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<< 熊 と 森 と 人 >>
「日本熊森協会:森山まり子会長」の講演録を読んだ。
あとからあとから涙があふれてくる。
森山さんの語り口に、とても清らかな気配を感じた。
「そのまま」を話しているのだと、ありありと伝わってくる。
次次と印象的な話が展開していくが、
その中に登場する国の専門官の言葉が重く響く。
「「ある一定の人口を超えると、
あとはどんどん自然を食い潰していくだけだ。
ひたすら食い潰していくことになる。
日本で言えば、本来なら三千万人が上限だろう。
しかも江戸時代並の質素な生活をしての話である。
本当のことを言えば、
もはや空気さえも足りない状況なのである。」」
江戸時代並の質素生活でも三千万人。
とっくに限界を超えているということか。
よほど根本から考え直さなければ、
もはやどうにもならないということか。
そしてもうひとつのエピソード。
熊穴で熊に抱かれて眠った少年の話である。
母熊と子熊と少年が一緒に眠ったというのだ。
だがその結末に、ただただ絶句した。
あまりにも悲しい。とてつもなく悲しい。
その後に少年の知らぬ間に、母子熊は殺されたのだ。
その話とは結末が違うのだが、同じく熊に助けられ、
熊に抱かれて眠った少年の実話を、村人から聞いたことがある。
「あれは夢のような出来事だった・・・」と語ったそうである。
それは人生を変えるほどに深く深く心に刻み込まれたという。
この講演録は、そんなに長い話ではないのだが、
とても大きな物語になっている。
なにしろ「生徒たち」も凄いのだ。まさに天真爛漫である。
彼らと森山先生が紡いだ、これは壮大なドラマである。
ところが、この「熊森活動」に対して、批難が大きいようだ。
批難と言うよりも、最初から著しい攻撃姿勢が感じられる。
なぜ批難勢力が存在するかは、この講演録を読むだけでも分かる。
生徒たちが言うように、大人の世界は本当に汚い。
金と欲と立場が絡むと、大人は本当に汚い手を使う。
読めば分かると思うが、熊森は強硬姿勢では無い。
そこに高慢な態度など無く、交渉相手にも普通に話している。
それなのに、ネットでは時には「精神異常カルト」だと罵倒される。
なんでここまで攻撃するのか、攻撃者の精神が不思議である。
金と欲と立場が絡むだけでなく、
そこには強烈な人間至上主義の気配を感じるのである。
熊森活動が地域の「植生」を混乱させると批難者は言う。
地域自然の保全とは真逆の活動だと批難する。
一見これは、まともな批判意見に見えるだろう。
だが少し考えてみれば分かるはずだ。
その「植生」が、すでにとっくに異常事態なのである。
「保全」などという言葉を使う以前に、異常事態なのである。
だいいち、「道路」が通っただけで、自然は分断される。
それを考えただけでも、どれほど自然が異常事態か分かるはずだ。
そういう状況の中で森の命を護るということは至難である。
だがその至難に懸命に挑んでいる人たちがいるのだ。
森は、そこに棲む命たちが造っているのである。
命たちのハーモニーが、森を維持してきたのである。
私も20年前からそのことを唱えてきたが、
ほとんどの人は、まともに聞いてくれなかった。
「森は命たちそのもの」と言っても聞いてくれなかった。
命たちがいなくなれば、森は死ぬのである。
森が死ねば、結局は人間も生きられないのである。
人間は森から大自然から莫大な恩恵を享受してきたのである。
それを忘れて森の命を軽視すれば、人間は生きられないのだ。
批難者は「人間生活絶対!愛熊は愛誤!」と叫ぶが、
そもそも人間生活を根底から支えてきたのは森の命たちである。
批難者はそこら辺が、どうにも実感できないのだと思う。
とりわけ「動物管理思想」という支配者意識に染まった人は、
そこら辺を絶対に認めたくないのであろう。
熊森活動の「方法」には異議を抱く人もいるだろうが、
全否定のような批難を浴びせる理由はなんなのかと思うのだ。
その方法に対して、なんで普通に質問できないのか不思議である。
魂胆無く普通に聞けば、相手も普通に答えるはずなのである。
そこに意地悪い魂胆が隠されていれば、相手も身を固くするのだ。
なお私自身は熊森協会の会員ではない。
≪会員要項を見ると「賛助会員」にあたるようだが≫
狼山ブログの読者の皆様はお分かりと思うが、
今の私には寸分の余裕も無い状態である。
だが友人が熊森をよく知っている。
その友人から熊森の話は聞いている。
狼山道院は野性界動物寺として、
「熊森の想い」に対して深く感謝している。
今日はその感謝の気持ちで書いた。
ありがとうございます!!
<<森山会長講演録>>
要約した冊子は「一冊100円」で入手できるようです。
「クマともりとひと」という冊子です。
日本熊森協会に問合せてください。
<<熊生息地の「りんご園社長」の貴重な御話>>
私もまた熊の森に棲んでいる。
だが我我は互いに節度を守り、
互いに暗黙の了解の元で生活している。
もちろん「生ゴミ」など置かない。
そんなことは、当たり前の話である。
たとえ熊が節度を守ろうとしても、
「匂い」がプンプンすれば気持ちが混乱する。
余計な葛藤の中で苦しむこととなるのだ。
私は熊の気持ちが分かる。
熊も私の気持ちを分かっている。
だから暗黙の了解が成立している。
■南無華厳 狼山道院■
≪ 2012:05:10 ≫ |
熊の哀歌
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<< 熊 の 心 >>
「熊牧場」というものがあるようだ。
不幸な事故が起こった熊牧場があるようだ。
ネットの写真で見る限り、
それは「施設」と呼べるものでは無い。
そもそも施設というものは、その範囲の中で、
できる限り快適に生活できる環境を工夫した場所である。
その工夫と配慮が無い場所は、それは施設では無いのだ。
それは施設どころか、虐待場である。
それは熊にとって、まさしく虐待場だったのだ。
狭い檻と、ただコンクリートの壁に囲まれた空き地。
コンクリートの壁が、景色の全てと言ってもいい。
その中で、いったいどうやって生きろと言うのか。
いったい何を生き甲斐に生きろと言うのか。
そこで生きろと言うこと自体、すでに虐待である。
何も見えない中で、かろうじて空が見えるだけで。
もし自分がそこで一生を生きろと言われたらどうなるか。
自分の精神はいつまで失調せずにいられるか。
精神は壊れ、心は引き裂かれていくだろう。
だが熊たちは、そこで暮らしていた。
全ての生き甲斐を奪われながらも。
ただ生きる使命の一念で毎日を耐えていた。
そんな場所に熊たちを放り込んだ人間は。
その人間は「心」を持っているのか。
「心を持たない人間」というものが存在すると言うことか。
心を持たない人間は、熊の心が分からないだろう。
考えてみれば、それは当然の話である。
この世で最も怖ろしい存在は、心を持たない人間である。
おそらく、魔者から心を抜き取られてしまったのだろう。
私は黒熊と同じ山に棲んでいる。
熊とは何度も至近距離で出逢っている。
熊が目前2mまで迫ったこともある。
山の中で逢うと、彼らは「黒い塊り」である。
その「野生の力の塊り感」は、圧倒的に凄い。
その黒熊と、いつも素手のままに逢ってきた。
そしていつも、私は普通に無事だった。
熊からすれば私など非力な幼獣同然だ。
黒熊は羆よりも小型だが、
人間にとっては黒熊の力でも充分過ぎるのだ。
というか、そもそも人間とは比較にならない。
そもそも人間とは「力の種類」が違うのである。
逢った瞬間に、それをまざまざと実感したのだ。
黒熊はほとんど非肉食生活だが、
その独特の立場でいるには、力も必要なのである。
そうでないと、黒熊は身を護ることができないのだ。
だから黒熊は、肉食獣に匹敵する力を持っている。
だが、熊とは何事もなく別れたのである。
熊はそのまま、立ち去って行ったのである。
熊が立ち去る時、私は「光の熊」を見たことがある。
その熊を見守るように、光の熊が寄り添っていたのだ。
それはおそらく、亡き母熊だったのではないだろうか。
熊と逢った時、私は熊の心を感じた。
野生の使命を果たそうという使命感。
できる限り争いたくないという平和心。
そして「尊い何か」を求める敬虔心。
そういう心模様が、一瞬の中に見えた。
ただ食い物を探して生き延びるだけではない。
ただ子孫を残すことだけが使命ではない。
熊は、この世の尊い何かを慕って生きているのだ。
心の中の本心は、それを慕い続けて生きているのだ。
それが、はっきりと分かったのだ。
熊と逢った時、なぜかはっきりと分かったのだ。
赤ちゃんの時から、熊は頑張った。
母熊と一緒の時でも、毎日が大変だった。
山にはもう、食べ物が少なくなったのだ。
大変だったが、母の偉大な愛を知った。
母に愛され、そして母から学ぶ毎日だった。
だがやがて最愛の母と別れて、独り立ちした。
まだまだ子供だったのだが、独り立ちした。
人間で言えば、中学生になった頃だろう。
それからの苦労は、想像を超えた苦労である。
時には、母を想って泣いた。
母を想って泣いたが、歯を食い縛って耐えた。
己の奥深くから聴こえる使命の声が熊の心を支えた。
毎日毎日、精一杯に生きてきた。
疲れ果てた夜、大自然の精霊に抱かれて眠った。
それが唯一の、熊の安らぎだった。
尊い何かと通じ合えるひと時に、幸せを感じた。
そういう光景が、フラッシュバックのように見えた。
熊と出逢った瞬間に、そういう光景が見えたのだ。
熊には心がある。
それは当たり前の話である。
だがそんな当たり前の話が、
人間世界では通用しないようである。
熊の命がどれほど無残に扱われているか。
世界中で、どれほど熊が残酷に扱われているか。
もし熊の心を認めても、その扱いは変わらないだろうか。
もし熊の心を知っても、人間は心を動かさないだろうか。
そうだとしたら、それもまた怖ろしいことである。
相手に心を認めなければ器物として扱い、
相手の心を知ってさえ器物として扱い、
人間は異種の命に対してどこまでも冷酷ということなのか。 ■南無華厳 狼山道院■
≪ 2012:04:25 ≫ |
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**≪ 絶 望 の 熊 ≫**
・・・もちろん・・・
熊にも、心がある。
もちろん熊にも、深い感受性がある。
深い情緒に彩られ、深い感性に彩られている。
この映像の熊は、絶望の淵にいる。
自分の運命が閉ざされたことを知っている。
檻にかけた左手が、あまりにも切ない。
熊の全身が、絶望の淵に沈んでいる。
熊の哀願の声が、悲しく響く。
それはまさに、絶望の淵の哀歌である。
その左手が、その声が、その全身が、
熊の絶望を切切と訴えている。
いくら殺すと言えども。
いくら殺すと言えども、
「命」を絶望の淵に追い詰めて放置するとは。
それはまさに大問題である。
もしも殺すのなら、全く真逆の手段を選ぶべきである。
「尊い命」を、人間社会の都合で殺すのだから、
なおさらに「尊厳死」を考えねばならないのだ。
人間社会は駆除する山獣に対して、
一度でも「尊厳死」を考えたことがあるだろうか。
***** 南 無 華 厳 大 悲 界 *****
私は山で熊に出会う。
私は「熊除け鈴」も持っていない。
何も持たずに、いつも素手である。
熊が眼前2mまで来たこともある。
初めて熊が訪問した時には、
それは夜だったが、さすがに私も緊張した。
なにしろ、その「塊り感」が凄かったからである。
その黒く大きな塊りは、野性の悍威に満ちていた。
その野性の悍威に、私は圧倒されてしまった。
圧倒されたが、私はその場に立っていた。
胆を決め、手を前方に掲げて、
胆からの声で熊に呼びかけた。
そうしたら、熊は直前で止まった。
しばらく熊は私を眺め、
そして静かに引き返して行った。
その後も何度か山で熊と出会ったが、
いつも何事も起こらなかった。
いつも熊は、私をじっと見つめる。
そこで感じたことは、怖さではない。
そこで感じたものは、
野性の懸命と、野性の純情である。
熊は私の匂いを嗅ぎ、
私の気配を感じ取り、
そして熊は、去って行く。
何かを納得したように去って行く。
熊は無言で語っていた。
無闇に争いなど起こしたくは無いと。
木の実や果実を食べて、
平穏に生きていきたいのだと。
木の実や果実を食べて、
風の音を聴き、樹木の香りを嗅ぎ、
そして森に抱かれて眠れれば、
それだけで幸せなのだと。
だが果たして、
山に食料は充分にあるのだろうか。
ぎりぎりの中を耐えているように感じるのだ。
熊と別れる時にいつも、
心の底から「南無華厳」を唱える。
どんなに頑張って生きているかが、
どんなに純粋に生きているかが、
それが痛切に伝わってくるから、
だから一心に祈りを捧げる。
≪南無華厳 狼山道院≫
::2011:06:02::
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<2010年9月17日> |
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<2008年1月10日> |
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