『サラの鍵』ジル・パケ=ブレネール監督、フランス、2010 大晦日から年初にかけて体調を崩していた僕は、この二日ほど何も食べられず、天井を見つめながらただじっと一つのことを考えていました。それは、「罪」という言葉についてです。
E・レヴィナスは、『存在の彼方へ』(講談社学術文庫、1999)において、つぎのように語っています。
「いうなれば私は、顔が死ぬことに対して責任を負うており、自分が生き残ったことに対して罪を負うているのだ。(略) 近さにおいて、私は「自分が孕みも産みもしなかった」絶対的に他なるもの、〈異邦人〉をすでに腕に抱いている。」(P218) 罪を犯した者はその責任を負う。しかし、その「責任」を司法のレベルで限定させるのと同時に、倫理的に拡張させるという二義的な認識の力をもつことは、現代を生きる僕らにとってどうしても必要なのではないでしょうか。そうでなければ、原発事故もイラク戦争も日本の過去の戦争もナチスのしでかしたことも本当に理解したことにはならないでしょう。ユダヤ人のレヴィナスは、自分以外の親類がすべてナチスに殺されたことで、生き残った者の「罪」をあえて口にします。その思想の厳しさに直面したとき、僕らの思想が真に試されるのです。
映画『サラの鍵』は、1995年のシラク大統領の演説が、監督の強い制作動機になっているそうです(もちろん、原作小説も広く世界に知られていますが)。つまり、「フランス国家」によるユダヤ人迫害への「加担」が表明されたことです。物語は、女性記者のジュリア(クリスティン・スコット・トーマス)が、夫の祖父母から譲り受けたアパートの住人だったユダヤ人一家の謎を解いていくように進行します。1942年、そのユダヤ人一家はパリの“ヴェルディヴ”(冬季競輪場)に収容されます。そのとき10歳だったユダヤ人のサラ(メリュジーヌ・マヤンス)は、幼い弟を納戸に隠し、鍵をかけてしまうのですが……。
10歳のサラに自分の娘の姿を重ね合わせ、胸が詰まるような思いを何度もしました。サラの苦しみの責任は、現代の異国にすむ、この僕にもあるように思います。それはけっして自己を虐げるという意味ではありません。レヴィナスは前掲の本のなかで、ツェランの詩を引用しています。
「私が私であるとき、私はきみである。」 この映画の最後の三十秒に注目してください。そこにこの映画のすべてが凝縮されています。
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