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在日関係

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私は 1960年 昭和35年に 創立された 民族学校に 小学6年生 この 朝鮮人初級学校の 最高学年生になり 卒業時は この学校の 栄えある第一期卒業生になります。
当時は 朝鮮への 帰国運動により 在日朝鮮人帰国事業が最盛期の真っ只中でした。
在日朝鮮人が一番多く住んでいたのは大阪で 大阪市内を中心に 民族学校、朝鮮人学校は 1960年以前から 多数存在していました。
私達の学校は 当時としては 後発創立になる学校でした。 帰国事業と関連して 日本人小学校から 帰国するまでに 朝鮮語を学ばせようとした親達により 入学してきた子供達も多く 学区も 広い学区を持った学校でした。
昭和35年大阪では トロリーバス 路面バスが 動いて時代でした。私達の学校は その年の秋に 自前の土地に新しい学校を作るので 新校舎が出来るまでは 仮校舎で 二部授業を行います。
4月は 午前中は 1,2、3年生が勉強し 午後からは 4,5,6年生が勉強し 5月は 逆になります。何故そのようになったかと言えば 私の 記憶では 朝鮮総連の支部の建物と 民主診療所の 建物の一部を使って 一階をベニヤで半分にし二教室に作り 二階は一つの教室に使います。
二部授業の時も 新校舎の時も 多くの学生達は 大型通学バスを使います。
私の家の近くが バスの発着場で バスに一番に乗り込み 次々と生徒達を乗せていきます。その間 皆で 習った 赤いチョゴリの歌や 千里馬の歌などを大声で合唱した時が一番幸せでした。
題名にあるように 1960年当時 大型バスを 通学用に運営していたのは朝鮮学校の誇りの一つだと私は今でも思っています。私の 当時の同級生 男女十人以上は 北朝鮮に帰国しました。 皆どうしているのだろうか、彼らから見た 私など記憶にはないだろうか .腹に鉄の下敷きを さらしで巻いて 何時も ニンニクの醤油漬けを食べていると自慢していた 名前も記憶にない 北に帰った同級生。
話はは飛びますが 当時の民族学校最高学年6年生は 1960年秋 大阪府連合朝鮮少年団体躯大会の サッカー試合に参加します。 
殆んどが サッカーなどしたことも無い生徒達でした。 サッカー試合に挑んだ 私たちは トレパンに運動靴、思い思いの上着姿。他校の生徒達は 短パンに サッカーが出来る服装でした。
当時の 審判団は 余りにも酷い私達の服装を見て サツカーの試合に出るなと指示します。此処まできて惨めやら 恥ずかしいやらでした。 その時 サッカーでは 日本でも有名な 当時 白頭学院 建国小中高学校の先生が 試合に出てもよいと許可してくれます。 然し試合は 記憶に無いほどの惨めな惨敗でした、
引率の 先生が なけなしのお金を出してくれ  一杯のかけうどんを悔しくて 情けなくて 泣きながら食べた記憶が 未だにあります。
 
 
1961年4月から 民族学校の 中学に 入学し 今日に至る 日まで 民族学校の 吹奏楽部に 対する思い込みがあります。
ウリ学校と 言えば サッカー 、舞踊部に代表されますが 私は  サッカー部と 甲乙つけがたい 存在が 民族学校の 吹奏楽部だと 声を大にして 言いたい。
私の 知る 吹奏楽部員達は 本当に 良く やったと思います。休日でも 大会があれば出向き、 初級学校の運動会にも出向き ひたすら 演奏をしていた 姿が ありました。
私は 言いたい。吹奏学部は 民族学校の 花だったと。
私らが知らない 苦悩や 挫折など 様々な事が あったと思います。しかし今思えば 吹奏楽部の演奏の無い運動会、入学式や さまざまな行事は ありえなかったでしょう、当時は 当たり前のように思い あまり関心も 寄せて貰えなかった 事でしょう。
私の 初中高級学校時代の同級生が 吹奏楽部の部長でした。 彼は 高級学校卒業後 新潟出張所に配置され 帰国船を 歓送する 吹奏楽団の一員になりました。
その後 音信が途絶えて 如何しているのか 級友に尋ねても 皆 知らないと言います。私の推測では 朝鮮に帰国したのだと思っています。
全国の 民族学校の 吹奏楽部 頑張れ 未来の 世界的な 指揮者も 君達の中から!!!!
この映画は 昭和28年 山口県で 起こった 八海事件を 映画化したものです。
主人公が 叫ぶ<<おっかさん。最高裁がまだあるんだ>>が 印象的で 今日まで 記憶しています。
真昼の暗黒
昭和31(1956年)、現代ぷろだくしょん



製作:山田典吾
原作:正木ひろし
監督:今井 正
脚本:橋本 忍
撮影:中尾駿一郎
音楽:伊福部昭
美術:久保一雄


出演:草薙幸二郎・松山照夫・矢野 宣
    牧田正嗣・小林 寛・左幸子
    菅井一郎・内藤武敏・下元 勉
    山村総・夏川静江・飯田蝶子
    北林谷江・殿山泰司・山茶花究
http://nihon.eigajiten.com/mahiru%20ankoku.JPG

〝八海事件〟を冤罪として告発した弁護士・正木ひろしの原作『裁判官』を基に、脚本家の橋本忍が事件を調査し、これは完全に誤審である、という確信のもとに、真犯人の一人以外のアリバイを立証するシナリオを書き今井正が演出した問題作。
金史良(キム・サリャン)作「光の中に
40年前この作品は、なお……
岸野淳子
私と朝鮮とのかかわりは、昭和10年代の小学校で、隣りの席に坐って.いた金花子という黒い目の少女の思い出をのぞけば、金史良が日本語で書いた小説「光の中に」から始まったことは、いまもほのぼのとした記憶として私の中にある。それは私にとって忘れがたく、好きな作品だった。久しぶりに本箱の一番下の段から、この小説がおさめられた「金史良作品集」(理論社・300)をとり出してみると、ザラ紙が日にやけて19596月、第一刷とある。
私が始めてこの本を読んでからおそらく20年の歳月が流れているだろう。その間に日韓条約が締結され、1967年には、私は始めての外国として韓国の土を踏んだ。その重い体験にうながされて今日まで、私と朝鮮との間に切れることのない細い糸をつないできたのだが、私が始めての外国として韓国を選んだことの心の奥に、金史良のこの作品があったことは、たしかだったように思う。当時は、岩波新書の「金史良」(安宇植著・1972年刊)という本もまだ出ていなくて、彼が、戦争中のごく短い期間、日本内地で作家活動をした朝鮮人であったこと以外は何も知らなかったが、金史良という存在が、私のまなざしを朝鮮にむける一つのきっかけとなってくれたのである。
金史良はいうまでもなく、日本語で書いた朝鮮人作家である.(もちろん朝鮮語の作品もある)。彼の系譜につづくものとして、敗戦後から今日にいたるまで、とりわけ70年代には、十指に近い在日朝鮮人文学者の作品が発表され、その世界をかいまみさせてくれている。私は、この欄で今度、彼らの作品をとりあげていきたいと思って、何をおいてもと、本箱から、ほこりをはらって、古い「金史良作品集」をとりだしてみた。そこにおさめられた「光の中に」という作品が、私の心に何を残したかを、ストーリーをたどりながら、再確認することから始めたいと思う。
読み返してみると、意外に短いこの小説(80)は、朝鮮人作家の芥川賞候補として話題をよんだようである。作品集のうしろに書かれた金達寿の「金史良・人と作品」によると−〈金史良が「光の中に」(「文芸首都」19392月号・芥川賞候補作として19403月号の「文芸春秋」に転載)をかいてひろく日本の文学界に登場してきたのは、いわゆる「満州事変」から「支那事変」へと日本帝国主義の中国侵略がすすんでおり、同時にそれが思うようにはならず、抜きさしならぬものとなって、それの解決をいっそう破局的なあの太平洋の戦争に求めてでようとする、わずかばかりの手前のところであった。〉
いうまでもなく時代は、日本が朝鮮半島を植民地として支配し、地図を赤く塗りつぶしていた時のことである。
〈私の語ろうとする山田春雄は実に不思議な子供であった〉という文章で始まるこの小説は、
 金史良=本名は金時昌(キム・シチャン)、日韓併合の4年後の1914年、平壌府に生まれた。1932年渡日、旧制佐賀高校文科乙類、つづいて東京帝大独文に学び、作家活動に入ったが、約2年後の、日本が太平洋戦争に突入した翌日、治安維持法にもとづく予防検束で検挙された。釈放後は朝鮮に帰り、報道班員になって、中国大陸にわたったが、計画どおり脱走して解放区にむかった。解放後は朝鮮民主主義人民共和国で作品を発表し活躍していたが、1950年、朝鮮戦争に人民軍として従軍、祖国の砲煙やまぬ山野で、短い生涯を閉じた。36歳。
 日朝混血児の春雄と、私として登場する朝鮮人の帝大生、南先生とのかかわりを通して、ひき裂かれた存在が、闇から、ほのかな“光の中に”むかうそのありようを描いた物語である。
南先生は、東京・江東区の工場街にある寄宿先のS大学協会で、夜間に英語を教え、そこの子供部にきている春雄と知りあうのだが、もちろん最初は、彼が日朝の混血児だとは知るよしもない。南先生にとって春雄はつぎのようにう「つっている。
〈彼は他の子供たちの仲間にはいろうとしないで、いつもその傍を臆病そうにうろつき廻っていた。始終いじめられているが、自分でも陰では女の子や小さな子供たちを邪魔してみる。また誰かが転んだりすれば待ち構えたようにやんやんと騒ぎ立てた。彼は愛しようともしないしまた愛されることもなかった。見るから薄髪の一方で耳が大きく、目が心持ち白味がかって少々気味が悪い。そして彼はこの界隈のどの子供よりも、身装がよごれていて、もう秋も深いというのにまだ灰色のぼろぼろになった霜降りをつけていた。〉そして自分の家のあかりをけして教えようとはしなかった。
南先生は子供たちに、すがりつかれ、肩にのられ、部屋を占領されるような心やさしい青年であった。同僚たちが、先づそう呼んだということで、朝鮮名の「なん」ではなく、「みなみ」先生と呼ばれ、内心ではそのことが非常に気にかかっていた。無邪気な子供たちと遊ぶためには、その方がいいかもしれないと、無理に思い込もうとし、それでいて〈この子供部の中に朝鮮の子供がいたら、強いてでも自分を南と呼ぶように主張したのであろう…〉という自己弁明も用意していた。
ところが、ある夜南先生の生徒の1人で自動車の運転助手をしていた朝鮮人の青年・李が、挑みかかるような調子で話しかけてくる。若くてはげしい李は、先生が、朝鮮の苗字をかくそうとすることに憤りをぶつける。それに対する南先生の答えは、歯切れがわるい。
〈「例えば私が朝鮮の人だとすれば、ああいう子供たちの私に対する気持の中に、愛情というものの外に悪い意味での好奇心といっていいか、とにかく一種別なものが先に立って来ると思うのです。それは先生として先づ淋しいことです。いや寧ろ怖ろしいに違いない。……」〉
たしかに当時は、朝鮮人も“半島人”という名の日本人であり、南先生の意識のありようは、あえて異をたてることが、許されがたいという状況を反映しているのだろう。だが、窓からのぞきこんでいた春雄が、「そうれ、先生は朝鮮人だぞう!」と叫んだのを聞いた時、南先生は果然と立ちつくしながら、〈…瞬雷光のように俺こそ偽善者ではないかという考えが閃いた。〉植民地の側に生をうけた若い知識人として、民族をうばわれてひき裂かれた内心の痛みが、ここに露呈する。
この一件があって以来、春雄は南先生に、今までにもまして意地悪くつきまとう。彼はこうした春雄の態度から、彼の貧しい一家は朝鮮で移住生活をしていたのかもしれないと思う。ある時春雄は、逃げてゆく女の子を追いかけながら、朝鮮移住の「日本人がよく使う「朝鮮人ザバレザバレ=(つかまえろの意)という言葉を投げつけた。南先生は前後の見さかいなしに頬打ちをくらわす。春雄は涙をおしこらえたような声で叫ぶ。「朝鮮人のバカ」ここまでが、五章あるうちの最初の一章だが、南先生には春雄の本当のことがわからないまま、朝鮮への異常なこだわりに何かの予感を感じている……。
南先生が春雄のことを、もしや朝鮮の子供ではないかと思いいたったのは、先生が帝大の学生であることを知った時の彼の驚きの反応だった。
〈「朝鮮人も入れてくれるかい?
「そりゃ誰だって入れてくれるさ、試験さえうかれば…」
「嘘言ってらい。僕の学校の先生はちゃんと言ったんだぞ。この朝鮮人しょうがねえ、小学校へ入れてくれたのも有難いと思えって」〉ここで、当時の、朝鮮人に対する小学校の側の対応の一端がうかがえるが、おそらくこの小説と同じ時代、私の隣りに坐っていた金花子も、いまにして思えば、こんな疎外
『むくげ』69号1980.8.25より

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