◆モラルなき経営・株主責任不問
福島第1原発からの放射能汚染で、農業や漁業に甚大な被害が生じている。損害賠償のため、東京電力は政府に支援を要請していたが、5月13日、その枠組みが関係閣僚間で合意された。実に驚くべき内容である。関係者の責任を問うことなく、全てを国民の負担に求めている。モラルなき東電救済策は根本的な見直しが必要だ。
まず、基本問題を確認しておこう。しばしば、東電の負担はどこまでで政府の負担はどれだけか、という議論がなされる。実務上の問題として当然、線引きは必要である。しかし、決して本質的な問題ではないとあえて主張したい。東電負担なら電力料金を通して住民(国民)が負担し、国なら税金を通して国民が負担するからだ。要するに範囲や形態の違いこそあれ、全て国民の負担になる。問うべき本質は、いかに国民全体の負担を最小化できるか、である。
東電賠償問題の基本は、公的な性格を負った民間企業が経営破綻のリスクに直面したとき、政府はどう対応すべきか、という点に尽きる。最大8兆円ともいわれる賠償金額は到底、民間企業で負担できるものではない。だが、債務超過に陥った事業者が破綻して清算されれば、二重の意味で大問題が生じる。住民が電力供給を受けられないこと、および被害者が賠償を受けられないこと、である。
◆破綻銀行への公的介入に倣え
こう考えると、東電の問題は債務超過に陥って破綻した金融機関への公的介入と類似している。2003年の足利銀行一時国有化を思い出せばいい。この時、預金保険機構を通じて公的資金が活用された。今回の賠償でも、預金保険機構と同様の機能を果たす「機構」が設けられ、そこに全事業者(電力会社)がお金を出し合い、不足分を国が負担(交付国債を交付)する仕組みである。ただし銀行のスキームとは1点で異なる。関係者の責任が一切追及されず、当事者(株主、債権者など)の負担が求められていないことだ。
閣僚合意の文書を読むと、こうした問題点が実に素直に記述されている。まず、「すべてのステークホルダーに協力を求める」とある。求めるのは、責任ではなく協力だ。そして「電力事業者を債務超過にしない」と記されている。しかし現実問題として、東電は債務超過になると考えられる。だからこそ、国の支援が必要なのであり、さもなければ、そもそも国が心配する必要もない。電力事業者の場合、こうした政策措置は現行法では定められていないので、今回、預金保険法を参考に法律の枠組みを作らねばならないのだ。
預金保険法では、ルールは明確だ。債務超過で株式価値がゼロ以下になったのを確認したうえで、一時国有化し、経営責任を求めて経営陣を替えて、株主も権利を失うことで責任を果たす。国から送り込まれた新経営者(実質管財人)がリストラなどを徹底し、新経営主体に売却する。足利銀行も約2年間の国有化を経て無事、別の民間経営主体に売却された。したがって、東電はなくなるが、関東の電力会社はなくならない。賠償は、国有化した段階で政府が全責任をもって行えばよいのだ。
東電には約3兆円弱の自己資本がある。賠償額が8兆円として、株主が3兆円を負担すれば、国民の負担はその分軽減される。これが、銀行の例から分かるように普通の処理方法といえる。菅内閣のスキームはしかし、関係者の協力は求めても責任は求めない。負担は全て国民につけ回しされる。
◆協力、お願いで逃げる菅政権
こんな、責任を曖昧にした案がほとんど明示的議論もないまま決まった。東電関係者の責任を求めないのは、原子力政策に関する政府・経済産業省の責任に話が及ぶのを避けんがため、と勘ぐられても仕方あるまい。内閣自身にある種の後ろめたさがあるからこそ、官房長官が、とってつけたように銀行の債権放棄に言及したのだろう。もっともその場合も、法律論の常識として、債権者以前に株主責任をまず求めるべきである。
責任を明確にせず、「協力」や「お願い」で曖昧な決着をするのは、現内閣の特徴ともいえる。浜岡原発の操業停止も、首相が中部電力に「お願い」した。節電では経済団体に「協力」を呼びかけ、原発周辺の避難ももとは「自主避難」だった。誰も責任を負わず、なし崩し的に事態が進み、全てが政府の責任回避につながる。東電を一時国有化すれば、情報開示も全て政府の責任になる。現状のように、不都合を何でも東電の責任にすることもできなくなろう。
いま必要なのは、賠償を可能にし新たな民間経営主体に引き継ぐための一時国有化である。これは非常時の対応策として有効だ。そして、新たな民間主体に売却する際に「送電」と「発電」を分離すればよい。いずれも政治の意思で可能なことばかりなのである。
放射能汚染の被害者を人質にとる形で、露骨な東電救済が行われようとしている。東電に甘く国民に厳しい、こうした仕組みは、根本的に修正されねばならない。(たけなか へいぞう)