「人」の世

このブログは「心」を成長させていく人たちの話です

◇人の方向

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『私』という名前の心

我々は自分の事を『私』と表現しています。

その中でも 自分の体の事を『私』だと思っています。

生きている間、体を中心にして生きているため

体が健康であれば『私は』元気だ!と思うし、

体が死んだら 自分も死ぬ事だと一緒に考えています。


体を中心に生きて行く以上、

体が終わると自分の一生も終わるのが当然な事です。


物に置いてもその物の中心が壊れてしまえば、

その物の価値がなくなることを見ても、

自然と共に去っていく体に生きる中心を置いたとしたら、

体と運命を共にするしかありません。


しかし、人は心を中心に生きるべき存在です。

体は『私の体』で有って、『私』その者ではありません。

人の中心は『心』です。

私の中心は心ですから、

『私』と言うと 正に『心』だという事です。(私=心)

自ら心を成長させ、その心を中心に生きて行くのです。



心の私は体が有っても私であり、

体が無くなっても私と言う事です。


自然を超えた人の心は自然の流れとは何の関係もありません。


体の助けで成長した心は、

体とお別れになったとしても心でいます。

ただ、『私』としているのです。


この様な内容があって、

宗教では永遠に生きられる!との言葉が出たと思います。


自分が『人』だとしたら 心を中心に生きるべきです。

その心が有ってからこそ、自分『私』として存在するから…。

人は磁石の様に引っ張る力を持っています。

つまり、自分が持っている内容と同じ内容の事を引っ張るという事です。

もし、自分が肯定の内容を持っていたとしたら、

プラス的な内容が自分に来るのです。

その結果は自分の体と生活と環境にプラス的内容で現れます。


もし、否定的な内容を持っていたとしたら、

マイナス的な内容が自分に来ます。

この結果もやはり自分の体と、自分の生活と、環境にマイナス的内容で現れます。


肯定は 一から十まで全てが肯定でなければなりません。

良い方に考えて、自分自身を慰めながら、自分のみに使用する肯定ではなく、

目に見える全てに、対象となる全てに、使用できる肯定でなければなりません。

誰かを批判しながら、肯定的に生きているとは 言えないのです。

何かを否定しながら、肯定的な自分だと言えません。


あの人は何故そうなのか?とすると否定的な自分だという事です。

あれは違うのに…と思うのであればそれも否定的な自分です。

あのようにするのが間違っていると思うのであれば、

私はこの様にしなくては…との覚悟で自分の実践に繋いで行く人は肯定的な人です。

あのようにしてはいけないのに…と見ながら

批判より先ず、だったら私はどうするべきか!を考える事ができる人、

その様な人は肯定的な人です。


自分の中の何かを否定しながら、自分の中の誰かを否定しながら、

肯定的に生きていく事は矛盾です。


自分は肯定的な考えを持って、肯定的に生きていると思う人は

真にこれが正しい肯定なのか、結果的に現れる自分の体と自分の生活と、

自分の環境を確認する事です。

『人間』は過程の存在

人と人間は同じ意味だと思いました。

しかし、全く違いました。

文字が完全に違うのと同じように意味も完全に違うのでした。

人は人であって、人間は人間でした。

人と言う者に関しては次回にして、今日は人間に関して話す事にします。



人間は一言で言うと 人になるための存在だと見ています。

動物科に属する人間として生まれ、心を成長させ 人として成長して行く

段階の存在です。

漢字の「人間」という字を見ても人に成るまでの間にいる存在だという事を分かります。

韓国の神話の中で『タングン神話」によると熊と虎が人に成ろうとした話を見ても分かる事です。

人間として生きながら動物と同じ事をするのはこの様な意味でもつながっています。

しかし、実の事を言うと人間は動物より下にいます。

動物の下に居るしかないです。



人には考えと言う能力を持っています。

それは自分を人として成長させるために、心を成長させていくために持っている能力なのに

目的の心を成長させるために使わなく、目的と全く違う所に使い始めてから マイナス成長を

する様になったのです。

そうする事で動物達が持っている純粋性さえ持っていられないようになりました。

動物より下の人間について改めて言わなくても我々はとてもよく知っています。



色んな教育によって取り入れた知識でいつも自分を守りながら生きていく人達も居るけど、

人間なので経験するしかない事と、受けざるをえない事はどうしようもないのです。

事件や事故、病気、死をいつも恐れながら生きていくしかないのです。

心を成長させてない人間は自然の一部に過ぎない事がその理由です。

自分の意思とは関係なく押しかけてくる全てのマイナスをただ受けるしかないのです。



我々が生まれて来たのは 人間として生きるためではありません。

目的は『人』です。

人に生まれ変わって人として生きるためです。

自ら自分を人に作り出し、また自ら成長させながら 人として生きて行き、

それから 人だけがやるべき事が沢山あるからです。



人間として生きる以上、人だけが持てる全てを見ることも、知る事も出来ません。

人間として生まれそのまま人間として死ぬとしたら生まれた意味は何一つありません。

人が持つべき物、それがどんなものだったのかも知らないまま

この世を去るしかありません。



子供達が図工の時間に何かを作ったとしても完成出来なければ、結局何も作らなかったのと

同じ事です。

過程の存在と言うものはそのようなものです。

今まで歴史と言う時間の中でも 沢山の時間が流れてしまいましたが、

それが過程の時間だったならば ただのりすの篭の中の回るものに過ぎません。

それで歴史はいつも繰り返しが多いと言う言葉があるのでしょう。



これからは人間の歴史は終わりにしなくてはなりません。

これ以上人間の時間は必要ありません。

人間自身もこれ以上生きていくのが難しくなる反面、

自然の中の存在達もあまりにも人間による苦しみが大きかったからです。



これからの我々は 人間から『人』になるべきです。

人間の『間』の文字が抜けた ただの『人』になるべきです。

過程の存在ではなく、目的の存在になるべきです。

『時』

『時」には、 小さい時と 大きい時があります。


小さい時と言うのは 自分に必要な時、


人生に置いて 3回のチャンスがあると言う その時を言います。


大きい時と言うのはこの世に必要な時を言います。


この世の流れを変える時を言います。


小さい時を見る事も、


大きい時を見る事も、


常に覚めている意識であれば見る事が出来ます。


覚めている意識は


学ぶ姿勢と、学ぼうとする心で作られます。


自分に必要な時を見る事が出来、


自分の生き方を「人」としての生き方に成れるようにしなければならないし、


この「世」に必要になる時に気付き終了の流れではなく、


始まりの流れに自分を乗せられるようにすることです。


学ぼうとする心で


始まりを感じ、始まりを見せて、


始まりにふさわしい自分に作って行くことです。

人達が住む所はどこでもにぎやかです。

これだけは国家も、民族性の違いも無いようです。

他の国は暮らした事が無いのでよく分かりませんが、韓国と日本だけ見たところでは 同じように感じます。


何の話かと言うと 人間関係です。人と人との間でぶつかって起きる音。

真に“うるさい”と 思うほどです。

現実の世界でも、宗教の世界でも…

人達が集まる場所は当たり前の様に不協和音が聞こえて来ます。



この様な音がある所ではおかしい事に加害者が無いのです。

いつも被害者だけ…

お互いに傷を付けたり、付けられたり、

心の目と、心の爪は相手に向けて…

各自傷つけられた自分だけが残ります。



この様な状況を見る時一人の人だけの問題として見られますが、

少し視野を広くして見ると、頭を抱える社会問題を作りあげる事にも成ります。

引き篭り、うつ病、社会忌避症、ストレスなどが原因の色んな病気…



この問題は結局、人類に悪影響となって人類の発展を遅らせる役割をする事になります。

この様に、人達との関係の問題は一人の人生を含んでより大きい問題を生む始発点と

なります。


喧嘩ばかりした私もやはり 不協和音を起こす主人公の役割をうんざりするほど

やって来ました。(40年間)

そんな私が今は美しい和音を作り上げています。

相手の声と交じわったきれいな 自分の声を聞いています。

今の自分が大好きです。

誰とも調和ができる今の自分が大好きです。

これほど 気持ちが安らかになる事は無いでしょう。

どんな所でも 緊張感がありません。



ただ私は私なりに生きているのですが、自然と調和を成すのです。

私の中に拒否感が無いのです。

怖さも無いのです。

憎しみも無いのです。

ただ 私の生活だけがあるのです。



今の私を育てた言葉があります。

「ところで…私は?」


相手の間違いが見える時、

相手が理解できない言葉と行動をした時、

「ところで…私は?」

誰かから悪口を言われても、私は悪口を言ってないのに…と思うのではなく、

悪口を言われた時の傷ついた自分を思い出して、

考えずにしゃべた自分の言葉によって傷ついた人は居ないか、

自分で自分を見ることです。



自分を非難する文字や言葉を聞いた時にも、

誰一人非難した事無いのに…と思うのではなく、

相手の立場も知らずに自分が言いたい事だけ言ってしまった事で

苦しんでいる人は居ないか、

私の行動や文面などで誰かを傷つけてしまったことはないか、

その様な自分を見ることです。


私の目、心、考えで見える人達の全てを通して

それをチャンスにして自分を見ることです。

叩いたら 埃が出ない者は無いと思います。

埃の種類が違うだけで皆が持っている埃です。

ですからトラブルが起きた時をチャンスにして自分自身をよく覗き、

私の目に映っている相手の悪いところと同じ所は無いか、

それを通して自分の悪い所を直そうと言うのです。


それが自分自身を成長させる事です。

心を成長させて、精神を成長させてくれます。

一つ一つ脱皮するように成長しながら変わっていく自分を見ることは、

この世のどんな喜びや幸せと比較できません。

成長していく自分の子供を見る親の喜びにも比較できません。

内面的自分の成長の喜びは この世にある言葉では表現出来ません。



この様に生きても一回の人生、あのように生きても一回だけの人生であれば

お互いに傷つけて苦しみながら生きるのではなく、

トラブルがある時、自分を見ながら

自分を成長させて幸せに暮らせたら良いなと思います。

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