるとか、恥ずかしいとか思うのかな?

 私も、中学生のときは「自分は八方美人」ではないかと悩んだ。

 「相手に嫌われることが怖いのか?」
 「反論されるのが怖いのか?」
 「相手を傷つけるのが怖いのか?」
 「自己主張することの何を恐れているんだ」と、自分を責めていたように思う。

 他人の視線が怖かったのだと思う。

 「そんなに相手によく思われたいのか」と、自分を責めていたように思う。

 特別なきっかけはなかったのだが、いつの間にか、
 自分の意見を言うことに抵抗がなくなった。
 それに、自己主張してみると自分が心配していたような大変な事態には
 なったことがない。

 今となっては、何が怖かったのかよくわからない。

 わからないけれども、多分、相手に期待しなくなったからだと思う。

 自意識過剰だったのかもしれない。

 自意識過剰というのは、相手はこう思うだろうと勝手に決め付けること。
 つまり、相手に期待することではないだろうか。

 こんなこと言ったら、相手は気分を悪くする。
 相手は、自分を嫌いになる。
 相手は、怒り出す。
 そうやって、勝手に決め付ける。
 それは、相手に気分を悪くすること、自分を嫌うこと、怒ることを期待しているとはいえないか。
 それで、相手の気持ちを勝手に決め付けて、言いたいことも言わずに我慢して
 ついに、我慢しきれなくなって覚悟を決めて怒りをぶつける。
 そのときも、自分はこんなに我慢していたのだから、
 この怒りを相手はわかってくれるはずだと、期待していないだろうか。

 自分が我慢しようが、気を使おうが、
 それを相手に暗黙のうちに察しろというほうがおかしい。
 相手は、超能力者でもなく、自分のことを常に思いやって生きてるわけでもないのだから
 自分の気持ちを言葉にしなくてもわかってくれると期待するのは無理というものだ。

 相手に期待しなくなってから、自分のしてもらいたいことは自分で言うようになったし
 変に相手の気持ちを先回りして決めることもなくなった。

 人は人、自分は自分という割り切り方が出来るようになった。

 それは何がきっかけだったのかなと、考えていたんだけれど
 たぶん、高校が男子校だったからかもしれないと思う。
 もちろん、男子校のすべてが私の高校と同じとは思わない。
 わたしのいた高校は、少し特殊だった。
 私の卒業後すぐに、共学になって規則も厳しくなったらしいけれど。

 とにかく、思春期に異性がいなかったということは
 変にかっこつけなくてもよかった。
 だらしなければ、だらしない自分のままで過ごせた。
 制服もなかった。

 クラスの中も、よい意味でばらばらで好き勝手していた。
 担任も、新米で誰も頼りにしていないくらい頼りなかった。
 授業も、嫌になると勝手に帰ってしまったり、部室にこもったりする人もいた。
 学校も、来たり来なかったり、来ても昼からだったり。

 今風に言えば、フリースクールみたいだった。
 でも、それを誰も干渉しなかった。
 来たくないやつは勝手にすればいいみたいな雰囲気で、
 無理にクラスをまとめようとする人もいなかった。
 人のするこことに、いちいち干渉しないから、いじめもなかった。

 無理にまとまろうとかしないから、友達が欲しければ自分から働きかけるしかなかったし、
 一人でいたい人は、一日中一人で本を読んだりしていた。
 授業のときだけ席にいて、あとは、部室にばかり行っている人もいた。
 その人は、クラスの中には友達が出来なかったけれど
 クラブの中には気の合う友達が出来た。
 担任が頼りないから、自分でみんな決めるしかなかった。
 それが、返って良かったのかな。

 いまでは、立派な進学校になって
 まじめに授業を受けない人は留年もあるらしいけれど。

 誰にも、依存したり期待できなかったことで
 かえって、自分で何とかするしかないと思えるようになったのかもしれない。

全3ページ

[1] [2] [3]

[ 次のページ ]


.
あすなろ
あすなろ
男性 / A型
人気度
Yahoo!ブログヘルプ - ブログ人気度について
友だち(9)
  • はなびら
  • rocoroco
  • おぼろ月夜
  • MAKI
  • チコ
  • ★
友だち一覧

過去の記事一覧

スマートフォンで見る

モバイル版Yahoo!ブログにアクセス!

スマートフォン版Yahoo!ブログにアクセス!

1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30

よしもとブログランキング

もっと見る

[PR]お得情報

ふるさと納税サイト『さとふる』
実質2000円で特産品がお手元に
11/30までキャンペーン実施中!
話題の新商品が今だけもらえる!
ジュレームアミノ シュープリーム
プレゼントキャンペーン

その他のキャンペーン


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事