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知識人(intellectuals)とは如何なる存在か。様々な識者の見解を経て、サイードが自らの知識人観を提示する。重要と思われるところを直接引用してみよう。 第一章「知識人の表彰」より 私が主張したいのは、知識人とは、あくまでも社会のなかで特殊な公的役割を担う個人であって、知識人は顔の無い専門家に還元できない、つまり特定の職務をこなす有資格者階層に還元することはできない。私にとって何より重要な事実は、知識人が、公衆に向けて、あるいは公衆になりかわって、メッセージなり、思想なり、姿勢なり、哲学なり、意見なりを、表象=代弁(レプリゼント)し肉付けし明晰に言語化できる能力に恵まれた個人であるということだ。 私が使う意味での知識人とは、その根底において、決して調停者でもなければコンセンサス形成者でもなく、批判的センスにすべてを賭ける人間である。ただ単に受け身の形で、だだをこねるのではない。積極的に批判を公的な場で口にするのである。第二章「国家と伝統から離れて」より 自分が属する民族の集団的苦難を表彰(レプリゼント)し、その苦難の証言者となり、いまもなお残る試練の傷痕をたえず喚起し、記憶を更新するという、この重要なことこの上もない責務に加えて、知識人だけがおこなえると、私の信じるものを述べておかなければならない。多くの小説化、画家、詩人、たとえ ばマンゾーニやピカソやネルーダといった人々は、民族の歴史的経験を美的作品に盛り込んだのであって、作品が傑作と認知されるようになったのは、そのあとのことである。したがって知識人がなすべきことは、危機を普遍的なものと捉え、特定の人種なり民族が被った苦難を、人類全体にかかわるものと見做しその苦難を、他の経験の苦難と結びつけることである。第三章「知的亡命―故国喪失者と周辺的存在」より 亡命者はいろいろなものを、あとに残してきたものと、現実に今ここにあるものという、二つの視点から眺める為、そこに、物事を別箇のものとして見ない二重のパースペクティヴが生まれる。新しい国の、いかなる場面、いかなる状況も、あとに残した古い国のそれと引き比べられる。知的な問題として見れば、これは、ある思想なり経験を、つねに、いまひとつのそれと対置することであり、そこから、両者を新たな思いもよらない角度から眺めることに繋がる。この対置を行うことで、例えば人権問題について考える際にも、在る状況と、別の状況とをつきあわせることで、よりよい、普遍的な考え方が出来る。 知識人にとって、亡命者の視点といえるものの第二の利点は、物事をただあるがままに見るのではなく、それがいかにしてそうなったのかも、見えるようになるということだ。状況を、必然的なものではなく、偶然そうなったものとして眺めること。状況を、自然なもの、神から与えられたもの、それゆえ変更不可能で、永遠で、とりかえしのつかないものとして眺めるのではなく、男女が歴史のなかで行った一連の選択の結果であると眺めること、人間がこしらえた社会という事象として眺めること。 私が言いたいのは、知識人が、現実の亡命者と同じように、あくまでも周辺的存在であり続け飼い慣らされないでいるということは、とりもなおさず知識人が君主よりも旅人の声に鋭敏に耳を傾けることであり、慣習的なものよりも一時的なもので危ういものに鋭敏に反応することであり、上から権威付けられた現状よりも、革新と実験の方に心を開くことなのだ。漂泊の知識人が反応するのは、因習的なもののロジックではなくて、果敢に試みること、変化を代表すること、動き続けること、決して立ち止まらないことなのである。第四章「専門家とアマチュア」より したがって、知識人にとって問題となるのは、私が論じたような現代の専門主義(プロフェッショナライゼーション)の障害について語るとき、それを見て見ぬふりをしたり、影響を否認したりするのではなく、専門家をありがたがる価値観とは異なる一連の価値観や意味を表彰するには、どうするかということである。専門主義とは異なる一連の価値や意味、それを私は〈アマチュア主義〉の名のもとに一括しようと思う。アマチュアリズムとは、文字通りの意味を言えば、利益とか利害に、もしくは狭量な専門観点に縛られることなく、憂慮とか愛着によって動機付けられる活動のことである。 現代の知識人は、アマチュアたるべきである。アマチュアというのは、社会の中で思考し憂慮する人間のことである。第五章「権力に対して真実を語る」より 権力に対して真実を語ること。これは、パングロス的な理想論ではない。それは、様々な選択肢を慎重に吟味し、正しい選択肢を選び、それを、最善を為し得るところ、また正しい変化を為し得るところで、知的に表彰することなのである。第六章「いつも失敗する神々」より 理想的には、知識人たるもの、解放と啓蒙を代弁=表彰しなければいけないが、しかし、解放と啓蒙を抽象的なもの、つまり血の通わない天上の神々のようなものとして扱ってはならない。知識人の表彰―これは二つの意味を持つ、すなわち知識人が表彰=代弁する見解、ならびに、その見解を受容者に対して表彰する行為である―は、社会の中で多くの人々が経験しつつあることと有機的に結びつくか。もしくは、そうした経験の有機的な一部であり続けなければならない。ここでいう多くの人々とは、貧しき人々、特権を持たぬ人々、声なき人々、表象=代弁されざる人々、権力なき人々のことである。知識人の表彰は、どれも等しく具体的で生々しい。 知識人として自分には、二つの選択肢がある。一つは、最善を尽くして真実を積極的に表彰することであり、いま一つは、消極的に庇護者や権威者に導いてもらうようにすることである、と。ちなみに、世俗的な知識人にとって、庇護者なり権威者とは、あの神々、つまり、いつも失敗する神々なのである 以上、サイードの熱い講演の具体例を取り上げさせてもらったが、ようするにサイードの考える知識人とは、専門知識で重武装した専門家ではなく、アマチュアであって、比喩的な意味で亡命者的な自由さを持ち、権威によって黙殺されている弱者の側に立ち、真実を公に表彰=代弁する、少数の人間(マイノリティー)のことであると、大雑把には要約できよう。サイードも言うように、こういった姿勢を常に維持する努力というものが知識人には要求されるであろう。権威の側に安住した方が確かに楽である。それに対し常に突っ張り真実を求める姿勢を保つというのは、実はかなり根気のいることであろう。本書を通じ、昨今死語と化せられ、存在意義が曖昧化された「知識人」というものの在るべき姿を、サイードによって具体的に「表彰=代弁」させられ、その「知識人」という抽象的存在であったものの輪郭が、くっきりと浮き上がったような心地がする。
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僕の大好きな本です。周辺者として権威と戦うというサイードの生き方はかっこいいですね。
2008/5/31(土) 午後 3:47 [ リュート ]
そうですね。しかしサイードも結局は偽善者というか、知識人全般に言えることだと思うのですが、やはり識者はいくら理屈をこねようとも、世界を変えることはできないし、結局は何某かの権威に依存するよりほかはないのだと思います。とはいえサイードは立派な方で、尊敬します。
2008/5/31(土) 午後 4:00
訳のわからない主張をする人がいます。難しい言葉を使って説明する人がいます。そういう人は本当の知識人ではないと思います。本書を読んで勉強したいと思います。
いい本を紹介していただきありがとうございました。
2012/6/10(日) 午前 11:12 [ sho**i_se*ban ]