狼の山の魂

■■ A N I M A L T E M P L E ■■ 動物たちの真情を伝えます。全世界の動物たちを祈ります。

熊の哀歌

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<< 熊 と 森 と 人 >>
 
「日本熊森協会:森山まり子会長」の講演録を読んだ。
あとからあとから涙があふれてくる。
森山さんの語り口に、とても清らかな気配を感じた。
「そのまま」を話しているのだと、ありありと伝わってくる。
 
次次と印象的な話が展開していくが、
その中に登場する国の専門官の言葉が重く響く。
「「ある一定の人口を超えると、
あとはどんどん自然を食い潰していくだけだ。
ひたすら食い潰していくことになる。
日本で言えば、本来なら三千万人が上限だろう。
しかも江戸時代並の質素な生活をしての話である。
本当のことを言えば、
もはや空気さえも足りない状況なのである。」」
江戸時代並の質素生活でも三千万人。
とっくに限界を超えているということか。
よほど根本から考え直さなければ、
もはやどうにもならないということか。
 
そしてもうひとつのエピソード。
熊穴で熊に抱かれて眠った少年の話である。
母熊と子熊と少年が一緒に眠ったというのだ。
だがその結末に、ただただ絶句した。
あまりにも悲しい。とてつもなく悲しい。
その後に少年の知らぬ間に、母子熊は殺されたのだ。
その話とは結末が違うのだが、同じく熊に助けられ、
熊に抱かれて眠った少年の実話を、村人から聞いたことがある。
「あれは夢のような出来事だった・・・」と語ったそうである。
それは人生を変えるほどに深く深く心に刻み込まれたという。
 
この講演録は、そんなに長い話ではないのだが、
とても大きな物語になっている。
なにしろ「生徒たち」も凄いのだ。まさに天真爛漫である。
彼らと森山先生が紡いだ、これは壮大なドラマである。
ところが、この「熊森活動」に対して、批難が大きいようだ。
批難と言うよりも、最初から著しい攻撃姿勢が感じられる。
なぜ批難勢力が存在するかは、この講演録を読むだけでも分かる。
生徒たちが言うように、大人の世界は本当に汚い。
金と欲と立場が絡むと、大人は本当に汚い手を使う。
読めば分かると思うが、熊森は強硬姿勢では無い。
そこに高慢な態度など無く、交渉相手にも普通に話している。
それなのに、ネットでは時には「精神異常カルト」だと罵倒される。
なんでここまで攻撃するのか、攻撃者の精神が不思議である。
金と欲と立場が絡むだけでなく、
そこには強烈な人間至上主義の気配を感じるのである。
 
熊森活動が地域の「植生」を混乱させると批難者は言う。
地域自然の保全とは真逆の活動だと批難する。
一見これは、まともな批判意見に見えるだろう。
だが少し考えてみれば分かるはずだ。
その「植生」が、すでにとっくに異常事態なのである。
「保全」などという言葉を使う以前に、異常事態なのである。
だいいち、「道路」が通っただけで、自然は分断される。
それを考えただけでも、どれほど自然が異常事態か分かるはずだ。
そういう状況の中で森の命を護るということは至難である。
だがその至難に懸命に挑んでいる人たちがいるのだ。
森は、そこに棲む命たちが造っているのである。
命たちのハーモニーが、森を維持してきたのである。
私も20年前からそのことを唱えてきたが、
ほとんどの人は、まともに聞いてくれなかった。
「森は命たちそのもの」と言っても聞いてくれなかった。
命たちがいなくなれば、森は死ぬのである。
森が死ねば、結局は人間も生きられないのである。
人間は森から大自然から莫大な恩恵を享受してきたのである。
それを忘れて森の命を軽視すれば、人間は生きられないのだ。
批難者は「人間生活絶対!愛熊は愛誤!」と叫ぶが、
そもそも人間生活を根底から支えてきたのは森の命たちである。
批難者はそこら辺が、どうにも実感できないのだと思う。
とりわけ「動物管理思想」という支配者意識に染まった人は、
そこら辺を絶対に認めたくないのであろう。
熊森活動の「方法」には異議を抱く人もいるだろうが、
全否定のような批難を浴びせる理由はなんなのかと思うのだ。
その方法に対して、なんで普通に質問できないのか不思議である。
魂胆無く普通に聞けば、相手も普通に答えるはずなのである。
そこに意地悪い魂胆が隠されていれば、相手も身を固くするのだ。
 
なお私自身は熊森協会の会員ではない。
≪会員要項を見ると「賛助会員」にあたるようだが≫
狼山ブログの読者の皆様はお分かりと思うが、
今の私には寸分の余裕も無い状態である。
だが友人が熊森をよく知っている。
その友人から熊森の話は聞いている。
狼山道院は野性界動物寺として、
「熊森の想い」に対して深く感謝している。
今日はその感謝の気持ちで書いた。
 ありがとうございます!!
 
<<森山会長講演録>>
要約した冊子は「一冊100円」で入手できるようです。
「クマともりとひと」という冊子です。
日本熊森協会に問合せてください。
<<熊生息地の「りんご園社長」の貴重な御話>>
 
私もまた熊の森に棲んでいる。
だが我我は互いに節度を守り、
互いに暗黙の了解の元で生活している。
もちろん「生ゴミ」など置かない。
そんなことは、当たり前の話である。
たとえ熊が節度を守ろうとしても、
「匂い」がプンプンすれば気持ちが混乱する。
余計な葛藤の中で苦しむこととなるのだ。
私は熊の気持ちが分かる。
熊も私の気持ちを分かっている。
だから暗黙の了解が成立している。
 
■南無華厳 狼山道院■
≪ 2012:05:10 ≫
 
<< 熊 の 心 >>
 
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「熊牧場」というものがあるようだ。
不幸な事故が起こった熊牧場があるようだ。
ネットの写真で見る限り、
それは「施設」と呼べるものでは無い。
そもそも施設というものは、その範囲の中で、
できる限り快適に生活できる環境を工夫した場所である。
その工夫と配慮が無い場所は、それは施設では無いのだ。
それは施設どころか、虐待場である。
それは熊にとって、まさしく虐待場だったのだ。
狭い檻と、ただコンクリートの壁に囲まれた空き地。
コンクリートの壁が、景色の全てと言ってもいい。
その中で、いったいどうやって生きろと言うのか。
いったい何を生き甲斐に生きろと言うのか。
そこで生きろと言うこと自体、すでに虐待である。
何も見えない中で、かろうじて空が見えるだけで。
もし自分がそこで一生を生きろと言われたらどうなるか。
自分の精神はいつまで失調せずにいられるか。
精神は壊れ、心は引き裂かれていくだろう。
だが熊たちは、そこで暮らしていた。
全ての生き甲斐を奪われながらも。
ただ生きる使命の一念で毎日を耐えていた。
そんな場所に熊たちを放り込んだ人間は。
その人間は「心」を持っているのか。
「心を持たない人間」というものが存在すると言うことか。
心を持たない人間は、熊の心が分からないだろう。
考えてみれば、それは当然の話である。
この世で最も怖ろしい存在は、心を持たない人間である。
おそらく、魔者から心を抜き取られてしまったのだろう。
 
私は黒熊と同じ山に棲んでいる。
熊とは何度も至近距離で出逢っている。
熊が目前2mまで迫ったこともある。
山の中で逢うと、彼らは「黒い塊り」である。
その「野生の力の塊り感」は、圧倒的に凄い。
その黒熊と、いつも素手のままに逢ってきた。
そしていつも、私は普通に無事だった。
熊からすれば私など非力な幼獣同然だ。
黒熊は羆よりも小型だが、
人間にとっては黒熊の力でも充分過ぎるのだ。
というか、そもそも人間とは比較にならない。
そもそも人間とは「力の種類」が違うのである。
逢った瞬間に、それをまざまざと実感したのだ。
黒熊はほとんど非肉食生活だが、
その独特の立場でいるには、力も必要なのである。
そうでないと、黒熊は身を護ることができないのだ。
だから黒熊は、肉食獣に匹敵する力を持っている。
だが、熊とは何事もなく別れたのである。
熊はそのまま、立ち去って行ったのである。
熊が立ち去る時、私は「光の熊」を見たことがある。
その熊を見守るように、光の熊が寄り添っていたのだ。
それはおそらく、亡き母熊だったのではないだろうか。
熊と逢った時、私は熊の心を感じた。
野生の使命を果たそうという使命感。
できる限り争いたくないという平和心。
そして「尊い何か」を求める敬虔心。
そういう心模様が、一瞬の中に見えた。
ただ食い物を探して生き延びるだけではない。
ただ子孫を残すことだけが使命ではない。
熊は、この世の尊い何かを慕って生きているのだ。
心の中の本心は、それを慕い続けて生きているのだ。
それが、はっきりと分かったのだ。
熊と逢った時、なぜかはっきりと分かったのだ。
赤ちゃんの時から、熊は頑張った。
母熊と一緒の時でも、毎日が大変だった。
山にはもう、食べ物が少なくなったのだ。
大変だったが、母の偉大な愛を知った。
母に愛され、そして母から学ぶ毎日だった。
だがやがて最愛の母と別れて、独り立ちした。
まだまだ子供だったのだが、独り立ちした。
人間で言えば、中学生になった頃だろう。
それからの苦労は、想像を超えた苦労である。
時には、母を想って泣いた。
母を想って泣いたが、歯を食い縛って耐えた。
己の奥深くから聴こえる使命の声が熊の心を支えた。
毎日毎日、精一杯に生きてきた。
疲れ果てた夜、大自然の精霊に抱かれて眠った。
それが唯一の、熊の安らぎだった。
尊い何かと通じ合えるひと時に、幸せを感じた。
そういう光景が、フラッシュバックのように見えた。
熊と出逢った瞬間に、そういう光景が見えたのだ。
熊には心がある。
それは当たり前の話である。
だがそんな当たり前の話が、
人間世界では通用しないようである。
熊の命がどれほど無残に扱われているか。
世界中で、どれほど熊が残酷に扱われているか。
もし熊の心を認めても、その扱いは変わらないだろうか。
もし熊の心を知っても、人間は心を動かさないだろうか。
そうだとしたら、それもまた怖ろしいことである。
相手に心を認めなければ器物として扱い、
相手の心を知ってさえ器物として扱い、
人間は異種の命に対してどこまでも冷酷ということなのか。
 
■南無華厳 狼山道院■
≪ 2012:04:25 ≫
 
**≪ 絶 望 の 熊 ≫**
 
・・・もちろん・・・
熊にも、心がある。
もちろん熊にも、深い感受性がある。
深い情緒に彩られ、深い感性に彩られている。
 
 
この映像の熊は、絶望の淵にいる。
自分の運命が閉ざされたことを知っている。
檻にかけた左手が、あまりにも切ない。
熊の全身が、絶望の淵に沈んでいる。
熊の哀願の声が、悲しく響く。
それはまさに、絶望の淵の哀歌である。
その左手が、その声が、その全身が、
熊の絶望を切切と訴えている。
いくら殺すと言えども。
いくら殺すと言えども、
「命」を絶望の淵に追い詰めて放置するとは。
それはまさに大問題である。
もしも殺すのなら、全く真逆の手段を選ぶべきである。
「尊い命」を、人間社会の都合で殺すのだから、
なおさらに「尊厳死」を考えねばならないのだ。
人間社会は駆除する山獣に対して、
一度でも「尊厳死」を考えたことがあるだろうか。
***** 南 無 華 厳 大 悲 界 *****
 
私は山で熊に出会う。
私は「熊除け鈴」も持っていない。
何も持たずに、いつも素手である。
熊が眼前2mまで来たこともある。
初めて熊が訪問した時には、
それは夜だったが、さすがに私も緊張した。
なにしろ、その「塊り感」が凄かったからである。
その黒く大きな塊りは、野性の悍威に満ちていた。
その野性の悍威に、私は圧倒されてしまった。
圧倒されたが、私はその場に立っていた。
胆を決め、手を前方に掲げて、
胆からの声で熊に呼びかけた。
そうしたら、熊は直前で止まった。
しばらく熊は私を眺め、
そして静かに引き返して行った。
その後も何度か山で熊と出会ったが、
いつも何事も起こらなかった。
いつも熊は、私をじっと見つめる。
そこで感じたことは、怖さではない。
そこで感じたものは、
野性の懸命と、野性の純情である。
熊は私の匂いを嗅ぎ、
私の気配を感じ取り、
そして熊は、去って行く。
何かを納得したように去って行く。
熊は無言で語っていた。
無闇に争いなど起こしたくは無いと。
木の実や果実を食べて、
平穏に生きていきたいのだと。
木の実や果実を食べて、
風の音を聴き、樹木の香りを嗅ぎ、
そして森に抱かれて眠れれば、
それだけで幸せなのだと。
だが果たして、
山に食料は充分にあるのだろうか。
ぎりぎりの中を耐えているように感じるのだ。
熊と別れる時にいつも、
心の底から「南無華厳」を唱える。
どんなに頑張って生きているかが、
どんなに純粋に生きているかが、
それが痛切に伝わってくるから、
だから一心に祈りを捧げる。
 
≪南無華厳 狼山道院≫
::2011:06:02::

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<2010年9月17日>

熊が里に降りたと言う。

民家の庭の柿の木に登って柿を食べたと言う。

家人が通報し、害獣駆除隊員が来て、熊を追い払おうとしたと言う。

熊はその家の倉庫に逃げ込んだと言う。

動転した熊は、まず視界に入った倉庫に飛び込んだのだろう。

だが外には隊員たちがいるから、もうそこからは出れない。

もはやそこで息を殺してじっとしているしかない。

やがて、痺れを切らした隊員たちが、得物を手にして入ってきた。

ワイヤーの投げ輪が飛んできた。

そしてそのワイアーの輪は首に嵌り、素早く締め上げられた。

そしてそのワイアーの端は柱に括り付けられた。

もう夜になっていたので、熊駆除の作業は中断され、隊員たちは去っていった。

倉庫の柱に首をワイアーで縛られた熊の、長い長い夜が始まった。


とにかく、暑かった。

まだ残暑の熱暑の最中だった。

倉庫の中は、息をするにも苦しかった。

ましてや恐怖と興奮で、身体は火のように暑かった。

それでも、なんとしてでも、ここから逃げなくてはならない。

今度人間が来れば、この身がどうなるか?? 無事でいられるはずがない・・・・・

それを想えば、なんとしてでも脱出するしかない。

だが、首に鋼のワイアーが巻かれている。

逃げるには、このワイアーを断ち切るしかない。

熊は、渾身の力でワイアーを咬み続けた。

口の中は切れて血だらけだ。

歯茎もアゴも悲鳴を上げている。

熊はそして渾身の力でワイアーを引っ張った。

ワイアーが首に食い込み、皮膚を裂き始めている。

中の筋肉は、もうズタズタだ。

もうその首は、元には回復できないほどに壊れ始めた。

首と口の痛みで、気も狂わんばかりになる。

まるで業火で焼かれているような激痛が間断なく襲う。

熊はもう、逃げられないことを覚った。

いや、初めからそれは知っていた。

だが最後まで、抵抗を試みたのだ。


長い長い夜だった。

暑さと痛みと苦しみの、拷問の夜だった。

夜が終わりを告げる頃、熊は孤独と絶望の中で死んだ。


いつも思うのだが、

里に降りた動物に対する「対策」は、いったいどうなっているのだろうか??

長年に亘って山の動物たちが頻繁に降りてきているというのに、

それに対する適切な対処が成されているとは到底思えないのである。

未だに、旧態依然の原始的な対策のままに思えるのだ。

世の中は、これほどにハイテクを競っているのに、

こと動物に関してはまるで進歩を感じられないのである。

動物対策ごときに、技術開発の金など使えないということか??

金どころか、時間さえ費やすことが惜しいのか??

おそらく、動物ごときに細かな配慮など不要だと考えているのだろう。

そうとしか思えないほどに、技術進歩を感じないのである。

<ある県のある民間組織は精力的に考えているようだが、まだまだ途上に思われる・・・>


そして、「ネットワーク」だ・・・・

これもいつも思うのだが、

どこかで山獣問題が発生しても、局限的なアイデアで対処しているような気がする。

そのエリアのその管轄の中だけで対応しているように感じる。

全国規模で探せば、「熊のオーソリティー」はどこかに居るはずだ。

今やネットで探せば、そのような人や組織が一発で分かるだろうに。

なんで即座に連絡してアイデアを仰ぎ、そして連携して行動しないのだろうか??

なんでみんなで知恵を出し合って連携しないのだろうか??

探すのも面倒か?? 電話するのも面倒か?? 連携するのも面倒か??

何もかも分断され、その場の局限で判断され、そしてその繰り返しに見える。

これでは、いつまでたっても一向に進化しないように思える。


たとえば、「麻酔銃」ひとつとっても、改良の余地は大きくあるだろうに。

たとえば、「吹き矢」ひとつとっても、進化の可能性は大きくあるだろうに。

そこで熊をスムーズに鎮静できれば、余計な怪我を負わせずに済むはずなのだ。

<そしてそれらを使いこなす技術の練磨も必要だ・・・>

野生動物が人間に捕まれば、あるいはワナに捕まれば、

彼らの心境がどんな状態になるのか、そんなことは誰だって百も承知のはずなのだ!!!

それとも、そんなことさえ分からないというのか???

それとも、そんなことなど眼中に無いというのか???

たとえば道具の類も、捕獲機の類も、檻の類も、技術の類も、

そういった諸諸の条件の進化を、もっともっと真摯に考えて欲しいと願う。

無理難題など、これっぽっちも言っていないはずだ。

「せめて・・・・」の哀願なのである。


里に降りた山獣たちも、大自然の申し子である。

大自然と直結した申し子の胸中を知らねば、

大自然のことなど何ひとつ分かりはしない。

「自然との共生」などと言えた義理では無いのである。


※左目次に「熊の哀歌」があります。


■南無華厳 狼山道院■

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<2008年1月10日>

日本黒熊(月の輪熊)は、殆ど植物食で生きています。

木の実や果実があれば、ひっそりと穏やかに暮らしていきます。

多くは望みません。

生きていくのに必要なだけの食べ物と心やすらぐ自然があれば、それで充分でした。

腕力は凄いのですが、それは採食のときと防衛のときに使う力です。

誰かを攻撃したいとか、誰かを傷つけたいとか、そんなつもりはありません。

静かな気持ちで生きたいのです。

そして黒熊はとてもナイーブです。

母を殺され、兄妹を殺された子熊が、三日三晩泣き続けた話を聞いたことがあります。

あるいは母熊の愛情の深さは、熊猟師だったら誰でも知っているはずです。

子を守ろうとして自らが犠牲となった母熊の話は無数にあるはずです。

子を自分の身体の下に隠して、自分が盾となって銃弾を浴びるのです。

何度も、身体を貫く衝撃が襲います。

身体が破壊されていきます。

それでも、母熊は子をかばい続けたのでした。

人間が助けられた例もあります。

雪深い冬山で迷った少年が寒さの中で彷徨ううちに穴倉を見つけ、そこに入っていきました。

そのまま倒れるように眠り込みました。

気がつくと、とても暖かな何かに抱かれていました。

あまりの疲れで、少年は考える暇もなく、再びその心地よい眠りに落ちました。

朝、目覚めた彼がかすかな明かりの中で見たものは、

自分をやさしく抱きかかえてくれている熊の姿でした。

熊は冬眠中でしたが、意識はありました。

身体と精神は高レベルの省エネモードに入っていましたが、意識はあるのです。

熊は自らの意志で、少年を寒気から守っていたのです。

少年は無事に里へ帰りましたが、その日以来、彼の中で何かが変わりました。

あの夢のような体験が彼の心に深く刻み込まれ、

その後の人生のずっと、その感動が心を占める毎日となったのでした。

ただ「救われた」という事実だけに胸を打たれたのではありません。

野性界の奥に隠された心の領域を垣間見てしまった感動でした。

少年はあの日の出来事を永遠の宝物にしたのでした。 ※実話です。


山で食べ物が無くなりました。

本当はもっと一杯あったはずなのです。

でも、今はもう、探しても探しても見つからないのです。

いつも空腹を我慢してきました。

もう、歩くのもやっとの思いです。

山の下のほうで、食べ物の匂いがしました。

その方向は、危険な匂いも満ちていました。

でも、生きるために、山を降りていきました。

生きている以上、なんとしてでも生きようと、心が思ったからです。

とても怖い予感がありました。

でも、食べ物はあったのです。

だから夢中で食べました。

ずっとずっと食べていなかったから、ほんとうにおいしかったのです。


その子は捕獲され、

身動きも取れないほどの狭いオリに閉じ込められた。

恐怖と不安で心が張り裂けそうだった。

捕獲された時のケガの痛みも忘れて、渾身の力でオリを出ようとした。

その子の手やアゴや口は傷だらけになった。人間ならば大ケガのレベルだ。

その状態が何日も続いた。

人間たちがオリの周りで見ている。

一刻を争う事態なのに皆、のん気に見ている。

もう、立っていることも出来ないほどに衰弱しているのに、

それでもその子が最後の気力で耐えているのに、

誰も気づかない。

誰一人、子熊の苦しみを気遣う者はいなかった。

その子は「害獣」、ただそのひと言で片付けられたのだ。

※昔はオリの外から鉄棒で突きまわして殺したりした。苦しみは延々と続いた。


ニュースでは「怖いですね、危険ですね、迷惑ですね!」とアナウンスされた。

日頃から「自然との共生」をスローガンにしているマスコミの、

その口から出る言葉がただこれだけだった。

招かれたコメンテーターも、似たような次元の話で終始する。

「識者」と呼ばれる人たちが、何も考えていなかった。

スローガンは建前だけで、山の命のことなど、実は何も考えていなかったのだ。


その熊は、人間で言えばまだ中学生くらいの子供だった。

育ち盛りなのに、いつも空腹に耐えてきた。

身体は成長のための栄養を求めて悲鳴をあげていた。

でも、たったひとりで頑張ってきたのだ。

絶食の中で眠る毎日はどんなに辛かっただろうか。

誰ひとり頼る者のいない毎日はどんなに孤独だっただろうか。

それでも、「生きる」使命の声を聴いて、

その子は、明日の一日に、いちるの望みを託してきたのだ。


「ワイヤー・トラップ」(肉を切断し、骨にまで食い込むワナ)で傷ついた前足が、

眠ることを許さないほどに痛んだ。

真っ赤に燃え盛る炎に焼かれているようだった。

間断なく襲う痛みに耐え、その子は最後の最後まで、生命の灯をともそうとした。

だが、その身体にはひとかけらの力も残ってはいなかった。

薄れゆく意識の中で、お母さんと一緒だった頃の、

あの楽しい日々が、走馬灯のようにまぶたに浮かんだ。


僕は毎日、お母さんのお乳を一杯飲んだ。

お母さんはとてもとても優しくて、僕のことを守ってくれた。

それから僕にいろんなことを教えてくれた。

生きること、生きる方法のこと、生きる力のことを、僕はお母さんの姿から学んだ。

僕はお乳を一杯飲んでいたけれど、でもお母さんはあんまり食べていなかった。

山には食べ物が少なかったんだと、今の僕には分かる。

お母さんの身体がどんどんやせていった。

お母さんは自分の身体の血と肉と骨を、お乳に変えていてくれたんだ。

僕の飲むお乳は、お母さんの身体だったんだ。

僕はお腹が一杯になると、お母さんに遊んでもらった。

僕は元気一杯だったから、ずっとお母さんにじゃれついた。

お母さんはそのやせた身体で、精一杯、僕と遊んでくれた。

きっと、空腹でふらふらだったのに。

お乳を飲む時期が終わると、お母さんと一緒に遠くまで食べ物を探しに出かけた。

でも、食べ物は少なかった。

僕とお母さんは毎日空腹のまま、抱き合って眠った。

僕が空腹で泣くと、お母さんはやさしくやさしく僕の顔を舐めてくれた。


その子は怖ろしい匂いに満ちた二本足の生き物の世界の中で、

その冷たいオリの中で、「絶望」という二文字を悟った。

その子の願いは、最後まで聞いてもらえなかった。

もとから、人間は聞く耳を持っていなかったのだ。

もう、悲しみは胸の奥に沈んだ。

心は、あのやすらかな大自然のもとに向かっていた。

小鳥たちの歌声が聴こえる。

花たちのやさしい香りが届く。

せせらぎの音の中で、若草の萌える匂いの中で、

その子は大自然の愛に包まれていた。

短くも力の限りに生きた生涯が、その幕を閉じた。


「くたばったぞ!!」と誰かが言った。

「おい、今夜は熊鍋だぞ!!」「熊が若いから、こりゃあうまいぞ!!」

酒が用意され、宴会が始まった。

そこにはひとかけらの祈りもなかった。


だが、大自然は知っている。

一頭の熊の懸命の生涯を。

全身全霊で生きたその熊の心を。

誰かが山の食べ物を奪ったことを。

誰かが、大自然の子供たちを苦しめてきたことを。


大いなる愛の光がその子の魂を見守り、

そして大いなる世界へと導いていった。

**** WOLFTEMPLE ****

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