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群馬の旅 上毛かるた紀行
44枚目の札 「わ」は、
「和算の大家 関孝和」 です。
皆さん、こんばんは。
上毛かるたの旅も最後の一枚となりました。
長い間一緒に旅をして下さった皆さん、
本当にありがとうございます。
それでは、早速行ってみましょう!
関 孝和。
県外の方は聞いたことのある名前でしょうか。
かるたの読み札では、「せき こうわ」と読みますが
本当は、「せき たかかず」さんなんですね。
知らなかった。
関 孝和。
寛永19年(1642年)群馬県藤岡市(江戸生まれ説あり)に生まれる
孝和の生涯について詳しい資料は残っていない。
これは孝和の養子、関新七郎久之が重追放になり、
御家断絶となったからである。
江戸時代以前の日本の数学は、中国から伝来した物であり
幕末以降は、西洋からの伝来である。
江戸時代、そろばんが庶民に広まり
より高度な数学が必要となる。
そこで、日本独自の数学が求められ研究が進んだ。
孝和は養子として関家に入り、
幼少の頃から吉田光由の「塵劫紀」を独学し、
更に高度な数学を学ぶ。
徳川家宣に直訴し、江戸詰めとなり暦学にて功績を挙げる。
1681年、暦の作成にあたり正確な円周率が必要となり、
正131072角形を作り小数点第11まで算出した。
この時に用いた計算法が、
エイケントのΔ2乗加速法
(少ない計算量で数列の収束を早める為のアルゴニズム
{問題を解く為の効率的な手順を定式化した形で表現したもの})を用いている。
この計算法をエイケントが開発したのが、1876年。
孝和は200年前に開発していたのである。
ベルヌーイがベルヌーイ数を発見した同時期に、
孝和は同様の計算法を開発し、
ニュートンやライプニッツより早く
微分積分学を始めている。
関 孝和は、
日本数学史上最高の英雄とされているのである。
先に説明しちゃいましたが、
なぜかと言うと
{藤岡市役所}
藤岡市役所で聞いても、関孝和に関する物が無い。
資料館も記念館のないそうです。
唯一、近くの中央公園に記念の像があるというので、
行ってみました。
中央公園に来ましたが、サッカー場があるだけ。
隅々まで見てみると、
ありました。
最後の札の撮影も終わり、帰ろうかと思った時。
今から25年前、1985年に起きた日航ジャンボ機墜落事故。
群馬県上野村御巣鷹山に墜落。
搭乗員524名中520名の方がなくなりました。
世界最大の犠牲者を出した、航空機単独事故。
その時、犠牲者の方が搬送されたのが
このグランドです。
当時は、藤岡第一小学校の校庭でした。
最後の札めぐりで、この地を訪れるなんて。
不思議な巡り合わせだな、と感じました。
44枚のかるた紀行、全て終了!
終わりました・・・
あっ!
「あ」の札、行ってない!
一枚目は、会社のW先輩に貰った写真から始まって
2枚目の伊香保温泉から旅が始まったんだ。
「あ」も行かなきゃ。
と言うことで、藤岡市をあとにして
浅間山に来ました。
ここは、噴火の時の溶岩で出来た
通称「鬼押し出し」。
これで全て巡りました。
2009年3月8日にスタートして、
1年7ヶ月。
約8000kmの旅。
たくさんの場所、人、食べ物。
知らない事だらけだった地元群馬県。
色んな人に出会い、たくさんの思い出が出来ました。
皆さん、本当にありがとうございました。
でも・・・
次は、何をして遊ぼうか・・・
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上毛かるた紀行 わ行
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