空の話をしないか

本・映画・絵画についてのエッセイです。

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アジアの歴史を知る

世界遺産の旅・慶州

 
 先週、韓国の釜山に行き、主に慶州観光をしてきました。
 
 慶州(キョンジュ)は、慶尚北道南東部の都市で、新羅の都(900年間)でもあった。泊まっていた釜山からは高速道路を使って一時間ほど。ガイドさんは、最近はかなり高層マンションが増えたといっていたが、それでも慶州に近づくほど落ち着いた農村風景が見えてきた。
 
 新羅といえば、日本史の教科書でもおなじみで、とくに6世紀以降伽倻を滅ぼし、中国の唐と結んで百済・高句麗を制服、668年には朝鮮全土を統一したことで知られている。ついでにいうと、663年、白村江の戦いでは日本・百済連合軍は唐・新羅連合軍に敗北を喫している。
 
 世界遺産にも登録される石窟庵は、仏国寺の背後の吐含山山頂にある花崗岩の石窟。8世紀、景徳イメージ 1王の時代に中国の石窟を模して作られた。写真撮影は許されなかったが、円形の内陣の奥に釈迦如来座像を安置し、周壁に十一面観音・羅漢・天部像などが浮彫されている。釈迦如来の額にはダイヤのようなものが埋め込まれており、東の空から太陽が昇るときに、額が煌めくように設計されているという。今は覆いが被されており、それをみることは叶わない。
 
 そこから少し下りると世界遺産の仏国寺がある(写真)。華厳宗の寺で、高句麗の僧我道が新羅に来て迫害され、難を逃れて庵を結んだことに始まるという。現在は大伽藍となっていて、伽藍配置は奈良の薬師寺と同じ双塔式。新羅三重石塔の代表である多宝塔、釈迦塔、西方の一郭にある七宝橋・蓮華橋、さらに正面の青雲橋・白雲橋はきわめて技巧的である。豊臣秀吉の朝鮮侵略戦争のときにかなりの部分が焼失し、日本に持ち出されたものも多い。僕はうかつにもガイドさんに文禄・慶長の役という言葉を使ってしまった。しかし、ガイドさんはすかさず、「壬辰倭乱」という言葉に置き換えて説明を続けてくれた。
 
 数分移動して、大陵苑の天馬塚内部を見学。新羅時代の古墳はほとんどが円墳で、日本との共通点も多いのではないか。食事(石焼きビビンバ)のあとは、慶州国立博物館へ。大量の銅で作られた「聖徳大王神鐘」などは圧巻である。また、天馬塚にも展示されていたが、王侯が身につける金の装飾品、とくに金の帽子などは印象的であった。
 
 新羅時代は仏教が盛んで、女性の王も存在したが、儒教中心の朝鮮時代に入ると女性の地位もかなり低下したとガイドさんから教えてもらった。日本もこの時代に儒教と仏教が入ってきたが、ある程度共通点を見いだせるかもしれない。この日のオプショナルツアー参加者は娘と僕の二人だけだったので、ガイドさんを独り占めにでき、そうとうな歴史知識を教えてもらった。
 
 高麗青磁の登り窯も見学し、少し高価ではあったが、土産に一輪挿しを買ったので満足です。
 
 

柄谷行人『政治と思想 1966-2011』、平凡社、2012

 
 ふと思い立って、名前の変更をしました。よろしく。
 
 本書は1960年のデモに始まり、2011年のデモで終わる。著者の体験を交えながら論じられている。彼が60年安保当時、ブントに参加していたとか、社学同と関係していたとか、個人的には興味深い話が多々あった。新左翼陣営にあって内ゲバなどの暴力を否定する点で、議論がかなり開かれたものになっている。
 
 彼は3.11以降、デモに復帰したという。そもそも日本語では「集会」と「デモ」は区別されていて、日本国憲法第21条の「集会、結社、表現の自由」における集会(assembly)にはデモという意味が含まれているという。そして、「民主主義を殺さないために」彼は次のように指摘する。
 
 「民主主義が活きて存在するためには、代表制でないような直接行動、すなわち、「動く集会」がなければならない。」
 
 政治理論的には『世界史の構造』の解説がわかりやすくなされており、個人的にはいい復習となった。現在の新自由主義とは、たんなる「自由主義」ではなく「帝国主義的」であり、19世紀後半の帝国主義の反復がおこっているという議論は独特である。ということは、つまり、帝国主義戦争がありうるということであり、「戦争を内乱」に転化させたレーニンの再来もありうるということでもある。
 
 しかし、歴史には反復と同時に差異も含まれる。ボリシェビズムでない新たな変革の主体が、いまここに生起する可能性だってじゅうぶんありうるのだ。最近、吉本隆明が亡くなった。しかし、思想が死んだわけではない。第二の吉本、第二の柄谷はいくらでも生まれてくるだろう。2012.3.22
 

雨と革命

『牡牛座 レーニンの肖像』、アレクサンドル・ソクーロフ監督、ロシア、2011

 
 昨日からの陰雨が、なかなか躰になじめずにいた。
 
 記憶は、雨と結びつき、昨夜の味の素スタジアムでさんざん濡れたことをぼんやりと想い出し、また別の場所へと浮遊する。先日の、大学での講義のときも雨が降り続いていた。時折雨に濡れた窓外の講義棟を美しく感じながら、また僕は黒板へと向かった。僕のもつチョークは、濃緑の地に、なめらかな白い線をつくった。相変わらず学生たちはなにを考えているのだかわからなかったが、僕は熱心に、ボリシェビキが権力を握ったときのことを語っていた。
 
 1922年、レーニンは脳梗塞で倒れ、右半身麻痺となり、モスクワ郊外で過ごした。その館はモロゾフ家から接収したもので、実際にこの映画で使用したという。老いたレーニンの言葉は支離滅裂だが、革命家としての威勢が消えたときの方が、なぜか人間味を感じる。なぜかな。僕は英雄レーニンよりも、死にかけて権威の消えた姿に共感する。
 
 クルプスカヤと森に「狩り」をしに行くとき、スターリンとの会話がまったく咬み合わないとき、その底に彼の何ともいえぬもどかしさを感じるのだ。車いすの彼はゆっくりと木立のまえにすすみ、鳥のさえずりに耳をかたむける。そして、森の上空、澄んだ青色の空を見つめ、うす笑いを浮かべるレーニン。彼はなにを思ってこの世を去ったのだろうか? ソクーロフの特殊な撮影技法は、ロシアの大地を幻想的に演出し、観る者を夢心地にさせる。
 
 革命とは、はかない夢だったのだろうか。
 

犠牲の論理を超えて

高橋哲哉『犠牲のシステム 福島・沖縄』、集英社新書、2012 

 
 昨年、新宿の朝日カルチャーセンターで、「犠牲」をテーマにした高橋先生の講座に出席した。2回で完結だったところ後半は出席できなかったので、続きが気になっていた。そんなおり、まとまった形で本書が出たので、ちょうど良かった。
 
 今朝も、かつての原子力安全・保安院の委員長が「寝た子を起こすな」発言をしていたというニュースが流れていたが、この原発問題というのはまだまだいろいろな角度からの考察・検証が必要だろう。本書の特色は、「犠牲のシステム」という日本社会に内在する構造の定式を明らかにしたことにある。それは次の通り。
 
 「犠牲のシステムでは、或るもの(たち)の利益が、他のもの(たち)の生活(生命・健康・日常・財産・尊厳・希望等々)を犠牲にして生みだされ、維持される。犠牲にするものの利益は、犠牲にされるものの犠牲なしには生み出されないし、維持されない。この犠牲は、通常、隠されているか、共同体(国家、国民、社会、企業等々)にとっての『尊い犠牲』として美化され、正当化されている」
 
 この定式は、もちろん彼の以前からの論考(『靖国問題』)から導き出されたものでもある。今度の福島原発の過酷事故で犠牲になったのは、もちろん福島県民である(僕の親戚もそこにいる)。しかし、原発というシステムは、偽装請負をはじめとした被曝労働者、オーストラリアなどのウラン採掘者をも犠牲とし、将来、廃棄物処理場にされようとしている土地(モンゴルには断られた)の人々をも含んでいる。利益を受ける者は東京電力をはじめとした電力会社であり、霞が関であり、利権に群がるハイエナであり、都市部にすむ人々である。そういう意味では、都市に住む僕も加害者ということになるが、それはヤスパースのいう「道徳上の罪」であって、政府・東電の「刑法上・政治上の罪」とは区別されなければならない。つまり、責任の所在をあいまいにしてはならない。
 
 思想的には、石原都知事の天罰論が特殊なものではないことを、本書は明らかにしている。国内外のカトリックやプロテスタント、さらには無教会主義の内村鑑三が関東大震災に際して発言した言説にも共通の傾向があるというのだ。天罰論が天恵論(天罰が下ったのは愚かな人間に罪深さを知らしめたのだ、というような)に反転する。そうした言説は、長崎の原爆が落とされたときにもあった。こうした論理の問題とは、第一に、「生き残った者が死者たちに一方的に罪の犠牲を集中させて語ること」であり、第二に、天罰論と天恵論はその実「決定不可能性」を抱えており、第三に、天罰を都合よく「特定の災害に限っている」ことにある。
 
 もちろん、在日外国人の被災者のことを考えれば、「日本」だけを強調するナショナリズムも危うい。その極端な例が、佐藤優のような「下からのファシズム」の称揚だろう。本書はさらに、「犠牲のシステム」を沖縄の問題にまで拡大するのだが、さしあたっては前半の福島論が重要だと思う(僕は決して沖縄を軽視しているわけではない)。いずれにしても、これから来るであろう「新しいファシズム」が「犠牲のシステム」を不可視に追いやるような動きには、抵抗していかなければならないだろう。権力は核の軍事利用をも、常に念頭に置いているのだから。(2012.3.17)
 
 
 

帝国とよばれた時代

『マチュピチュ「発見」100年 インカ帝国展』、国立科学博物館、2012

 
 アメリカの探検家ハイラム・ビンガムがインカのマチュピチュを「発見」したのが1911年。第一次世界大戦の前で、ざっと100年も過去のこと。それでも、まだまだよくわからない謎は多いらしい。
 
 インカ帝国といえば、1533年、スペインのフランシスコ・ピサロによって滅ぼされた(具体的にはアタワルパ王が絞首刑にされた)というのが有名で、高校の教科書にもお決まりのように載っている。それから、1996年から翌年にかけて、ベル―のフジモリ大統領のとき、「在ペルー日本大使公邸占拠事件」が起こり、そのときの武装組織の名が「トゥパク・アマル革命運動」だったのも記憶に新しい。それらの名前や歴史事象があまりつながっていなかったのだが、今回の企画をみて認識を深めることができた。
 
 とくにスペインによる植民地化と金銀の収奪という図式とは別に、インカ帝国の政治機構がすでに南米大陸において植民地主義的だったこと、さらには「新インカ王朝」においてトゥパク・アマルが最後の抵抗で敗れた時(1572)、従順なインカ王族たちはスペインの下級貴族的な扱いを受けていたことは二重の意味で考えさせられた。つまり、支配・従属関係(インカ王族‐異民族・大衆)がそもそも古来より存在していて、その上に支配・従属関係(スペイン‐インカ)が出来上がり、最後にはスペイン‐インカ王族‐新インカ王朝のヘゲモニー獲得の争いが起こったことになるのだ。多くの一般の民衆は、どんな気持ちでいたのだろうか、最終的にはそこが知りたい。
 
 理論的なこととは別に、豆知識も満載である。インカ帝国の首都クスコは、ケチュア語で「へそ」という意味で、その名の通り政治的な中心。当時の帝国の呼び名は「タワンティン・スーユ」(タワンティンは「4」、スーユは「州」)で、その名の通り「四つの地方」を束ねていた。域内は「インカ道」でつながり、「チャスキ」という飛脚が走りまくって情報を伝達した。インカには文字がなかったので、その情報は「キープ」という結節縄が使われていた。「キープカマヨク」というキープの管理人もいたというから驚きだ。それからミイラの展示にも興味深いものがあり、専門家がCTを撮って研究しているようだが、今後の発見に期待したい。
 
 そして、「チチャ」というトウモロコシのお酒、「インティライミ」(太陽のお祭り)という冬至のお祭り、供物とされたリャマ・アルパカ・子ども、「アンデネス」という段々畑(じゃがいも・トマト・唐辛子など)、「アリバロ」という彩色土器、始祖の名が「マンコ・カパック」……、簡単には覚えきれないほど勉強になりました! 玉木宏解説のマチュピチュの3D映像も良かったです。
 
参考:『インカの謎が、やって来る。インカ帝国展公式ガイドブック』、網野徹哉監修、2012
 
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