空の話をしないか

本・映画・絵画についてのエッセイです。

哲学

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柄谷行人『政治と思想 1966-2011』、平凡社、2012

 
 ふと思い立って、名前の変更をしました。よろしく。
 
 本書は1960年のデモに始まり、2011年のデモで終わる。著者の体験を交えながら論じられている。彼が60年安保当時、ブントに参加していたとか、社学同と関係していたとか、個人的には興味深い話が多々あった。新左翼陣営にあって内ゲバなどの暴力を否定する点で、議論がかなり開かれたものになっている。
 
 彼は3.11以降、デモに復帰したという。そもそも日本語では「集会」と「デモ」は区別されていて、日本国憲法第21条の「集会、結社、表現の自由」における集会(assembly)にはデモという意味が含まれているという。そして、「民主主義を殺さないために」彼は次のように指摘する。
 
 「民主主義が活きて存在するためには、代表制でないような直接行動、すなわち、「動く集会」がなければならない。」
 
 政治理論的には『世界史の構造』の解説がわかりやすくなされており、個人的にはいい復習となった。現在の新自由主義とは、たんなる「自由主義」ではなく「帝国主義的」であり、19世紀後半の帝国主義の反復がおこっているという議論は独特である。ということは、つまり、帝国主義戦争がありうるということであり、「戦争を内乱」に転化させたレーニンの再来もありうるということでもある。
 
 しかし、歴史には反復と同時に差異も含まれる。ボリシェビズムでない新たな変革の主体が、いまここに生起する可能性だってじゅうぶんありうるのだ。最近、吉本隆明が亡くなった。しかし、思想が死んだわけではない。第二の吉本、第二の柄谷はいくらでも生まれてくるだろう。2012.3.22
 

メシアはいまここに

ヴァルター・ベンヤミン『ベンヤミン・アンソロジー』、山口裕之訳、河出書房新社、2011

 
 最近、早朝に時間があるときは、いわゆる「呼吸法」というのをやっている。
 
 一般に禅や西田幾多郎の思想にもあるような「無」の経験を積む、という方法である。宗教にはあまり関心がないので、自分なりの仕方で「無」を創造し、希死念慮のような負のスキーマから抜け出すよう努めている。しかし、そのスキーマは無意識のものであり、努力なしには変えられないので、必ず文字の形で客体化=物象化させ、理性の力を借りてもう一度元のスキーマに戻っていくという弁証法的な方法を採用している。疎外論的だと、現代思想の論客からは批判されそうだが、臨床においては有効である。確かに「覆水盆に返らず」と廣松渉が言ったように、外化されたものは戻らないが、しかし主体の変容を促すことは可能なのだ。
 
 世界が光に満たされ、一瞬が永遠となり、救済の手が精神を包む。
 
 おそらく、ベンヤミンも同じようなことを考えていたのではないだろうか。このアンソロジーでは「暴力批判論」(本書では「暴力の批判的検討」)など既読のものもあったのだが、何か自分の人生にとって大切なものが見つかるかもしれないと思い、時間をかけて通読した。そこで、ベンヤミンの思考の中に一貫したものがあることがわかった。つまり、「いまこのとき」(Jetztzeit)に目を向けることが、メシアによる救済を意味するということである。
 
 彼にとって「神話的暴力」が、法措定的、法維持的なものであるのに対し、「神的暴力」は法や設定された境界を壊滅させるものである。「神話的暴力が血にまみれているのに対して、神的暴力は全く血を流さないまま命を奪い去る」(「暴力の批判的検討」)。神的暴力という表現は謎めいているものの、それは人間が認識できない何かであり、救済の証である。もしかしたら「複製技術可能性の時代の芸術作品」でいわれている「オーラ」(アウラ)を授けるような力なのかもしれない。人類は技術や「進歩」によって世界のオーラを失い、ファシズムによる「政治の美化」をもたらした。それは、人間のなかの「自然」を失ったに等しい。
 
 「歴史の概念について」では、「歴史的唯物論」が神学によって動く機械であるとされている。歴史は、「均質で空虚な時間を満たす」単線的なものではなく、「出来事のメシア的静止」を認めるものでなければならない。だから、ベンヤミンにとって歴史の終局に「最後の審判」=救済が現れるのではなく、「いまこのとき」のなかにそれを見つけるべきものとなる。
 
 僕らは生のなかに自然を、オーラを、「いまこのとき」という名のメシアを取り戻さなければならない。神は「はかなさ」のなかにこそ宿っているものなのだから。
 
 
 

ガヤトリ・C・スピヴァク『ナショナリズムと想像力』、鈴木英明訳、青土社、2011

 
 かつてジョン・レノンが歌ったように、僕らはもっともっと想像力を鍛えなければならない。想像してみる。原発のない世界を、戦争と搾取と貧困のない世界を。そのために必要な武器は、言葉だ。
 
 本書は、スピヴァクがブルガリアのソフィア大学で行った講演の記録である。『サバルタンは語ることができるか』や『国家を歌うのは誰か?』などを過去に読んできたが、本書においても彼女の理論と主張は一貫したものである。講演の最大のテーマは、超越論化されたナショナリズムを「脱-超越論化」すること。グローバル資本とナショナリズムが共謀する世界において、国民国家からネイションを引き剥がすという、「批判的地域主義(critical regionalism)」の可能性を追求する。そして、そのための武器として「比較文学」を通した「想像力」が求められるのである。
 
 ポスト構造主義の思想状況において忘れがちな、国家による「再分配」の問題も、スピヴァクは重要視している。それは、マルクス主義の可能性をも示唆する、彼女の基本的なスタンスだろう。そう、サバルタンとよばれる最下層の人々には、詩の口承と同時に食べることも必要だからだ。
 
 「私に関していえば、私は完全にユートピア主義者です。私は、グローバル・サウスにおいて一団をなす再想像された世界、その実現を未来に見ています。」
 
 もちろん、「再生産〔生殖〕をめぐる異性愛規範」への批判も、ナショナリズム批判と重ねて忘れていない。それは、彼女がフェミニストとして決して外せない論点だからだ。
 彼女がインドのコルカタ(カルカッタ)で生まれ、子ども時代に経験したことを興味深く読んだ。四歳の少女時代、インドが分裂されつつあった時のことだ。インドでの経験からコロンビア大学で英語で教える彼女の生き方自身が、「脱-超越論化」しているようにも思われる。
 
 

宙吊りにされしもの

長谷部恭男『憲法とは何か』、岩波新書、2006

 
 
 本書は、改憲のための、いわゆる国民投票法が成立する以前に書かれているが、現在、日本の憲法第96条(改正規定条項)が論点にのぼりつつあるいまも、重要な示唆を与えてくれる。
 
 著者の主張は、基本的にリベラル・デモクラシー、つまり「立憲主義を基礎とする民主主義体制」(68)を軸に練り上げられている。硬質な文体で議論を積み重ねていく、丁寧な論文集である。だから、96条という硬性規定の改正にも慎重であるし、自民党の「新憲法草案」(2005年)にも批判的である。
 
 一方、議会主義を否定するカール・シュミットの「政治的なるもの(das Politische)」という概念に対しても、慎重な検討をしているのが興味深い。シュミットの、「友/敵」の明確化による国家の強化と、敵対する勢力の殲滅を目指すという思考が、結局、ナチズムやスターリニズムにつながっていくことをも考慮に入れている。ただし、いわゆるコミュニズムとスターリニズムを混同すべきではないだろう。ハーバマスを批判して「討議」よりも「闘技」を主張するシャンタル・ムフなどの議論も実際に重要だからである。
 
 とまれ、著者の結論は、憲法というテクストは「原理(principle)」であり、準則(rule)」ではないというものである。価値を一元化しないリベラル・デモクラシーの立場からすれば、たとえば、9条についても「捨て去る理由はなさそうである」と言いきっている。
 
 憲法をめぐる論点は多様であるが、東日本大震災を経験した我々にとって、いま必要なのは具体的な政治であり、生存権(25条)を保障するという原点に繰り返し立ち帰ることである。
 
 

哲学する者の共同体へ

フッサール、ハイデッガー、ホルクハイマー『30年代の危機と哲学』、平凡社、1999

 
 
 「戦前」を問うことは、「再びの戦前」の只中にある、我々自身の精神のありようを問うことでもある。情報技術革命が非理性的な言説を噴出させる一方、北アフリカにおいては民衆革命を引き起こしたように、科学(技術)の両義性を正しくつかむことはきわめてアクチュアルな問題だと思う。30年代のドイツで、フッサールは哲学の再生に、ハイデガーはファシズムに、ホルクハイマーはマルクス主義に「危機」克服への道を見いだそうとした。では、現在、本書を読むことの意義はどのようなものだろうか?
 
 フッサールは「ヨーロッパ的人間性の危機と哲学」という講演において、第一に、ヨーロッパ人の「精神的目的(テロス)」とその根源をつぎのように問う。ヨーロッパ的人間性の精神的目的(テロス)とは、無限なもののうちに存し、全体的な精神の生成が、いわば秘かに到達したいと願っている無限な理念なのです」。その根源はギリシャにこそ見いだされ、「科学」の根源を原初の哲学のなかに探ることが重要なのである。そして、「未だ哲学的でない人々を、哲学する者の共同体に引き入れる」ことを提起する。哲学は「全人間性の執政官(アルコント)」なのである。第二に、デカルト的二元論の克服について問う。「客観主義」の批判の先に、精神が素朴な外面化から自己自身へと回帰し、そして、自己自身に、純粋に自己自身にとどまる時にのみ、精神は自己を満足させることができる」という結論が導き出される。30年代の「危機」とは、「合理主義の外見上の挫折」なのだから、悪しき「客観主義」とは人間をモノのように扱い、物象化された客体が主体の精神を荒廃させることである。
 
 ハイデガーは、フライブルク大学の総長就任演説(『ドイツ的大学の自己主張』1933)において、血と民族を重視し、ギリシア哲学を志向しながらも結局はドイツ人の「勤労奉仕、国防奉仕、知的奉仕」への「決断」を促すことに収斂していく。精神とは存在の本質にむけての根源的に規定された決意である」というとき、デリダが批判するように、主体(形而上学)への亡霊的回帰が見え隠れする。しかし、ナチスを離れた後期ハイデガー=「転回(ケーレ)」後におけるエッセイ、「なぜわれらは田舎に留まるのか?」は名文である。ラクー=ラバルトが指摘したように、ケーレ後のハイデガーにはテクネー論においてつまずきがありつつも、ここでは、哲学者というよりも文学者のような諦観が感じられる。僕は個人的にこの文章が好きだ。
 
 もっとも重要なのはホルクハイマーである。科学の危機を把握することは、現在の社会状況をとらえる適切な理論に依存している。何故なら、社会機能としての科学は、現在における社会の矛盾を反映しているからである」。つまり、「生産手段」としての科学をとりあつかう経済社会の変革こそが、主客二元論の克服ということになる。こうしたマルクス主義的な議論は、フッサールやハイデガーにはない。しかしそれが、現象学的な問いと接合したとき(廣松渉がかつてそれを試みた)、新しい地平が拓けるのかもしれない。
 
 物象化された科学(資本)の自己への回帰というと、どこかヘーゲル的思考に逆戻りしたような気もする。でも、そう考えると哲学者たちはみな、いまだ「ヘーゲルの弟子」(マルクス)であるのかもしれない。
 
 
 
 
 
 
 

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