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先週の土曜日に発症した私のインフルは、月曜に医者に行くと
うっすらと赤い線が出ていて、医者には
「イナビル・・とかやらないで治しましょう」と言われ、1週間かかってしまった。
明日から、学校だが、子どもたちは大丈夫かなと思いながら・・・
***
書きたかったことは違う。
それは、2回も行った町の医院の待合室で聞こえてきた会話のこと。
「もう、うちは、お父さんと子どもがかかって大変」
「予防注射したの?」
「するわけないでしょ、子ども3人で1万円、2回するのよ」
「そうだわね、子どもの医療費はタダなのだから、」
「どうせ、みんなかかるんだもの」
・・・・
保育園も小学校も半分以上の子が休んでいて、
インフルでも登校させる親もいるという。
・・・・
つながらないが
なにか、どこかでつながっているように思うのが
「あおり運転」の事件
「はま寿司」や「すき屋」の動画
そして、
あの悲しい野田の事件
***
なんだろう
何がつながっているのだろう
「想像力」なのだろうか
「こういう風にしたら、こうなる(めいわくになる)」
「こうしないと、きっと、こんなことになってしまうかもしれない」
という想像力が、勝手や自由、
という名のもとになくなってきているように思えてならない。
数年前に書いた自戒の念
自由だけでは生きられない!と知ったのは何時からだろう
あれは、新宿の中学校に通っていたころ。
私自身も、♫尾崎♫に憧れ
そのころは反体制のファークソングを体育館で歌った。
古いが、♫岡林♫や♫拓郎♫に憧れ、学校の壁面に落書きを描いて、
バケツを持たされブラシで消さされた苦い思い出もある。
詰襟の下にはワイシャツだと言われたのにいつからかチャイナを着て学校に行き
パーマをかけた頭は、職員室で見せしめのようにハサミで切られたこともあった。
しかし、校則がなかったらやったのだろうか
初めて手にした生徒手帳の身分証明は何か面映く、
しかし、大人へのパスポートのような気分にさせた。
しかし、そこに書かれている「校則」は読まなかった。
そう、つまり
「校則」やきまりというものは
社会との出会いであり、価値規範(自由にならない、あるときは理不尽なもの)との遭遇だと思う
自分の存在を確かめるために
対立軸を置くとき
それは オトナであり 先生であり、権力であり 規則であった。
そして、その対立軸とどう距離をとり、どうぶつかり、・・・ということを
経験するのが中学、高校なのかもしれない、と今は、思う。
化粧しても
髪の毛が長くても
靴のかかとを踏んでも
「だれかの迷惑にならないんだから」と言う。
迷惑がかからなければ
すべて自由でいい!というのが社会ではないのだから
それにぶつからなくてはいけないし
「迷惑は実は回りまわって、影響という形で人に関わっていく」
ことも知っていくことが必要なんだろうと思う。
縛解一如
という言葉がある。
縛られるから、解かれる自由がある
それは表裏一体。
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