『サルトルとボーヴォワール 哲学と愛』イラン・デュラン・コーエン監督、仏、2006 昔、大江健三郎の『個人的な体験』を読んで、ひどく印象に残っていることがある。
それは、主人公のバードが、予備校の講義中に嘔吐をしてしまうシーンだ。当時の僕も某予備校に勤めていたので、なんとなく親近感を抱き、いつか教壇で吐いて倒れこんで全身を痙攣させるほどのたうちまわりたいものだと夢想していた。嘔吐とという行為はいつしか「実存」という言葉に結びつき、サルトルの小説『嘔吐』を読んだときに絶頂に達した。個=孤の実存的な主体性を極限まで高め、ついには世界そのものを拒絶するのだ、と。主人公アントワーヌ・ロカンタンのように……。
しかし、この映画を観て、サルトル本人(ロラン・ドイチェ)とロカンタンとはまったく別物だということを知った。サルトルは暗く陰鬱な顔をして、俗世を離れた僧侶のような実存主義者であると、かってに思い込んでいたからだ。なんのことはない。サルトルは女好きで、飲んで踊り騒ぎ、薬をやり名を売る術をたくみに使い、俗人ぶりまるだしなのだ。
それに対してボーヴォワール(アナ・ムグラリス)は、1929年にバリ大学でサルトルと出会ってからも聡明で美しくありつづける。彼女はアグレガシオン(1級教員資格=哲学)で次席、サルトルは主席だった。ふたりは古い男女の関係である結婚制度に抗い、「契約結婚」という形をとる。いまでいう事実婚なのだが、肝心な点は、それをもちかけたのはサルトルの方だったということだ。僕はべつに事実婚には反対ではない。しかし、映画を観る限り、「自由な関係」はサルトルにとって複数の女性に手を出す口実に過ぎなかったのではないかとも思う。俺がどんな女と寝ようが勝手だ、だって、お互いを束縛しないという契約なんだからな!
愛とはそういうものだろうか? 僕には、「思想」がていの良い口実に過ぎなかったように思えてならない。
ボーヴォワールはもちろん嫉妬する。その嫉妬は、別の男を愛することで復讐を遂げたようにも思える。映画での最後のボーヴォワールの表情が、それをすべて物語っている。彼女がどのような顔をしていたか? ぜひみなさんご覧になっていただきたい。少なくともぼくは、ボーヴォワールの味方です。
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サルトルもボーボワールも
僕たちの世代にとっては懐かしい存在
サルトルもボーボワールも知らない世代のために
「超訳 サルトルの言葉」みたいな本が出たら
いいと思うのですが〜〜
2011/12/30(金) 午後 6:14 [ 天 后空 ]
そうですね。
もう一度「主体」をとりもどすには
そういう本が必要かも知れませんね!
2011/12/30(金) 午後 6:22 [ 水縞リョウ ]
Le Cielさんのブログに触発されて
‘晩年のサルトル’を書き込みました
ご笑覧下さい
2012/1/1(日) 午後 10:53 [ 天 后空 ]
ありがとうございます。
勉強になりました。
2012/1/3(火) 午前 8:55 [ 水縞リョウ ]