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1333年
元弘3年/正慶2年
1月
15日
*1陶器城(大阪府堺市)は、鎌倉時代の終わり頃北条氏の家臣陶器左衛門尉の居城でしたが、元弘3・正慶2年楠木正成一族に攻め滅ぼされました。


*1現在、本の丸が東陶器公園となっていて、フェンスと公園(案内)となっているだけ

21日
後醍醐天皇(第96代)の皇子・護良親王の令旨を受けて*1赤松 則村は反幕府勢力として挙兵する。
*1赤松 則村


*2足利尊氏・名越高家は鎌倉幕府の命を受け、反乱軍討伐の大将として、一族・被官以下3千余騎を率い鎌倉から京都都へ向けて出立。

*2足利尊氏


2月
11日
六波羅軍2万が攻め寄せてくるが、赤松軍が得意とした野伏り戦を展開し撃退した

24日 1
後醍醐天皇(第96代)が*1配流先の隠岐を脱出して京へ向かう

*1島根半島北

24日 2
勢いを駆った円心は尼崎の久々知に陣取り、酒部に進出

3月
10日
六波羅軍1万が瀬川に布陣した

27日 1
上方で元弘の乱が起こる

27日 2
足利高氏が鎌倉から派遣された

28日
再起した円心は山崎と八幡に陣取り淀川と西国街道を押さえ兵糧攻めに切り替え京都を攻めたが、六波羅を落とせず八幡で待機
4月
16日(1333年6月1日)
足利高氏、京都着。

27日(1333年6月10日)
*1名越高家、*2赤松則村との合戦で敗死

*1北条氏の一門
*2朝廷側(後醍醐天皇)に組して鎌倉幕府倒幕の挙兵をした人物

5月
4日
新田勢は、由比ヶ浜の家々に火を放ち、愈々北条を追い詰める。

8日

*1新田義貞、*2生品神社(上野国)で北条氏討伐の*2旗挙げ。

*2わずか150騎で旗揚げでしたが、西進して越後の越後・甲斐・信濃の同一族と合流する。

*1武将 正式名 源 義貞

*2群馬県太田市新田市野井町

8日
円心は千種忠顕や結城親光、高氏らに合流して京都 を包囲、六波羅を陥落させた。

9日 (1333年6月21日)
六波羅探題北方の北条仲時一行(*2)432人が*1集団自決した

*1集団自決


(*2)北条仲時以下432名*3墓所

*3蓮華寺

9日
新田義貞ら、利根川を渡って武蔵国入り

14日
合戦前夜、鎌倉軍の北条泰家軍二十万騎は、*1よこやまの道の尾根で息を潜めて一夜を明かした。
*1若葉台〜唐木田

15日
*1分陪河原の合戦 正慶2年
*1武蔵国多摩川畔の分倍河原で、鎌倉幕府軍と新田義貞軍が激突
幕府軍の増援を知らなかった*2新田義貞軍は多摩川で大敗

*2新田軍が幕府軍に対し決定的な勝利を収めたことにより、 幕府軍は完全に守勢に転じたとの意見も

*1現在の東京都府中市

*1分陪河原

相当の死傷者を出したという

16日
新田義貞軍は府中の分倍河原で*2北条泰家率いる幕府軍を下した

*3関戸の戦い

*2北条泰家

*2家臣の横溝八郎などの奮戦により鎌倉に生還。一命を取り止め鎌倉に逃走したが*4横溝八郎、(*4)安保入道父子は*3関戸で*4討死をした

*3霞ノ関(現在の東京都多摩市関戸)一帯

*4横溝八郎之墓(*4)

*観音寺では、毎月16日に供養を行っている

*2北条泰家は鎌倉に逃げ戻った

18日
村岡の合戦(藤沢市)で飽間氏3人が亡くなった

その名前と日付を彫り込んだ板碑

18日 (1333年)6月30日
元弘の乱:鎌倉幕府軍と新田義貞率いる反幕府軍の合戦・鎌倉の戦いが始まる。

21日
*1新田義貞は*2干潮を利用して難攻不落の城塞都市鎌倉を攻め落とした

*2夜半の干潮時(干潮になると海底が現れ陸続きに)、新田義貞軍がここから海伝いで鎌倉市内に突入した

*1新田義貞


22日
ネットから抽出

向こうに見えるのが稲村ヶ崎です。新田義貞は幕軍を撃破しつつ南下し、数日の攻防戦の後、*1稲村ヶ崎の沖合を突破して、こちら側の*2鎌倉に突入しました

*1稲村ヶ崎の沖合を突破(*2)


22日(1333年7月4日)
足利高氏が京都を攻め幕府軍を破り、新田義良が鎌倉攻め落とし鎌倉幕府が滅亡した

鎌倉幕府滅亡 148年間 続いた

22日(1333年7月4日)
鎌倉幕府第15代執権 北条貞顕(56) 死去 自刃

22日(1333年7月4日)

*東勝寺跡

新田義貞の鎌倉攻めにより屋敷を焼かれた北条高時が一族郎党をこの寺院に集め、堂に火をかけて一族郎党800人ともに自害したといわれています

東勝寺
*かつて神奈川県鎌倉市葛西ケ谷にあった寺院で、鎌倉幕府の執権として活躍した北条氏の菩提寺のひとつ。関東十刹の一つであった。
東勝寺で自決した北条一族とその家臣が供養されている。

30日
円心は六波羅陥落後、帰洛の途についた後醍醐天皇に兵庫で拝謁している

6月
鎌倉幕府滅亡後
後醍醐天皇(第96代)が「*1親政」開始
*1天皇が自ら行う政治
*1建武親政と呼ばれる

*1建武政権では、*2足利尊氏の弟の足利直義が執権を務めた。義博は直義の配下として鎌倉にあった。
*2関東支配のため鎌倉将軍府が置かれていた

7月

8月

9月

10月

11月

12月


1333年:後醍醐天皇(南朝の第96代)建武新政府が樹立したが武士の不満が噴出した
武士に十分な恩賞が与えなかったため不遇・不満を招いた

1335年
1月

2月
29日(1336年4月11日)
延元の乱が起こる
足利尊氏 後醍醐天皇(南朝の第96代)に反旗

足利尊氏
足利尊氏は、鎌倉時代後期から南北朝時代の武将。室町幕府の初代征夷大将軍。

3月

4月

5月

6月
後醍醐天皇暗殺計画が陰謀された


7月
23日(1335年8月12日)
*1中先代の乱

*1鎌倉幕府再興のため*2北条時行が残党を集め挙兵し反乱を起こした

北条高時(鎌倉幕府第14代執権)の*2遺児

*2北条時行の軍に破れた尊氏の弟、足利直義は逃れる際に、家臣*5淵辺義博へ*3親王暗殺を命じた

*3護良親王(28)は殺害される

北条時行が鎌倉へ乱入した際に*3足利直義は、家臣 *4淵辺義博(ふちべのよしひろ)に命じ*(ア)幽閉されていた*5護良親王を*(イ)殺害しました。

*(ア)護良親王が幽閉されていた土牢


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24日

25日
鎌倉は二年振りに北条一族の手に奪回された

8月
4日
夜の東京は大雨だった。
暴風のため*1高幡不動が倒壊

*1寺。7年後、真言僧儀海が麓に移し建てた

*1
*1「建武二年(1335)八月四日夜の大風の為、不動堂が倒れた折*2不動尊像が落ちて鼻をついた所と伝へられている」

*2 不動明王


19日
足利軍はついに鎌倉に突入した

9月

10月

11月
25日(1336年1月8日)
三河国矢作川の戦い

12月

1336年:大麻の頒布が広まる
室町時代 大麻の頒布が広く行われるようになる

1336年:足利尊氏が入京する

1336年:足利尊氏十七条の憲法を手本にして、建武式目を定めた
建武 3年
足利尊氏が室町幕府の式目、施政方針を示した式目を定める 建武式目である
聖徳太子の十七条の憲法に影響されたとあり式目は2項目17個ある


後醍醐天皇(南朝の第96代)は、尊氏の離反に対し新田義貞に追討を命じた
鎌倉幕府討伐に貢献した足利尊氏も命令に従わず後醍醐天皇(南朝の第96代)は、ついに朝廷では最大の功労者足利尊氏の討伐を下す。
後醍醐天皇(南朝の第96代)の長子、尊良親王を上将軍とし、新田義貞以下の軍勢をつけた。

1336年:足利尊氏は新田軍を撃破
1月24日(旧暦1335年 建武2年12月11日)
足利尊氏と新田義貞(源義貞)が激突した。足利尊氏率いる北朝側の勝利。静岡県小山町竹之下で「箱根・竹ノ下の戦い」と呼ばれます。
足利軍は、その勢いで京都へと攻め上りますが、天皇方の北畠顕家らの活躍によって敗走します

1336年:後醍醐天皇(南朝の第96代) 二万余騎の勢を従えて比叡山へ、勝利の見通しが立たないため足利尊氏の誘いで和解へ

後醍醐天皇(南朝の第96代)は足利尊氏と和睦することを思いつく 比叡山から下り、三種の神器を足利方へ渡す
後醍醐天皇(南朝の第96代)は恒良親王に三種の神器を渡し皇位を譲った上で、足利尊氏と和解し京都に戻った
光明天皇(北朝第2代)はこれを 偽ものである と宣言
(本物は後醍醐帝が吉野に携えていったという)

1336年:三種の神器の無い状況で光明天皇(北朝第2代) が即位する 再び南北朝分離へ
南北朝時代と言われ2つの朝廷 2つの天皇がいた時代だった 京都に光明天皇(北朝第2代)、吉野に後醍醐天皇(南朝の第96代)

後醍醐天皇(南朝の第96代)は敗北後、吉野で新たな朝廷、南朝を起こし、足利尊氏の作った北朝に対抗し、南北朝時代を迎えることとなります。
この時代は三種の神器が皇位継承の絶対条件ではなかった

1338年:恒良親王(後醍醐天皇の子) 薨去(死去)
5月3日

8月
11日 (9月24日)
足利尊氏征夷大将軍に任命 室町幕府が開かれる

1339年
8月
26日
*1後醍醐天皇(南朝の第96代)は奈良の吉野に逃れるものの失意のうちに吉野で*1崩御

*1崩御された後醍醐天皇

*1「後醍醐天皇は左手には*1法華経の五巻を持ち、*1右手には*1「剣」を握りしめて*1崩御された」と記載されている。

*1天皇陵は通常南向きだが、こちらは*2北を向いています。

*2後醍醐天皇の遺言で*3京都の方角(北)を向いているそうです。

*3最後まで京都に帰れず、京の都に未練を残して*1崩御された。
*1後醍醐天皇は*4空海が唐から持ち帰った法衣を着て、大日如来を示す太陽を冠に戴いた異形の天皇で在ったとされる

*4空海

*4真言宗の祖


1356年
大内義弘 生誕


1358年
1月

2月

3月

4月
30日
足利尊氏(54) 死去
洛中(二条大路高倉)の自邸で亡くなりました



5月

6月

7月

8月

9月

10月

11月

12月




1359年
足利義詮 2代目将軍となる

.


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