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群馬の旅 上毛かるた紀行 30枚目の札 「ほ」は、 「誇る文豪 田山花袋」 です。 {たやまかたい} 高校受験の時、勉強したような してないような。 やっぱり上毛かるたでしか、 聞いたこと無いかな〜。 今回の札は明治の文豪、田山花袋です。 田山花袋は、明治4年12月13日。 群馬県(当時は栃木県)邑楽郡館林市で生まれます。 幼い頃から漢学を習っていた田山花袋は 14歳の時、一家で上京。 19歳で金色夜叉の尾崎紅葉を訪ね、 作家を目指します。 24歳で島崎藤村、国木田独歩と出会います。 その後作品を発表していきますが、 32歳で日露戦争の写真班として従軍。 左端が田山花袋。 その後一番有名な作品、 「田舎教師」を発表。 田舎教師の前に発表した「蒲団」は、 当時の文学界に衝撃をあたえます。 日本での自然文学主義、私小説と呼ばれる分野の始まりです。 折角なので、「蒲団」を買って読んでみました。 自然文学主義は、自分自身の経験を書いた小説。 「蒲団」の内容は、 作家である主人公の下に、弟子になりたいという女性からの手紙。 最初は断る主人公ですが、女性の熱意に負け承諾。 会って見ると、若く美しい。 主人公は、女弟子に下宿させ 妻子と暮らす単調な日々は一転します。 しばらく充実した日々が続きますが、 {実際の女弟子さんと家族} 女弟子に彼氏が。 嫉妬から酒に溺れ、取り留めの無い虚無感と戦う日々。 そして女弟子は、彼氏と出て行ってしまいます。 主人公は、女弟子が使っていた蒲団に顔を埋め 布団に染み付いた女弟子の匂いを嗅ぎながら涙するのです。 性描写は全く無く、唯唯主人公の感情が書き連ねられていました。 {花袋の生家} 自然文学主義は、19世紀フランスのゾラにより提唱された文学理論。 美化を否定し、事実のみを書く物。 ダーウィンの「進化論」もゾラに影響をもたらしています。 日本の作家もこの流れに影響され、島崎藤村の「破壊」や 田山花袋の「蒲団」などが生まれます。 1930年代に入ると、プロレタリア文学が生まれ 自然文学主義と融合し、「プロレタリアリアリズム文学」へと発展。 日本文学は、社会的リアリズム文学へ向かっていきます。 「蒲団」を読んで、時代のギャップを感じましたが、 日本においての自然文学主義の支柱になった事は 理解できました。 しかし200ページにも及ぶ個人感情の羅列。 長かった。 群馬の旅 上毛かるた紀行 31枚目の札 「ま」は、 「繭と生糸は 日本一」 です。
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上毛かるた紀行 は行
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群馬の旅 上毛カルタ紀行 29枚目の札 「へ」は、 「平和の使い 新島襄」 みなさん こんばんは! 久しぶりの休みを利用して、行ってきました上毛カルタ紀行。 今回は、明治維新の偉人 同志社大学の創始者、 キリスト教の伝道師、 新島襄さんを訪ねる旅です。 それでは、新島襄とゆかりのある 群馬県安中市に行ってみましょう! {旧新島邸} 新島襄は1843年、江戸の神田にあった 安中藩板倉家江戸屋敷で藩士の子として 産声をあげます。 幼名七五三太(しめた)。 四人姉妹の後に生まれた男の子。 襄が生まれた時、祖父が、「しめた!」と喜んだ事から 名付けられました。 1864年、日本の夜明けまであと4年。 七五三太、元服を過ぎた21歳の時、 アメリカ渡航を画策し、一人函館に潜伏します。 この頃、脱国は重罪。 1853年、ペリー来航に影響され 渡米を画策した人は多く、 吉田松陰も試みますが失敗。投獄されてしまいます。 函館でロシア領事館の司祭、 ニコライ・カサートキンと出会います。 七五三太はカサートキンに日本語を教え、 カサートキンは弟子になるよう説得。 しかし、七五三太の渡米への意思は固く、 カサートキンはアメリカ渡航に力を貸します。 函館からアメリカ船ベルリン号で上海へ。 上海でワイルド・ローヴァー号に乗り換えます。 {ホレス・S・テイラー船長} ワイルド・ローヴァー号のテイラー船長に可愛がられ 「ジョー」と呼ばれます。 南アフリカを回り、大西洋を渡って ボストン上陸。 {アルフィース・ハーディー夫妻} 船主のアルフィース・ハーディー夫妻の援助で フィリップス・アカデミーに入学。 その後、アーマスト大学、アンドーバー神学校(洗礼を受ける) に進みます。 アーマスト大学では、日本人初の学位(理学士)を取得。 化学の先生は、後の札幌農大学のクラーク博士。 ジョーとの出会いが、クラーク博士来日の 切っ掛けとなります。 {大学とは、当時の文部省の事} 当初、密入国者とされていたジョーでしたが、 駐米大使森有礼から正式に留学生として 認められます。 1867年、ジョーが勉強中 日本は明治に変わります。 1872年(明治五年) 岩倉使節団来米。 ジョーは木戸孝充に語学力をかわれ、 使節団とヨーロッパを歴訪。 {二列目中央黒いスーツは、心の灯台 内村鑑三 その横にひげを生やした 平和の使い 新島襄} 「こ」の札 軽井沢 石の教会の内村鑑三。覚えてますか?(^^) 1874年(明治七年) 11月 横浜港 10年前、一人アメリカに渡ったジョーが、 日本に帰ってきます。 翌年1875年、同志社大学の前身 同志社英学校を設立。 教育者として、大隈重信と親交があり 同志社大学と早稲田大学は、 今でも学生交流制度があります。 1878年(明治十一年) 新島襄が設立した安中教会。 石造りの教会。 幼稚園も併設されています。 132年前に建てられました。 新島襄の生涯を知った後見ると 感慨深いものがあります。 入り口のドアも、味があります。 妻、八重さんとのツーショット。 八重さんは、会津藩砲術師範の娘。 戊辰戦争では、会津若松城に篭城。 男装し鉄砲を持って最後まで戦い、 現代では、「幕末のジャンヌダルク」と呼ばれているそうです。 帰国後、両親と共に安中の旧新島邸で三週間暮らし、 その後、学問、キリスト教の普及活動に奔走。 1890年(明治二十三年)前橋で倒れ 静養先の神奈川県大磯で46年の生涯に幕を閉じます。 波乱万丈の人生、人との出会いの大切さを 教えてもらった気がします。 群馬の旅 上毛かるた紀行 30枚目の札 「ほ」は、 「誇る文豪 田山花袋」です。
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群馬の旅 上毛かるた紀行 28目の札 「ふ」は、 「分福茶釜の茂林寺」です 群馬県の東部にある館林市。 昔話で有名な「分福茶釜」の茂林寺があります。 皆さんはこの昔話を知ってますか? 早速、タヌキがお出迎え。 参道のお土産屋さんも、勿論 タヌキの置物がメインです。 {山門} 昔話「分福茶釜」ともう一つ、「分福茶釜伝説」があります。 少々違いあがるので、紹介しましょう。 先ずは、昔話「分福茶釜」のあらすじ。 昔々、金物を引き売りしていた茂平さんが、 田んぼで罠にかかっているタヌキを助けました。 タヌキは、茂平のかごに飛び乗り、茶釜に化けました。 {本堂と枝垂桜} 家に帰ると、見たこともない立派な茶釜に驚き、 茂平は茶釜を和尚さんにあげました。 和尚さんは、もらった茶釜で茶を沸かすと タヌキは我慢できず、半分茶釜の姿に戻ってしまいました。 {分福茶釜} タヌキは、茂平の家に戻り 「助けてくれたお礼に、半分茶釜の姿で芸をする 見世物小屋をやりましょう」 といいました。 見世物小屋は大繁盛。 茂平とタヌキは幸せに暮らしたとさ。 次に、「分福茶釜伝説」 今から600年程前の応永年間、 茂林寺の開山禅師に仕えた、守鶴という僧侶ががいました。 守鶴はどこからか茶釜もって来ましたが、 何とこの茶釜は、何杯茶を入れても空にならない不思議な茶釜。 それから120年が経ちますが、守鶴は元気。 ある日、昼寝をする守鶴をみると、 手足には毛が生え、タヌキのしっぽが生えてきました。 守鶴は、「我は数千年生きるタヌキなり!」といいました。 守鶴は、インドで釈迦の説法を受け、中国を渡り日本に来たそうです。 この分福茶釜は、八つの福をもたらし みんなに福を分ける「分福茶釜」だそうです。 「分福茶釜伝説」が基となり、 江戸時代に入り、昔話「分福茶釜」が作られたそうです。 僕はこの二つの話、詳しく知りませんでした。 こういった、動物の恩返し物語の根底には、 動物愛護の精神を普及させる狙いもあったそうです。 なるほどね〜。 また一つ勉強になちゃった。 群馬の旅 上毛カルタ紀行 29枚目の札 「へ」は、 「平和の使い 新島襄」です。
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群馬の旅 上毛カルタ紀行 27枚目の札 「ひ」は、 「白衣観音 慈悲の御手」です。 {愛妻ちゃん手作りのおせち} 正月番組にも飽きた? さっきこのお笑い芸人見た気がする〜? と、お嘆きのあなたに贈ります、上毛カルタ紀行! これも飽きた? まぁそう言わないでしばしお付き合いを! それでは行ってみましょう〜! 白衣大観音は、群馬県高崎市の観音山に建てられています。 参道のお土産屋さんには、名物のダルマが・・・ かなりカラフルになってますね〜。 昭和11年に建てられたんですね。 高さは、41.8メートル。 以前行った牛久の大仏様に比べると三分の一ですが、 当時は世界一だったとも言われています。 この人が白衣観音を建てた、実業家井上保三郎さん。 当時の混迷していた世に、一点の光明を点じ、 観音菩薩の功徳を分かち合おうという志から建てたそうです。 参道の入り口から見た、観音様です。 地元の人達には「観音様」」と呼ばれ、親しまれています。 それでもやはり大きいですね。 白衣観音は、日本に二体あり、 ここ高崎と鎌倉に胸像があります。 観音様の胎内に入ってみましょう。 胎内は9階(階段で昇る)まであり、 観音様の肩の高さまでいけます。 各階には、閻魔大王や弘法大師や 色んな人がいます。 当時の建築の様子です。 こんなに沢山の人がお参りしてたんですね〜。 白衣観音は、観音菩薩の母だそうです。 慈悲深い良い御顔ですね。 そして札に詠われる、慈悲の御手。 群馬県民に愛される白衣観音。 観音山に立ち、これからも みんなを暖かく見守ってくださいね。 隣にある慈眼院本堂の鬼瓦。 珍しいので写してみました。 こちらは、狛犬かな? ちょうど、新年にふさわしい札となりました。 子供の頃から何度も行っている、高崎の観音様。 小学校の遠足でも行きました。 個人が建てたとは知らなかったので驚きました。 井上さんの心こそ、菩薩様の現れですね。 群馬の旅 上毛カルタ紀行 28目の札 「ふ」は、 「分福茶釜の茂林寺」です。
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群馬の旅 上毛かるた紀行 26枚目の札 「は」は、 「花山公園 つつじの名所」です。 大掃除でお忙しい皆さん、こんばんは! 明日も明後日も仕事の僕は、日曜を満喫しています。 今回のカルタ紀行の舞台は、つつじの名所で有名な 群馬県館林市にある花山公園です。 つつじと言えば、4〜5月が見頃です。 今回の旅には、皆さんのイメージ力が重要となります。 それでは、行ってみましょう! 到着しましたが、お土産屋さんのシャッターは どこも閉まっています。午後二時。 お土産、売り切れたのかもな〜。 春の見頃には、地元の人は近付かないほどの 大混雑となります。 イメージして下さい。 この日は運良く、フリーパスでの入場となりました。 係員もいない、フリーダムです。 中に入ってみましょう。 つつじが丘の歴史は古く、室町時代から続いています。 昔はつつじが崎と呼ばれていました。 城沼に密生ししていたつつじが突き出す(つつじが丘)地形 となっていました。 1600年頃、 第9代館林城主松平(榊原)忠次の母祥室院殿は、 「つつじの園と呼ばれる所あり、つつじの花盛りのころには、 その景観が城沼に映って美しく、 満開になると見物人が近村近郷から集まり観賞し・・・」 と言ったそうです。 ココからはイメージが大切です。 春には一面がつつじの花に覆われます。 つつじのトンネル。 考えただけで、華やいだ気分に・・・ ちょっとつらくなって来た・・・ マングローブ・・・ ち、違います、つつじです。 猫・・・ カラス・・・ もう限界・・・ 締めましょうか・・・ 城沼には白鳥や渡り鳥が沢山いました。 今は散歩をする人が、チラホラといるだけで 空いてましたね〜。 しかし!春には沢山の人が訪れる花山公園。 ボート遊びをする人も沢山いることでしょう。 { 大正時代の花山公園 } { つつじ満開の花山公園 } 本当は、こんなに綺麗なんです(^^) 群馬の旅 上毛カルタ紀行 27枚目の札 「ひ」は、 「白衣観音 慈悲の御手」です。
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