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いつか、書いただろうか?
子どもたちを連れて、日光に出かけたときのこと。移動教室ではしゃぐ子どもたちは、あの頃流行っていた使い捨てカメラを片手にに、東照宮に。ガイドさんの後を追いながら、話も聞かずに近くに寄り写真を撮っている子どもたち。そんな子どもたちに 優しく老ガイドは言った。 「みんなは、眠り猫、逆さ柱と言うけど、 ここの素晴らしさは、全体なんだ。二社 一寺と山の緑、それが大切なんだよ」と 今、いつものロストロで読んでいる本 から、思い出した。 「自分の暮らしの中で、経験のもち方、清濁の感覚、そういった一々に、自分が横切り、また突っ切ってきた風景が係わっている。そのように日々の風景を生きて、一人の「わたし」の経験を心に刻むということを、ずっとわたしたちはしてきたように思います。」 「今は何事もクローズアップで見て、クローズアップて考えるということが、あまりにも多いということに気付きます。クローズアップは部分を拡大して、全体を斥けます。見えないものが見えるようになった代わりに、たぶんそのぶんわたしたちは、見えてるものをちゃんと見なくなった。 風景のなかに在る自分というところから視野を確かにしてゆくことが、今は切実に求められなければならないのだと思います。」(大切な風景・長田弘) 昨日、30歳になる、卒業生と話した。 自分のここからとこれからを話したかったのだろう。わたしなどでよかったのかわからないが、「聞いてほしい」と言われたことが嬉しくて、あの頃、いつも私にもくっついていた目のクリっとした、あのままの笑顔。「今ばかりに、目を向けるのでなく、奥さんとこれからを、少し上から眺めてごらん」と言いたかったが、うまく伝わったかな? |
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