空の話をしないか

本・映画・絵画についてのエッセイです。

映画

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雨と革命

『牡牛座 レーニンの肖像』、アレクサンドル・ソクーロフ監督、ロシア、2011

 
 昨日からの陰雨が、なかなか躰になじめずにいた。
 
 記憶は、雨と結びつき、昨夜の味の素スタジアムでさんざん濡れたことをぼんやりと想い出し、また別の場所へと浮遊する。先日の、大学での講義のときも雨が降り続いていた。時折雨に濡れた窓外の講義棟を美しく感じながら、また僕は黒板へと向かった。僕のもつチョークは、濃緑の地に、なめらかな白い線をつくった。相変わらず学生たちはなにを考えているのだかわからなかったが、僕は熱心に、ボリシェビキが権力を握ったときのことを語っていた。
 
 1922年、レーニンは脳梗塞で倒れ、右半身麻痺となり、モスクワ郊外で過ごした。その館はモロゾフ家から接収したもので、実際にこの映画で使用したという。老いたレーニンの言葉は支離滅裂だが、革命家としての威勢が消えたときの方が、なぜか人間味を感じる。なぜかな。僕は英雄レーニンよりも、死にかけて権威の消えた姿に共感する。
 
 クルプスカヤと森に「狩り」をしに行くとき、スターリンとの会話がまったく咬み合わないとき、その底に彼の何ともいえぬもどかしさを感じるのだ。車いすの彼はゆっくりと木立のまえにすすみ、鳥のさえずりに耳をかたむける。そして、森の上空、澄んだ青色の空を見つめ、うす笑いを浮かべるレーニン。彼はなにを思ってこの世を去ったのだろうか? ソクーロフの特殊な撮影技法は、ロシアの大地を幻想的に演出し、観る者を夢心地にさせる。
 
 革命とは、はかない夢だったのだろうか。
 

『しあわせのパン』、三島有紀子監督、日本、2012

 
 人生には何度か絶望がある。
 昨日の絶望は、何度目になるだろう、そんなことを考えながら、この映画を観た。
 
 洞爺湖のほとりの月浦というところで、季節が移ろう美しい場所で、水縞夫妻(原田知世と大泉洋)はカフェ「マーニ」を営む。原田知世の淹れるコーヒー、季節の野菜をつかった料理、大泉洋が焼くパンはとても美味しそうで、だれもがちょっと寄ってみたくなるカフェだ。そして、実際に、さまざまな事情をかかえた人々がそこに立ち寄る。
 
 夏に東京から来るOLと地元の若者、秋に母親と離れ離れになった少女と父親、冬に死に場所を求めてやってくる老夫婦、春には……。水縞夫妻は彼ら/彼女らにそっと寄り添い、心のこもったパンや料理を差し出す。あがた森魚のアコーディオンもすばらしい。
 
 水縞くん(大泉洋)は老人にカンパーニュ(campagne)の意味を教える。いまは「田舎」という意味だけれど、ラテン語の語源をたどると「パンを分け合う人」、つまり「仲間」という意味があるという。だから、この映画では登場人物たちがパンを分けて食べるシーンが多く演出される。
 
 夜空に浮かぶ月、緑の草原、凪いだ湖面、風のにおい、そしてパンをめぐる人々の出会い。
 
 そんな、ありふれているようで、僕らが生きている現実の生活では味わえない、とても切ない物語。
 
 僕は映画を観てから、近くの書店で道満晴明『ニッケルオデオン 赤』と柄谷行人『政治と思想』を買い、揚州商人でスーラ―油麺を食べた。それから、乗り換えの武蔵野線の駅のホームで青空を眺めた時、なぜだろうか、ふと涙がでた。無性にカンパーニュが食べたくなったのだ。
 
 その夜は、家族のために少し味の濃いポトフを作り、カンパーニュとワインで映画の余韻を楽しんだ。
 
(C)2011『しあわせのパン』製作委員会
 

『月あかりの下で〜ある定時制高校の記憶〜』演出・撮影・編集:太田直子、日本、2012

 
 少年時代の僕は、ずっと得体の知れない苦しみのなかにいた。苦しみの原因がよくわからなかった。生きづらさは、酒や煙草やアルバイトや音楽や小説に、少年を向かわせた。もちろん、それすらもすべて中途半端だった。生きづらい、苦しい。その理由が知りたくて、東京をとおく離れ、愛知県の大学に入ったのかもしれなかった。苦しみは、ユートピア幻想を産む。トマス・モアが言うとおり、それは「どこにもない場所」だった。そうして幻想は、いつの間にか社会にもまれ、消えた。しかし、少年時代の気持ちは、うすぼんやりとした黄昏のなかにあるけれど、あの「得体の知れない苦しみ」という存在そのものは、けっして忘れることができない。
 
 この映画にでてくる、少年・少女たちも苦しんでいるように見える。多くは中学・高校時代に不登校を経験し、夜間の定時制高校に自分の「居場所」を求めてやってくる。浦和商業定時制課程の、入学から卒業までの4年間の記録がおさめられている。その舞台は、いまはもう閉校になっているらしい。
 
 教室でじっとしていられない、自傷行為、妊娠、親からの虐待、アルバイトで生計をたてる……、そこにはさまざまな背景が映し出されている。しかし、彼/彼女らにとって、この学校は笑顔をとりもどせる場所でもあった。教師たちも熱心だった。もちろん、すべてがハッピーエンドだったわけではない。傷を癒せずに去った子どもたちもいる。それが現実だ。しかし、その現実をうけとめながらも、教師たちは必死に自分の頭でもがく。
 
 平野和弘先生が苦境にある生徒たちに聞かせた、茨木のり子の詩が印象的だった。
 
 「自分の感受性くらい」
 
 ぱさぱさに乾いてゆく心を
 ひとのせいにはするな
 みずから水やりを怠っておいて
 
 気難かしくなってきたのを
 友人のせいにはするな
 しなやかさを失ったのはどちらなのか
 
 苛立つのを
 近親のせいにはするな
 なにもかも下手だったのはわたくし
 
 初心消えかかるのを
 暮らしのせいにはするな
 
 そもそもが ひよわな志にすぎなかった
 
 駄目なことの一切を
 時代のせいにはするな
 わずかに光る尊厳の放棄
 
 自分の感受性くらい
 自分で守れ
 ばかものよ
 
 『永遠の詩② 茨木のり子』所収
 
 まるで、僕自身に突きつけられているような、深い言葉だった。
 
 

 

『聯合艦隊司令長官 山本五十六―太平洋戦争70年目の真実』成島出監督、日本、2011

 
 昨年末、NHKドラマ『坂の上の雲』が三年がかりで終結した。203高地での乃木希典の無謀な戦略がありつつも、東郷平八郎率いる連合艦隊が日本海海戦においてロシアのバルチック艦隊を破る……、そしてなにより主人公の秋山真之の活躍が描かれていた。ただし僕はずっと、非戦論を唱えていた内村鑑三の視点から批判的に観ていた。まあ、小さな国が大きな国に勝ったというナショナリズムの誇示は想定通りなのだけれど、秋山が最後に妻につぶやいた言葉、「もう海軍を辞めたい」という言葉にはそれなりのリアリティを感じた。
 
 戦争では、死体という肉の塊を否が応でも見せつけられるからだ。
 
 東郷から少し時をまたいで、山本五十六という人物が「聯合艦隊司令長官」となった。この映画では、五十六(役所広司)が三国同盟に反対し、真珠湾攻撃を実行した張本人であっても目的は短期間での「講和」であったことが強調されていた。薩長を中心とした陸軍と、五十六のような佐幕派の海軍の対立という構図も鮮明に描かれていた。海軍大臣の米内光正、事務局長の井上成美が五十六に歩調を合わせているのも印象的だ。
 
 機動部隊の司令官、南雲忠一がミッドウェー海戦で負けたときにも五十六は「南雲を責めるなよ」と部下をさとし、お茶漬けを南雲に差し出す。そのときに南雲が泣きながら茶漬けを食べるシーンはすばらしかたった。これがすべて史実であるならば、五十六という人物は相当に人間味あふれた人格者であったということがうかがえる。戦時下における美談は、ソロモン諸島のブーゲンビル島で最高潮に達する。
 
 賛否はいろいろとあろうが、当時の軍人が何を考えていたのかを知る上で、重要な史料になることは間違いない。海軍と陸軍、そして政府、天皇という権力機構の現実がある一方、治安維持法で捕えられた少なくない人々の現実もある。たとえば、山田洋次監督の『母べえ』を対極に据えることで、あの戦争を立体的にとらえることは必要不可欠だろう。
 
 

最後の三十秒が秀逸

『サラの鍵』ジル・パケ=ブレネール監督、フランス、2010

 
 大晦日から年初にかけて体調を崩していた僕は、この二日ほど何も食べられず、天井を見つめながらただじっと一つのことを考えていました。それは、「罪」という言葉についてです。
 E・レヴィナスは、『存在の彼方へ』(講談社学術文庫、1999)において、つぎのように語っています。
 
 「いうなれば私は、顔が死ぬことに対して責任を負うており、自分が生き残ったことに対して罪を負うているのだ。(略) 近さにおいて、私は「自分が孕みも産みもしなかった」絶対的に他なるもの、〈異邦人〉をすでに腕に抱いている。」(P218)
 
 罪を犯した者はその責任を負う。しかし、その「責任」を司法のレベルで限定させるのと同時に、倫理的に拡張させるという二義的な認識の力をもつことは、現代を生きる僕らにとってどうしても必要なのではないでしょうか。そうでなければ、原発事故もイラク戦争も日本の過去の戦争もナチスのしでかしたことも本当に理解したことにはならないでしょう。ユダヤ人のレヴィナスは、自分以外の親類がすべてナチスに殺されたことで、生き残った者の「罪」をあえて口にします。その思想の厳しさに直面したとき、僕らの思想が真に試されるのです。
 
 映画『サラの鍵』は、1995年のシラク大統領の演説が、監督の強い制作動機になっているそうです(もちろん、原作小説も広く世界に知られていますが)。つまり、「フランス国家」によるユダヤ人迫害への「加担」が表明されたことです。物語は、女性記者のジュリア(クリスティン・スコット・トーマス)が、夫の祖父母から譲り受けたアパートの住人だったユダヤ人一家の謎を解いていくように進行します。1942年、そのユダヤ人一家はパリの“ヴェルディヴ”(冬季競輪場)に収容されます。そのとき10歳だったユダヤ人のサラ(メリュジーヌ・マヤンス)は、幼い弟を納戸に隠し、鍵をかけてしまうのですが……。
 
 10歳のサラに自分の娘の姿を重ね合わせ、胸が詰まるような思いを何度もしました。サラの苦しみの責任は、現代の異国にすむ、この僕にもあるように思います。それはけっして自己を虐げるという意味ではありません。レヴィナスは前掲の本のなかで、ツェランの詩を引用しています。
 
「私が私であるとき、私はきみである。」
 
 この映画の最後の三十秒に注目してください。そこにこの映画のすべてが凝縮されています。
 
 

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