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語り手であるニックが、基本中立的立場を取りながらも成長してゆき、その中で謎の大富豪ギャツビーの真相が次第に明かされてゆき、結末で衝撃のラストを迎える……。 起承転結がきちんと成り立っていて、ベーシックな小説の御手本のような作品だと思いました。翻訳ですら美しいと感ぜられる文章の奥に秘められた、文明社会における貴族への皮肉という主題は、非常に共感出来ました。ギャツビーが東部へ移って来た目的は、率直に言うと、「性欲〈リビドー〉」の為でありますが、それは、アメリカという国全体の文明社会が、欲望という資本主義の名の下、フロンティアを拡大し、高度に促進してきた事実とも、シンクロして考察出来、因果関係を見出せます。日本においても、「上京」という言葉がありますが、その言葉は欲望による功名心を暗示しており、つまりは現代の日本人にも、この作品が持つテーマは、自らの事として普遍的に捉え得るのではないでしょうか。 結末は、物質主義、快楽主義に傾倒し過ぎたアメリカ社会における内的な虚無と、その文明自体の先の見えない不透明さが、切ない形で表わされています。 そうしてぼくは、そこに座って、神秘の雲に包まれた昔の世界について思いをはせながら、ギャツビーが、デイズィの家の桟橋の突端に輝く緑色の灯をはじめて見つけたときの彼の驚きを思い浮かべた。彼は、長い旅路の果てにこの青々とした芝生にたどりついたのだが、その彼の夢はあまりに身近に見えて、これをつかみそこなうことなどありえないと思われたにちがいない。しかし彼の夢は、実はすでに彼の背後になってしまったことを、彼は知らなかったのだ。ニューヨークのかなたに茫漠とひろがるあの広大な謎の世界のどこか、共和国の原野が夜空の下に黒々と起伏しているあのあたりにこそ、彼の夢はあったのだ。 ギャツビーは、その緑色の光を信じ、ぼくらの進む前を年々先へ先へと後退してゆく狂躁的な未来を信じていた。あのときはぼくらの手をすりぬけて逃げて行った。しかし、それはなんでもないーあすは、もっと速く走り、両腕をもっと先までのばしてやろう……そしていつの日にかー こうしてぼくたちは、絶えず過去へ過去へと運び去られながらも、流れにさからう舟のように、力のかぎり漕ぎ進んでゆく。 という最終部の描写で、資本主義の只中にあり、矛盾を感じながらも日々を力の限り走り続けざるを得ない状況の我が身とシンクロされ、感慨深い想いに耽りました。何より、ロストジェネレーションの文学は、現代の日本の状況と似通っており、痛々しいです。フィツジェラルドは、デリダ夫人と、社交界で随分と豪勢な生活をし、最後はアルコール中毒で亡くなりました。そのような一見すると優雅で贅沢な暮らしの中にあっても、内面に住む本当のフィツジェラルドは、こんなにも苦しみ足掻いていたのだ、ということが、この作品を通して暴かれているように思えます。やはり小説というのは、作家の本心が虚構を通じて訴えかけられるものなので、何よりもリアルであり、切実なものであるという感を強めました。 私は村上春樹『ノルウェイの森』がきっかけで本書を読み始めましたが、『ノルウェイの森』の主人公ワタナベ君が言うように、適当にどのページから開いて読んでも、構成が整っている為に、確かに面白い作品です。ギャツビーがGreatであるのは、皮肉を含めた多義的な意味合いが込められていますが、この小説が一番好きだと断言する村上氏も、純粋であり愚かなギャツビーに、どこかしらシンパシーを感じたのでしょう。
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