空の話をしないか

本・映画・絵画についてのエッセイです。

文学

[ リスト | 詳細 ]

記事検索
検索

全4ページ

[1] [2] [3] [4]

[ 次のページ ]

語りえぬものから

辺見庸『瓦礫の中から言葉を わたしの〈死者〉へ』、NHK出版新書、2012

 
 2011年3月11日。あの日、僕は八王子のビルのなかにいた。
 
 ビルは弓のように撓り、人間が立っていられないほど揺れた。僕は机の下に入り込み、身を小さくしながら底知れぬ焦りを感じた。怖ろしかった。と同時に、死というものはこうやって突然やってくるのだろうかと考えた。周囲の人々も、尋常ではないことを直感的に感じ取っているらしかった。けれど不思議なことに、揺れが収まると、自らの死への関心が消え、すぐに「しまった」と思った。熱を出して学校を休んでいた娘を、ひとりにして家に置いてきたのだ。僕は気が狂いそうになりながら、携帯電話をかけ続けた。ようやくつながると、娘は無事で、高校生の長男も帰ってきたと知り安堵した。
 
 それから仕事をすませ、家路を急いだが、電車は止まりタクシーを待つ長い列ができていた。思案しているうちに、胃痛がひどくなり、薬局で胃薬を買った。結局その日は帰宅難民となり、カプセルホテルに泊まった。コンビニの弁当をビールで流し込み、足元の小さなテレビに釘付けになった。そのときはじめて、東北が大変になっていることを知った。それなのに、薄暗いカプセルのなかは奇妙な安らぎに満ち、夢うつつだった。実は、四月からの予定がなにも決まらず、僕自身の生活が破局寸前にあったのだ。人生の破局とこの国の破局が内奥で折り重なり、自棄的にもなっていた。もう、どうでもいいや、と。
 
 この本を読んで、辺見庸さんの言葉から、言葉の凋落について考えさせられた。主体から疎外された言葉の屍が、人間の屍とおなじようにごろごろと転がっている。彼は、原民喜、石原吉郎、堀田善衛、川端康成、折口信夫らの言葉から、「疎外されざるもの」を探っていた。じつは僕も、去年の秋に抑鬱がひどく、なんとかならないものかと『夏の花』を手にしていた。原爆の悲惨さを描いているはずなのに、僕は自身の底知れぬ不安から抜け出すために、原民喜の言葉をすがるように読んだのだ。
 
 辺見さんは、若い記者が引用した、堀田の言葉、「人間存在というものの根源的な無責任さ」、そしてその「言葉に救われました」という記者の言葉に光を見出していた。そして、辺見さんは、「人間存在」という一般化、普遍化されたものでなく、「わたし」の、一個の主体の無責任さをあえていうことで、言葉の実体を救いだそうとしているようである。もう、どうでもいいや、と思ったあの日のことを、僕は僕なりのやりかたで記憶にとどめようと思う。
 
 もし、それが罪深いことであるならば、自らの罪と責任を自らの言葉で語り、償うほかはない。
 
 
 
 
 

宮崎駿『本へのとびら―岩波少年文庫を語る』、岩波新書、2011

 
 先月、家族で久しぶりに、三鷹のジブリ美術館へ行った。
 
 その日はよく晴れていたので、バスはつかわず、玉川上水沿いを歩いた。ジブリ美術館に行くのは、もう三度目か四度目になるのだけれど、何回行っても飽きることがない。とくに、「土星座」の上映は楽しみのひとつで、そのときは「くじらとり」を演っていた。児童書、中川李枝子・大村百合子『いやいやえん』所収の小さなお話しで、くじらの表情などは宮崎風にアレンジされていた。いま、原作を読んでみると、あらためて、子どもの想像力はすごいな、と感じる。
 
 宮崎駿という人は、子どもの世界というものを、とても大切にしている人だと思う。
 
 本書では宮崎さん自身が少年文庫の50冊を選び、それぞれにコメントを寄せている。それを読んで、僕もけっこう読んでいないものがあるなあと、ため息をついた。彼の文明批評は辛辣で、複製技術の進歩が、人間の「目」を脆弱にしていると指摘する。そして、大きな物語の喪失した現在、小さな物語に閉じこもる現代人に疑問を投げかける。禁煙ブームには、かなりの敵がい心をもっているらしい(笑)
 
 3.11以後、ファンタジーをやる意義がなくなったと、ここでも宮崎さんは語っている。これから長く続くだろう悲惨に対し、現実を直視することがいま必要なのだと。だから、ファンタジーは次の世代が担うべきなのだ、と。ちょっと複雑な思いがするが、次の作品に期待しています。
 
  
 
 
 
 

心のガーデンをもつ

梨木香歩『裏 庭』、新潮文庫、2001

 
 秋の陽光は、涼しげな空気と静かにまじわり、淡い緑を輝かせる。
 
 僕の家の庭も、貧そうではあるが、このときばかりは美しく照らされている。ハーブやミニ薔薇やマリーゴールドやホワイトデライトが、柵のなかで小さく肩を寄せ合っている。なかでも、ツツジ科エリカ属のホワイトデライトは面白い。その釣鐘型の花は、植えたころには白かったのに、気温が下がってくると先端から桃色がかってくる。
 
 毎朝、僕は洗濯物を干し、亀に餌をやり、芝生に落ちた枯葉を拾い、最後に花壇に水やりをする。そうして自分の庭を大切にしていけば、もしかしたら、小説『裏庭』のような不思議な体験ができるかもしれない、と空想してみる。「ありえないことでもないな」と僕はひとりごちる。
 
 物語は、主人公の少女、照美が、かつてイギリス人が住んでいた「バーンズ屋敷」に入り込み、「裏庭」とよばれる別の世界を旅するという展開。現実の世界では、双子の弟が死んでいたり、共働きの両親と心がうまく通わせられなかったりと、けっこういろいろなことがある。しかし、異世界での旅を通して、両親や祖母やイギリス人の一家、とくに裏庭の世話をしていたレベッカとのつながりが鮮明になり、少女は成長していくのだ。
 
 人は孤独である。けれど、根っこの部分では、どこかつながっている。
 そして、自然のすべてとつながっている。光の王国へと。
 
 
 

神秘の海底にたゆたう

小川洋子『猫を抱いて象と泳ぐ』、2011、文藝春秋

 
 ヴァルター・ベンヤミンは、「歴史の概念について」の一行目を次のように書きだしている。
 
 「よく知られていることだが、チェスの名手である自動人形が存在したといわれている。」 
 
 ポーの小説からヒントを得たベンヤミンは、「歴史的唯物論」という人形が、神学という小人によって操られていることを示唆している。「トルコ人」と呼ばれた人形がどんなにチェスが巧かろうと、それを動かす主体が必要だ。それと同じように、マルクス主義という機械にも、メシアニズムを擁する神学が必要だというのである。現代では、それを「倫理」と言い換えてもいいかもしれない。
 
 小川洋子の小説にも、どこか倫理としてのメシアニズムを感じる。
 
 この作品では、ポーのそれと同じように、リトル・アリョーヒンと呼ばれる成長を11歳で止めてしまった人物が、自動人形の“リトル・アリョーヒン”を操りチェスをさすという設定になっている。人形は、実在した「盤上の詩人」、アレクサンドル・アリョーヒンを模して造られたのだが、その名に劣らず小さな少年はどのような対戦相手とでも、美しい棋譜を描いていく。猫のポーンを抱き、象のインディラ、ミイラと呼ばれる少女と共に、チェスという深い海の底でリトル・アリョーヒンはたゆたうのだ。
 
 チェスを教えてくれたマスターが死に、「大きくなること、それは悲劇である」という警句を胸に刻み、少年は生きていくことになる。そうして、「悲劇」は回避され、少年は静かに、とても静かに短い人生をまっとうする。それは、僕にとって、メシアの到来にも思えた。メシアはなにも、全世界を救う必要などない。もっと、個的なものであるべきなのだ。個という小さな生が、小さな幸福に包まれて始原の海に帰っていく。
 
 世間の片隅で遠慮がちに生きていく。僕もこの少年のように生きられたらどんなにいいだろうと、読後もずっと考えている。
 
 
 
 

芥川龍之介『河童・或阿呆の一生』、新潮文庫、1968

 
 熱い日に灼かれていた百日紅の赤い花が、いまでは冷たい雨にうたれ、しおれはじめている。僕はまだ、生きている。スークの演奏する、バッハの「無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ」を聴きながら、またこの場所で何かを書いてみようと思いいたった。七月の終わりにも同じような雨が降り、僕はまた体調を崩し、そのあともずるずるとよくない状況が続いている。けれど、僕はまだ、いまも生きている。
 
 昔読んだ芥川をもう一度読んでみた。『河童』や『或阿呆の一生』は再読だが、『大道寺信輔の半生』『玄鶴山房』『蜃気楼』、そして『歯車』は読んでいなかったことに気がついた。とくに、『歯車』は、芥川の晩年の精神状況がよくわかり、何か底知れぬ不安が表現されているという点で、僕には印象深かった。
 
 「それは僕の一生の中でも最も恐ろしい経験だった。―僕はもうこの先を書き続ける力を持っていない。こう云う気持ちの中に生きているのは何とも言われない苦痛である。誰か僕の眠っているうちにそっと絞め殺してくれるものはないか?」 
 
 この最後の一文に心底から共感できる者は、健常の人には少ないだろう。神を持たず、絶えず戦慄のなかに生き、書くことで生を実感するしかなかった芥川にとって、「理知」などというものは畢竟仮面にすぎない。漱石に認められ、妻子がいて、知の最高峰に立っているということは、世間からみれば羨望の的だったかもしれない。しかし、彼は苦しみながら書いた。遅筆でもあったから、短編しか残さなかった。「ヴェロナァル」など、強い睡眠薬を処方され、いつしか彼はそれを大量に飲んだ。それは、人生の敗北といえるのだろうか?
 
 芥川の死後、数年して、宮本顕治は『「敗北」の文学』を書いた(1929年)。ナップなど、プロレタリア文学が高揚するなかでそれは書かれ、「改造」の懸賞で一等に選ばれた。そこでは、芥川の文学が、「「自己」への絶望をもって、社会全般への絶望におきかえる小ブルジョアジーの致命的論理に発している」と分析される。僕が学生のころにも、「プチブル」という言葉が周囲で使われていた。若いころの僕も、なんとなく芥川に同じようなレッテルを貼ってきたような気がする。
 
 いまは、違う。文学は、個の苦しみの中からしか生まれない。ベンヤミンが言っていたように、言葉は、階級闘争の道具に堕してはならない。しかし、時代はまた、ファシズムに向かいつつある。個の、不安と憂鬱と戦慄のなかで、抵抗の戦線を、言葉の戦線をきずかなくてはならない。無伴奏ヴァイオリンの旋律が終わらないうちに。
 
 
 
 
 
 

全4ページ

[1] [2] [3] [4]

[ 次のページ ]


.
水縞リョウ
水縞リョウ
非公開 / O型
人気度
Yahoo!ブログヘルプ - ブログ人気度について

スマートフォンで見る

モバイル版Yahoo!ブログにアクセス!

スマートフォン版Yahoo!ブログにアクセス!

1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30

標準グループ

登録されていません

Yahoo!からのお知らせ

過去の記事一覧

よしもとブログランキング

もっと見る

[PR]お得情報

数量限定!イオンおまとめ企画
「無料お試しクーポン」か
「値引きクーポン」が必ず当たる!
ふるさと納税サイト『さとふる』
11/30まで5周年記念キャンペーン中!
Amazonギフト券1000円分当たる!

その他のキャンペーン


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事