狼の山の魂

■■ A N I M A L T E M P L E ■■ 動物たちの真情を伝えます。全世界の動物たちを祈ります。

大自然

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<2010年10月10日>

「食べ物」についての議論になると、必ず登場するのが、

「動物の尊厳を謳う人は、植物の尊厳は謳わないのか??」という質疑である。

「動物を食べないなら、植物も食べるべきではない・・・」という意見である。

「人間は<命>を頂戴して生きている。

動物にも命があるし、植物にも命がある。

動物も植物も、その尊厳に微塵も違いが無い。

だから人間は両者に対して<感謝>して食べていくのである・・・」

上の言葉が、圧倒的大多数の意見のようである。

判で押したように、この言葉で締めくくられて終わるのである。

まさに、ごもっとも、である。

誰もがこの金言の前に沈黙するのである。


だが果たして、その金言を語る者は、

「植物の尊厳」をどのように実感してきたのか??

実感が無ければ、尊厳など語ることはできない。

実感無しに語れば、それはただの理屈に過ぎないのだ。

「植物の尊厳」を実感できる人ならば、「動物の尊厳」も実感できる。

もし「植物の尊厳」を実感したならば、

動物の境遇の過酷な実態に対して、平気で傍観できるはずが無い。

少なくとも、「なんとかしなくては・・・」と葛藤するに違いない。

少なくとも、「感謝」の一言で済ませてしまうことなどできなくなる。

「殺す・殺さない」「食べる・食べない」の議論の前に、

その前に、その境遇の過酷さに、まずは目が向くはずなのである。

それ以前の問題として、その境遇の酷薄さに、胸を痛めるはずなのである。

同様に、「動物の尊厳」を実感できるのなら、「植物の尊厳」も実感できる。

したがって動物の尊厳を尊重する人は、植物の尊厳も尊重するはずである。

少なくとも「理屈」で物言う人よりは、植物を理解しているはずである。

少なくとも「感謝」の一言で済ます人よりも、植物を大事にしているはずである。


本当は、誰もが分かっていることなのである。

本当は、誰もが心で感じていることなのである。

頭の思考では理屈を編み出すが、実は心の奥底では、すでに真相を知っているのである。

すでに真相を知りながらも、「都合」によってそれを封印しているのである。

生活を謳歌する上では、真相よりも「都合」の方が大事なのである。

その「都合」の欺瞞を解消するするために、次次と理屈を編み出すのである。

植物と動物の感覚が、それぞれに異なることを。

植物と動物が、異なる感受性を持っていることを。

本当は誰もがそれを心の内に知っているはずなのである。


植物は、移動ができない。

植物は、逃げることができない。

植物は、その決定的に不利な境遇を生きる。

植物は、その境遇の中で、すべてを受容する。

だが植物は、酸素を与えてくれる。

だが植物は、水の確保もしてくれる。

だが植物は、あらゆる食糧の源となってくれる。

これ以上の慈悲心があるだろうか。

植物は、最も困難な慈悲を実践しているのである。

その植物に対して、大自然界の配慮がある。

大自然界の調和は絶妙だが、その配慮もまた絶妙なのである。

植物には、「神経細胞」が無い。

なぜに神経細胞が与えられていないのか??

それは大自然界の配慮であり、大慈悲心なのである。

もし植物の境遇に対してその配慮が無ければ、植物は使命を遂行することができなくなる。

それどころか、神経細胞による反応で、生きていること自体が苦しみそのものとなってしまう。

到底使命を遂行できないし、それ以前に「苦しむことが生きること」になってしまうのだ。

それでは不合理の極みである。不条理の極みである。

絶妙なる大自然界が、わざわざそんな不合理不条理を目論むはずがない。

だから大自然界は、植物に神経細胞を与えなかった。

だが植物は、厳然と命である。

たとえ神経細胞が無くとも、「意識」を持っている。

それは植物特有の意識である。動物の持つ意識とは異なる。

どちらが高等でどちらが下等など、そんな愚かな概念は無い。

それを比較することは無意味であり、比較できない領域である。

どちらも尊い意識である。どちらも唯一無二の個性を持っている。

植物の意識とは・・・それはつまり善意そのものである。

「与えること」が、彼らの喜びなのである。

だがこの「与えること」の意味が深く難しい。

人間の概念の「与えること」と、植物の「与えること」は、度量とスケールが違うのだ。

だから迂闊に人間がそれを解釈すると、誤った方向に進む怖れが出てくるだろう。

要するに、植物の真意を誤解して、植物を悲しませてしまうということだ。

植物の「喜び」を最大とするものは、「理解」である。

植物の真意を理解することが、植物に対する最大の御礼なのである。

ところで動物たちは、確かに何気なく植物を食している。

だが動物たちは、本能の奥深くで知っているのである。

動物たちは、植物に対する有難さを、無意識の内に覚っているのである。

動物たちは、本能で植物のことを理解しているのである。

「人間だって分かっているぞ!!」と言うかも知れないが、

分かっているなら、これまでの無謀で横暴な仕打ちは何だったのか??

分かっているならば、植物界に対する過剰な破壊行為はできなかったはずなのだが。

大自然界では、植物と動物は絶妙に共存している。

誰に教えられなくとも、程度をわきまえ、「足るを知る」心がけで、共存している。

そして動物は植物の御世話になっているだけでなく、

植物の手助けも充分に実践しているのである。

彼らは互いに助け合っているのである。

だが人間は、いつも戴く一方である。

植物への礼儀や御礼など、一度も考えなかったのである。


植物に、なぜ神経細胞が無いのかを、手短に話した。

ではなぜ動物に神経細胞が有るのか??

これは説明するまでも無いだろう。子どもでも分かるはずだ。

自分に置き換えてみれば、誰でも一発で分かることなのだ。

要するに「痛覚」とは、自己保存のためのセンサーである。

もし痛覚が無ければ、肉体は途端に損壊の一途を辿る。

要するに「痛くなければ」、己の肉体が壊れる自覚が無くなるのだ。

だからその損壊を防ぐために、痛覚が与えられているのである。

だから動物が生きていくためには必要不可欠の感覚なのである。

だからこそ痛覚とは、非常に鋭敏な感覚なのである。

この世に、辛いことは一杯ある。

だが最も強烈な辛苦は、「痛み」である。

どんな人間も、激烈な痛みの前には屈服する。

「麻酔」の存在を考えれば分かることだ。

「ペインクリニック」の存在を考えれば分かることだ。

人類の「拷問史」を振り返ってみれば分かることだ。

「私は耐えられる」という自信家は、本物の激痛を知らないだけである。

言語を絶した激痛の前では、すべての動物が恐怖に慄き、絶望に沈むのである。

だから「痛み」を軽く見てはならない。

それはとことん、現実問題なのである。

常に、「我が身に置き換えて」考えなくてはならないのである。

これらを考えれば、

「殺す・殺さない」「食う・食わない」だけの視座では済まされないことが分かるはずだ。

その視座だけの議論が、世界中で延延と繰り返されているが。


私は森に棲んでいる。

動物たちとの対話を修行してきた。

だが同時に、植物たちの感性も知ろうと努めてきた。

それ無しには、片手落ちになってしまうからだ。

森を歩けば、森に坐れば、植物たちがいろんなことを教えてくれる。

植物たちの世界も絶妙だ。唖然とするほどに凄い世界だ。

彼らは見事に「宥和」を実践している。

互いに相手を尊重し、謙譲の美徳に満ちている。


■南無華厳 狼山道院■

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<2010年10月8日>

大自然界の命は、驚くべき「献身」をすることがある。

大自然界の誰もが、最終的に献身をしているのだが、

それとはまた違う表現で「献身」することがあるのだ。


誰しも、命が大事である。

誰だって生きたいし、誰だって死は恐怖だ。

そんなことは当たり前の話である。

だが大自然界は、それだけでは語れない。

それだけでは終わらないのが大自然界である。

大自然界の誰もが、自分の命を「世界」に捧げる日が来ることを知っている。

「世界」が、そのようにして成り立っていることを知っている。

だから誰もが、偉大な覚悟を秘めているのである。

だから誰もが、崇高な覚悟を秘めているのである。

彼らは最後の最後まで生きることに挑み、最後の最後まで生きようと尽くすが、

彼らは「生」を全うしようと全身全霊で力の限りに生きるのだが、

だが「献身の日」が来ることを、覚悟しているのである。

全力で生きることと、その日を覚悟するということは、別の話なのである。

さらに言えば、力の限りに生きているからこそ、覚悟することができるのである。

それぞれの献身が他のそれぞれを生かし、

他のそれぞれの献身が、また別の他のそれぞれを生かしていく。

そのすべてのそれぞれの献身が、大自然という命を存続させてきた。

ある命が、すべてのある命が、大自然という命に姿を変えていくのである。

だからそれぞれの献身がそれぞれに、計り知れなく偉大で崇高なのである。

ひとつの生が、ついに無限の生へと昇華するのであった。


この「献身」の感覚は、人間には分かりづらいだろう。

人間は命を「自分だけのもの」と思い込んでいるからだ。

人間は自分があたかも「独存」していると錯覚しているからだ。

人間は、ひたすら「我が命の権利」を主張することが正義だと思っているからだ。

だから献身を、「不幸」「悲劇」だと感じる人が多いのである。

だが実は、その思考が、己の力を奪い取っているのだが。

だが実は、その姿勢が、己の精神を追い込んでいるのだが。

我が身を可愛がっているようで、実は我が身を衰退させているのである。

我が身の自由を求めているようで、実は我が身を束縛しているのである。

実は、まったく逆なのである!!!

他者の境遇に想いを馳せ、他者の苦しみを知り悲しんだとき、

苦しむ他者を何とかしたいと思ったとき、この身を以って何とかしたいと思ったとき、

その人の命は最高度のエネルギーに満ち溢れるのである!!!

自分の心配ばかりして、自分の権利ばかり追求して、

いつも自分に関心を集中し、ひたすら自分を惜しむ人は、

ついには心身に破綻を期してしまうのである。

自分の思惑とは裏腹に、まさに真逆の結末となるのである・・・・・


献身する命は、大慈悲そのものである。

その命はそのとき、いかなる聖者よりも崇高な境地に到達する。

もちろん献身する命は、その境地を求めて覚悟するのではない。

境地を求めてのものならば、すでに献身とは呼べなくなるのである。

なぜ大自然の命は献身するのか??

それが何故かは、人間には分からないだろう。

その理由は、どんな学者にも分からないだろう。

だが確かに、大自然界では自らの命を、他者に与える場合がある。

病気や怪我で衰弱した状況という意味では無い。それとは違う意味である。

健康体でありながら、我が身を捧げる場合があるのだ。

昔、アメリカンネイティヴの人にも、そのような話を聞いた。

そのような話が、実際に実話としてあるのだという。

いったい何故なのか・・・・哲学者にも分からないだろう・・・・・

それは、「愛」なのである。

そのままの献身という、そのような表現の愛が、ときとして大自然界に現われるのだ。

動物を「生存本能」だけの視座で見る学者たちには、永遠に理解できないだろうが。

「動物機械論」に染まり続けた学問の視座では、その偉大な愛が見えないだろうが。


いや実は、それは大自然界だけの話には留まらない。

「家畜」となった動物たちにも、その愛が秘められているのである。

家畜たちが、なぜ必死に沈黙を努力しているのか、分かるだろうか??

彼らがなぜに狂奔して暴動しないかが、分かるだろうか??

彼らがなぜに渾身の力で猛り狂わないかが、分かるだろうか??

彼らがもし死を前にして本気に抵抗すれば、もし本気に猛り狂えば、どうなるか??

怖いから沈黙する・・諦めて沈黙する・・・それだけだと思っているのか??

家畜たちは、それだけで沈黙するのでは無いのである。

もちろん、殺されたくはない。

当たり前の話だ。話以前の話だ。

もちろん、死は果てしなく恐怖だ。

それまでの道中の恐怖と絶望は、言語を絶したものなのだ。

だが、家畜たちの心の深奥に、もうひとつの心境が隠されている。

「そうですか・・・それほどまでに私の命が欲しいのですか・・・・・」

「分かりました・・・怖くてたまらないけれど、この命を捧げます・・・・・」

もちろん、恐怖で足が竦むから曳きづられるし追い立てられる。

思わず涙も出るし悲鳴もあがる。四肢も硬直して動けなくなる。

だが、その極限状況の中でも精一杯に心を鎮めて、身を捧げる覚悟に入るのである。

極限状況下での、彼らのその崇高な境地を、分かってもらえるだろうか・・・・・・

そこに「祈り」無しには済まされない。

なんで祈り無く見送ることなどできようか。

「感謝」というのは、祈りである。

その命そのものに対する祈りなのである。

そこに祈りさえも無ければ、その命に対する本物の冒涜である。


大自然界の深奥の偉大なスピリットは、

家畜たちの生涯とその最期を見て、何を想い何を考えているか??

献身に対する祈りの実態を見て何を感じているのか??

まず、驚きの目で見ている。

そして耐え難い悲しみに入る。

そして、あることを決意している。

その偉大なスピリットからの伝言は、すでに届き始めている。


なお、「VEGETABILIA」と「ANIMALIA」とは、感受性が異なる。

植物界と動物界が、なぜに異なる感覚を持っているのかは、深い理由がある。

それについては、次回に書く。


≪写真は三日前に撮影≫

■南無華厳 狼山道院■

<2009年7月10日>

自然界の摂理は、途方も無く深遠だ。

途方も無く精緻で、途方も無く絶妙だ。

どんな頭脳を持ってしても、そこには近づけない。

近づいたと思えば、実は遠のいている。

近づいたと錯覚し、実は逆走している。

あまりに無数のファクターが、

無限に相関し、無限に連鎖する。

一瞬一瞬に相関し合い、一瞬一瞬に無限連鎖する。

一瞬後には、まったく新たな世界が登場するのだ。

一瞬一瞬に、新たな世界に変わっていくのだ。

そのたびごとに、調和が成される。

その一瞬ごとに、調和が実現されていくのだ。

あまりにも途方も無い、

あまりにも想像を超えた、

あまりにも異次元のスケールだ。

それを、人為で真似できると思っているのだろうか??

自慢の科学で真似できるとでも思っているのだろうか??


その偉大な摂理は、

いったいなんのために生まれたのか??

いったいなんのために機能しているのか??

そもそもなにが、その摂理を生み出したというのか??

いくら考えたところで、分かりはしない。

なにしろ、人智の領域を超えた世界なのだから。

だが、分かりはしなくとも、「感じる」ことはできる。

「感じる」能力は、人間にも、ある。

だが「感じる」を軽視して疎外すると、その能力はどんどん衰えていく。

つまり、どんどん鈍感になっていくのだ。

鈍感になると、あらゆる方面で支障が出てくる。

「理論」の方向性の判断に於いても、「科学」の方向性の判断に於いても、

やがて必ず支障が起こり、自らの首を絞めることとなる。


説明し難い部分に、不可思議な領域に、「ヒント」が隠されている。

そこにこそ、莫大なヒントが潜んでいるのだ。

人間の理屈で解明できる領域になど、その固定観念の範疇になど、

無限スケールの摂理を知るヒントなどありはしない・・・・


※「痛覚」という感覚がある。

動物に於いて、最も鋭敏な感覚だ。

なぜ痛覚が、最も鋭敏な感覚として与えられたのか??

身体がダメージを負ったとき、それ以上のダメージを防ぐためだ。

「今、身体が傷を負いましたよ。注意してケアしてください!!」という知らせだ。

もし痛覚がなかったら、身体はどんどん壊れていく。

どんどん壊れて、死んでいく。

つまり痛覚は、「生存」に不可欠の感覚だ。

生存を続けるために、痛覚があるのだ。

だからどんな動物にも痛覚が存在する。

足を怪我すれば、足を引きずる。足を引きずって足をかばう。

痛いのだから悲鳴もあげる。痛いのだから苦悶する。

どんな動物も、すべからく一緒だ。


「植物」は、そこを動けない。

植物は大地に生えて、一生そこを動けない。

どんなときも、身に危険が迫っても、そこを動けない。

大地に生えれば、他の生物たちに踏まれることになる。

いつも踏まれる危険性の中で生きていく。

大木は、雷に打たれる危険の中で生きていく。

だが雷鳴が轟いても、大木はそこを逃げることができない。

大木は雷に身を二つに折られても、そこに立ち続ける。

自然界の摂理が、植物に動物と同様の痛覚を与えるだろうか??

自然界が、そんな酷い摂理を機能させるだろうか??

そこを動けない運命の命たちに、ダメージを避けられない運命の命たちに、

敢えてわざわざ、動物と同様の種類の「痛覚」を与えるはずがない。

それでは痛覚を与える意味が、根本から問われてしまうことになる・・・・

もちろん、植物に、意識がある。

「命」なのだから、意識がある。

当たり前の話だ。論ずるまでもない。

ただその意識は、動物のそれとは、おもむきが異なるだろう。

命たちの意識の傾向は、種族によってかなり異なると感じるのだ。

どこがどのように異なるのか?と問われても、答えようがないが・・・・

それこそ、「感じる」しかないのだ。

己の感性の全てを動員させて、感じるのだ。


あなたも、感じるでしょう??

あなたも、感じているはずです。

あなたが動物を目の前にしたとき。

あなたが植物を目の前にしたとき。

あなたが動物を触ったとき。

あなたが植物を触ったとき。

そのときあなたの中でどんな感覚が起こりますか??

そのときあなたの心にどんな反応が生まれますか??

彼らと全霊で対峙すれば、

動物が持つ意識の種類と植物が持つ意識の種類の違いが、分かるはずです。


植物には植物の偉大な使命がある。

動物には動物の偉大な使命がある。

そして自然界の摂理は、その生態に応じて固有の感性を与えた。

植物と動物の感受性はそれぞれに独特であり、

その独特の感受性が、自然界の摂理に組み込まれている。

つまり重大なことは、その感受性を尊重し、それに配慮するということだ。

植物の感受性を知ることは、かなり難しいようだ。

だが真に動物の感受性を知ることができれば、

やがてだんだんと植物の感受性も分かってくるはずだ。


動物が恐怖に悲鳴を上げるとき、激しい痛みに苦悶するとき。

その姿を見て、あなたは何を感じますか??

あなたの心は、どんな反応を起こしますか??

その自分の心模様を、自分で見つめてみてください。

そこに重大なヒントが隠されています。

あなたの心のステージによって、

あなたにとっての動物が、変わります。

あなたにとっての植物が、変わります。

あなたにとっての自然界が、変わります。

動物と植物、それぞれ意識の傾向性は異なれど、同じ「命たち」です。

もし動物の意識と交感できたなら、やがて植物の意識とも交感できるでしょう。


もし交感できたなら、

もしかりに「命を戴く」ときにも、その「戴き方」を配慮するようになるだろう。

いや、それを考えざるならなくなる。

なぜなら命たちの想いが、己の心にダイレクトに流れ込んでくるからだ。

だからそのとき、せめてもの配慮を真剣に考えるようになるはずだ。

自然界は、配慮に満ち満ちている。

人間も少しはそれを見習うべきだろう。


人間はもはや自然界の摂理を逸脱している。

自ら進んで逸脱したのだから、そのリスクを自らで背負うしかない。

しかし人間は、すべての命たちを道連れにした。

人間のその逸脱行為は、すべての命たちの生活を脅かしている。

摂理を生んだ偉大なる何者かも、頭を抱え込んでいるに違いない・・・・


自然界の摂理の根本は、大悲で成り立っている。

大悲というのは、ちょっとやそっとの「愛」ではない。

想像を遥かに超えた途方も無いスケールの偉大な愛だ。

もしその愛を感じることができれば、すべてが変わるだろう・・・・

■南無華厳 狼山道院■

<2008年7月8日>

人間は、権利ばかりを主張しがちだ。

そのような傾向性を強く持っている。

確かに、人間界では搾取が激しいから、

確かに、人間界では横暴が激しいから、

確かに、人間界では支配が激しいから、

だから権利を主張しなければ生き抜けないとも言える。

権利のために闘わなければ生き抜けないとも言える。

人間界で生きる上での、哀しい現実だ。


人間は「譲る」という概念が稀薄だから、

人間は「程度」の微妙なサジ加減が不得手だから、

人間は「ほどほど」を見極める能力が不足しているから、

だから必ず争いになって延々と続く。

つまり、人間は欲が深い。

つまり、人間は加減を知らない。

権力を握った者が権力をエスカレートさせる。

権力の奪還を成し遂げた者が、新たに権力をエスカレートさせる。

譲歩とか・・程度とか・・「協調に於ける微妙な按配」ができないのだ。

それは人間の傾向性だと感じる・・・・


だが、そのような意識では大自然の実像を知ることはできない。

何故なら大自然の本質が、人間界と掛け離れているからだ。

大自然は絶妙な按配の世界だ。

絶妙の配慮、絶妙の間合い、絶妙の譲歩、絶妙の加減・・・神秘の絶妙だ!!

そして何よりも人間界と異なる特徴は、「献身世界」であることだ。

大自然が献身世界であることを、未だに人間は知らない。

大自然に棲む命たちは、その献身の摂理の中で生きている。

大自然に棲む命たちは、誰もがその摂理を知っている。

大自然は弱肉強食世界ではない。

そこは、究極の献身世界なのだ!!

無論、献身の強要など微塵も無い。

当然だ。強要される「献身」などあり得ないのだ。

そこにある献身とは、命の奥底から湧きあがる使命感から生まれるのだ。


人間は大自然から、何も学ぼうとしない。

それどころか、「本能の世界!!」と愚弄する。

<そもそも、この「本能」の解釈が間違っているのだが・・・>

大自然が途轍もない世界だと知った時、人間界は変わるはずだ。

その献身調和世界を知った時、その実践者である野性たちの凄さを知った時、

人間界は衝撃を受けるだろう・・・そして根本的な何かが変化するだろう・・・・

この偉大な調和が、平穏に見える調和が、

命たちの凄まじい献身によって成り立ってきたことを知れば・・・・


野生界は過酷だ。

常に生死が隣り合わせだ。

生涯の半分は空腹の状態だ。

人間界で言うところのリラックスの時間など皆無だ。

だが、誰ひとりとして、不満など漏らさない。

誰を妬みもせず、誰を憎みもせず、権利の主張など振りかざさない。

一言の愚痴さえ漏らさずに、ただ己と対峙する。

己と対峙し、使命と対峙し、生と対峙し、死と対峙する。

献身のために・・・偉大な調和のために・・・偉大な愛のために・・・

美化しているのではない。

これが野生界の実像だ。これが野生界の実相だ。


何故、野生界が存在するのか??

何故、大自然が存在するのか??

大自然の存在の意義は何なのか??

野性たちの存在の意義は何なのか??

私は、感じる。

偉大な次元の偉大な何かが、究極を顕現した。

調和に於ける献身の姿を、ひとつの世界に顕現した。

見方によっては、過酷極まりない。

見方によっては、弱肉強食世界だ。

だがその実相は、究極の献身・究極の愛の世界だ。

人間は、そこから学ばなくてはならない。

この地球上に、途轍もない学びの世界が顕現されているのだ。

人間は、無限に学べる機会を与えられているのだ。

それなのに人間は、その偉大な世界を見下してきた。

そしてあろうことか、延々と破壊した・・・・


大宇宙には、無数の次元世界が展開されている。

さまざまな次元の世界が、さまざまな表現で、さまざまに展開されている。

無限の次元が、無限に展開されているのだ。

地球世界は、その中の、ほんの一場面だ。

地球世界は、大宇宙からすれば「極微」の世界なのだ。

だが、その極微世界にも、無限の真理が隠されている。

大宇宙を貫く真理と全く同質の真理が隠されている。

「 極 大 極 微・・極 微 極 大 」・・・・

極微に極大が宿り、極大に極微が映る。

極微と極大が重なり、極微と極大が一体となる。

大自然に、大宇宙の真理が隠されている。

その真理のハイライトは、「献身」だ。

「個性」は、自我の範囲で生きる時には、本領を発揮しない。

「個性」は、利己主義の範疇では、真髄が現われないのだ。

真の個性は、我を忘れて調和に献身する時に、真骨頂を発揮するのだ。

それを顕現しているのが大自然だ・・・・

野生界の実践者たちは、いつも光り輝いている・・・・

大自然の調和を支える命たちは、いつも光り輝いている・・・・


人間は差別が好きだ。

人間特有の本能とも感じる。

人間は、例えば無名の草花を「雑草」と呼んで嫌う。

意味無く嫌い、そして排他し抹殺する。

普段「植物にも命がある!!」と語る人の中にも、

意外にも雑草を嫌い、入念に草刈する人が多いようだ。

雑草を嫌い、虫を嫌い、意味無く駆除する人の何と多いことか・・・・

だが大自然に雑草など存在しない。

全ての草花が超一等のブランドだ。

全ての存在が偉大な献身者だ・・・・

それに気付かないのは、人間が差別を好んでいる証拠だ。

人間は人間を差別し、異種生命を差別する。

その意識の根本は、全く同根だ。

だが殆どの人は、そこに気付いていない・・・・


人々が口々に「エコ!!」と叫ぶ。

だがその反面、人間至上主義を脱却できずにいる。

どうしても、意識の転換ができない様子だ。

だから言ってることが支離滅裂で矛盾しているようだ。

だが矛盾していても、そんなことは気にしていないようだ。

人々にとって重大なのは、やはり何をさておき「人間世界」なのだろう。

快適な人間世界を維持するために、いくらでも理屈を編み出すのだろう。

だがその意識のままだと、これまでと全く変わらない。

だが意識の変革には、莫大なエネルギーが必要となる・・・・


野生界では、誰もがいずれ食われる。

猛獣であろうとも、最後には食われて献身する。

全てのみんなが、暗黙の了解の中を生きる。

だが人間は、それを拒絶する。

人間は、食われることを絶対に拒否する。

さんざん動物を食って来ながら、自分が食われることが許せないのだ。

或いは、もし動物に食われれば復讐に燃え上がる。

こんな身勝手で特殊思考の生き物は人間だけだ・・・・


私のブログ記事は、積み重ねた実体験と、野性禅の中での感応体験だ。

だから書物からの引用は全く無い。全てが己の実感解釈だ。

そしてその実感は、「華厳」に記された宇宙観と符合する。

華厳には、見事に宇宙の深奥が表現されているが、実感して初めて理解できた。

大宇宙は、「絶対平等の尊厳」を基軸に展開している。

そして大自然にも、その真理が貫かれている。

尊厳に満ちたそれぞれの魂が、学びの旅を突き進む。

虫たちの学び・・鳥たちの学び・・動物たちの学び・・・

学びに優劣など無い。いかなる学びも尊い。

野生界の命たちの渾身の学びの姿を見て、感動せずにはいられない。

彼らの、全身全霊の姿に学ぶ・・・・・

**** WOLFTEMPLE ****

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<2008年6月30日>

W I L D E R N E S S ・・・大自然・・・

野性たちの偉大な母。

厳しく、美しく、そして愛に満ちた母。

静かに、烈しく、そして神秘に満ちた母。


大自然を、心観する。

そうすると、景色が変わる。

より深く、より鮮やかに。

景色が特別な景色になる。

景色から驚異を感じ取る。

そこに何かが潜むことが分かる。

命たちの息遣いが聴こえる。

景色が、命たちであることが分かる。

目に見える命たち。

目に見えない命たち。

スピリット・・と呼べばいいのか??

見える命と見えない命のスピリットが、渾然一体となっている。

野性たちは、このような世界にいるのか・・・・

壮大なハーモニーを感じる。

魂を揺さぶるハーモニー・・・・


魂を揺さぶるハーモニーの中で生きる。

魂を揺さぶるハーモニーの中で生きるには、

己を賭けなければならない。

己を賭けなければ、ハーモニーの中で生きられない。

己の力のすべて。

己の感覚のすべて。

己の気力のすべて。

力の有る無しではない。

力が有ろうが無かろうが、己を賭ける。

最後の力の一滴まで、己を賭ける。

それがハーモニーに生きる者たちだ。

それが大自然の子どもたちだ。

己のために己を賭けているんじゃない。

ハーモニーのために己を賭ける。

偉大なハーモニーへのリスペクト・・・・

そのリスペクトの声に従って己を賭ける。

だから困難に耐えられる。

だから果敢に死と向かい合う。

悩んでいる暇など無い。

迷いの中で停滞している暇など無い。

全ては移りゆく。

次々と移りゆく。

一瞬一瞬に次々と新たな世界が待っている。

次々と新たな世界を生きる。

次々と新たな世界で己を賭ける。

過去に囚われている暇は無い。

一瞬一瞬に己を賭ける。

その今に全てを賭ける。

その今が全てだから。

その今に全てが込められているから。

その今に賭けることが永遠を生きることになるから。

母が、教えてくれた。

母なる大自然が教えてくれた。

大自然に生きる子どもたちは、その教えで生きる。

その教えを胸に刻み、ハーモニーを奏でる。

己の全てを賭けて、ハーモニーを奏でる。

命懸けのハーモニー・・・・

子どもたちが、ハーモニーに命を懸ける。

子どもたちが命懸けで奏でたハーモニー・・・それが大自然の調和・・・

大自然は知っている。

偉大な調和が、命で支えられていることを。

偉大な調和が、命たちのドラマで支えられていることを。

偉大な調和が、命たちの尊い献身で支えられていることを。

母は泣く。

母なる大自然が、泣いている。

子どもたちのことを想って。

子どもたちの渾身の生涯を想って。

子どもたちの、かけがえのない尊い生涯を想って。

母は見つめる。

全ての子どもたちのことを。

ハーモニーの中に刻まれた全ての子どもたちのことを。

レクイエム・・・・

大自然にレクイエムが流れる。

子どもたちが聴いている。

子どもたちのみんなが聴いている。

母の歌を。

母が捧げるレクイエムの歌を・・・・・


母なる大自然と子どもたちは、常に一体だ。

それぞれの命に大自然が宿り、それぞれの命が大自然を支えている。

大自然は、目に見える景色だけではない。

大自然は、命そのものだ・・・・・

**** WOLFTEMPLE ****

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