りんとしてにゅうわ

かけがえのないものを見つけたい。

体育科から

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水泳指導

 今日も4人の子が25メートルを泳ぐことが出来た。

 水泳ほど好悪のはっきりしている運動もない。
 毎年、子どもたちにアンケートをとるが、3分の一の子が、嫌いもしくは好きではないと答える。
 それには、様々な要因があるが・・・やはり、泳げる、泳げない、が大きくそれを分かつ主因である。
 私は、他の運動種目については(体育で取り上げるような)、出来る出来ないの考え方より、その運動 の持つ楽しさに重きを置いている。もちろん、水泳ほど、特性の違う、特性を持った運動はないが、水 泳にあっては、「泳ぐ」ということを、大きな目標として考えている。
 それは、水泳そのものが水の中で行うことを前提とした運動だからである。泳げない子は水の中に身を 置くことに恐怖を感じるのである。そして、そこには、命にも関わる危険も常にある。水に身を任せる ことが、この運動の一歩目であると考えるからである。 

 水への恐怖のポイントは、経験が大きいのだが、顔に水がかかる(この場合は目)怖さ、そして、次に耳を通しての水中の違和感、そして、体を、水に任せる恐怖という段階があるように思う。前2段階は、スモールステップの水慣れの仕方と、教師と児童の信頼感がポイントだが、浮き身のポイントは指先の脱力であると考えている。

 そんな中で
  前の時間は、5年生のユイ、6年生のアユミ、
 そして今日は、 4年生のアヤカ、5年生のダイジュ、アユカ、ダイキが、息つぎをしての25メートルを泳ぎきった。
 さて、この次は、6年生の3人に期待!

 中学校ではなかなか、泳ぎの練習という形が、他の要因で阻害されることも多く、出来れば6年生までに25メートルが泳げる経験をさせたい。  あと2回・・・

とび箱運動を終えて

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今日で、5.6年合同の体育、「とび箱運動」が終わった。初め、子どもたちに聞いた。
「とび箱運動は好きですか?」
半分ぐらいの子は 嫌い!と答えた。理由は・・・「跳べないから」
そして、好き!と答えた子たちの理由は・・・  「跳べるから」 
 どうして、この子たちの出会ってきた体育は、出来る、出来ないのイメージを子どもたちに植え付けるのか。とび箱と言えば、「何段が跳べた」「開きゃくが出来た」・・・となってしまう。果ては
「全員が跳べるとび箱」なんて言葉に飛びつく先生が多い。
 4段が跳べる、6段が跳べる・・・モンスターボックスでもあるまいに、なぜ、克服型の運動イメージを持たせるのか。これは、やはり、なんのために体育を・・・ということにつながるだろう。「とび箱」という特別な器具(器械)を使って、子どもたちに日常にはないようなどんな運動経験をさせるのか、しかも、楽しみながら・・・そこから始めなくてはいけないのに。
***
☆たくさんの場をつくって、楽しみながら、出来る技をきれいに・・・という達成型として、子どもたち にイメージさせること。・・・物理的な場づくり
☆どんなふうに出来ているかは、自分ではわからない。だから、友だち、授業の中に言葉が多く飛びかう ように、通信や体育ノートで、良さのポイントを示したり、価値づけたりしていく・・・心の場づくり

:::そんな授業が終わって、子どもたちは、とび箱に対するイメージは変わったのだろうか。明日、もってくる体育ノートは、私にとっての通知表でもある。

全員のビデオと写真を撮りました。今度、掲示します。

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 都内のある学校での体育の授業を参観しての感想・・・
 評価することが出来なければ、教科ではない!と言い切る先生方への自分なりの思い。

 私の学校には、今 48人の子どもたちがいる。喘息や肥満、最近ではとくに心理的な問題(ここでいう問題というのは、本人に問題があるのではなく、我々に問題を投げかけているという意味で)を抱えた児童が増えてきている。不登校、集団不適応、ADHD傾向にある子ども、言葉で括ることは簡単だが、子どもたちは、本来はそれぞれの中で葛藤している。そういった子供たちが入学してくる時、8割の子どもが体育は嫌い!であると答える。つまり、この学級の授業の事前アンケ−トの逆となる。友だちと競走することは、きっと嫌いだし。ましてや、『めあてをもって体育の授業に臨んでいるか?』そんな子は皆無に等しい。
 それは、何故か、                          
 一つは、運動への負のイメ−ジと経験である。病弱という周囲の配慮?からくる運動経験の不足であり、更に運動は自分にとってマイナスであるというイメ−ジ・・・・やらせてもらえない、太り気味だから動きが鈍い、持久力がない『喘息の子は体育の時間は?無理をさせない』そんな中で、きっと この学級のアンケ−トでも、『疲れるから、足が痛くなるから』の4人や、少数の足が遅いから、馬鹿にされるから、そんな子どもが目の前にいる。
 もう一つは、体験の不足。これは、いま話した、経験とは違い、体で体感したことによる体育・運動へのイメ−ジそのもの・・・逆さになる、全力で走る、体を支える、飛び下りる、そんな、体が感じる実際。塀がないから飛び下りないし、飛び下りたら膝が顎に当たって唇が切れた体験もない。柿の木が折れて、体を打ちつけたことも、祭で、綿菓子のビニルを破って、全力で逃げたことも、そういうこと( これは私の体験ですが )が自分の周囲に転がっていない子どもの世界 その中での、病弱な子ども。   そして、やはり伴った体力ということ。全力で走れない、長い距離は走れない。すぐに苦しくなる。素早く動けない、そういう子どもたちがいるということ。しかし、これは、その子にとってどうかということであって、他の子との比較で考えることではない。  
 本校の子どもの現状は以上の通り。しかしながら僅か数カ月で、殆どすべての子どもが運動を好きだと言うようになる。そして、毎日、休み時間は校庭で遊ぶようになる。それは何故か、簡単に言うことはできないが、キ-ワ-ド はやはり『関わり』だと思う。昔から、初対面の人や親戚の人とかに合うと、『お勉強は何が好き?』なんて聞かれたもの。そういう時は決まって「体育が好きです。」なんて答えた覚えがあるのでは。『算数』なんて言うよりは、『体育』と言った方が無難だったりした。つまり、その事は、子どもの体育へのイメ−ジがあると思う。最近は、体育や体を動かすことが嫌い!と平気で応える子も多いらしい。これは、世の中の指向性の問題なのだろうか。        
 そこで、我々が、もう一度立ち返らなければならない問題として、『体育の教科としての特性』ということではないだろうか。 他の教科と違うことは何か?本来、算数や国語における『読み書き算』が基礎基本とされてきた時代から、体育という言葉が先に入ってきて、教科として位置付いた。運動系統として体育、生涯スポ−ツとしての体育という縦の関係でなく、子どもが今、目にしている教科として体育の特性を考えて見たい。それを明確にしてないで、どうして、横並びに、体育の基礎基本とか、評価とか、他教科と同じように論じることができるのであろうか。
 私は体育の教科として   
 体を動かせる
 体から発せられる言葉がある 表情がある。          
 体感がある かかわり合いがある     
 そこに、やり遂げた充実感や達成感と大きな所属感が生まれ   自分自身の存在を確かめられる。             →このことを、他の教科とは、大きく違う大きな特性だと考えたい。

体育科で何を!

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   体育科で何を求めるか

 前回の指導要領の改定に伴って、「学び方・心と体」が重視された背景には、それまでの技能やステップ学習重視体育への反省の念が強くあると思います。しかし、未だにそれぞれの学校において、従来どおりに低学年であっても技能を中心に考える傾向が多く見られます。技能を如何に上手に指導するか、ということで、体育を指導する教師の価値が判断されてしまったり、教え方が上手であるとか、先生自身が技能を有しているとかいうことで授業の善し悪しが決まったりすることがあるのではないでしょうか。技能を重視するということがいけない、とは考えてません。本校のような病弱養護学校にあって、入学する子どもたちの 『“生きる力”の上に立った運動』についてどう考えていくことがよいのでしょうか。(是非ご意見を!) 特に、学生時代に運動をしてきたような先生は、自分自身の運動経験を子ども達に伝授することで満足します。子どもたちは、新しい、珍しいという興味を持つことがあるので、それを勘違いしてしまい、楽しんでいると思ったりします。よく、中学校の先生とかにで、授業は殆ど自習が多いのだけど、部活動になると非常に手腕を発揮する先生がいます。そして、そういう先生は学校外において受けもよく、力のある先生だと言われることが多いのです。また、高校の先生の中には、選手あがりのような専門的な人が多くて、その種目ついては技能を教えられるが、他の情報を与えることができないことがあります。我々、小学校における体育科の学習場面においても、それに似たようなことがあるのではないでしょうか。         
 例えば、サッカ−型授業において、今はゲ−ム中心で行われるようになってきましたが、少し以前(いや今でも)までは、練習カ−ドや2対3の攻防などを教師が示して、動き方などを練習させ試合ののぞんでいくというやり方がはびこっていました。そして、少し、体育をかじった先生になると、チ−ムごとに練習をさせて(カ−ドなどを提示して)ここ言います。「それでは、今まで練習してきた攻防を使って試合をしてみよう。」しかし、私自身の経験でも、練習のいきた試合をすることはできませんでした。偶然、いや一度ぐらい上手な子が、センタリングをして女の子がシュ−トしたりすると、練習の成果!だと勘違いしてしまう。先生が意図してきたゲ−ムができないから、子どもたちとともに“ねらい”や“課題”を持つことを忘れてしまいます。そうすると、先生は、「なんで、教えたとおりにできない!」と考え、態度や言葉に出して興味・関心を損ねてしまうことがおおいのではないでしょうか。       

 技能重視から脱却する方法と、考え方として二つの側面があると思います。             

一つは、子どもたちに任せるだけの教師の“引き”を持てることです。それは、放任ではなく、十分な教材研究も技能研究もその“引き”のためにあると考えるのです。大切なことは、子どもたちがサッカ−やバスケットや跳び箱で素晴らしいプレ−を見せたり、全員が跳べたりすることではない!という意識の変革をもつことだと思うのです。つまり、国語でも言われることですが、『学び方』を身につけることを重視するのです。自分たちから情報を求め、自分たち(ある時はチ−ム)から練習の必要性を感じ挑戦していく姿をどんな種目でもいいから身につけさせることが大切なのではないでしょうか。練習カ−ドが悪いのではなく取捨選択する物理的、精神的な場を子どもたちが持てるような授業計画を組み立てていくことです。跳び箱をやるとき、人数が少ない我々のような学校ですと、たてに2〜3台の箱を並べて、一斉に台上前転をさせちょっと不器用な子には補助してあげています。補助が必要だと感じるのは先生であって、子どもたちに場を選ぶだけの情報は与えられていない訳です。『個に応じて』という名のもとに、体育で行われている授業の多くは、できない子を如何に励まし、補助していくかということにつながって考えられがちですが、そうではないのです。一人の子が自分の能力を知り(気づき程度でもいい)、その能力、興味に応じて、場を選択したり、時には、その練習をやめてしまったりする姿勢を教師が認めることなのです。それを、私は教師の“引き”と呼びたいのです。情報とは、子どもたち相互の関係(コミュニケ−ション)もありますし、技能的なものもあります。また、興味をもたせるためのチャンピオンスポ−ツ的な事柄も含まれるでしょうが授業中では、練習する場づくりと心の場づくりが中心的な課題となってくると思います。       
     
 次に、技能重視の考え方を考え直す見方として、子どもの発達段階という問題があると思います。   肥満の子や運動経験の少ない子を抱えている病弱の養護学校にあっては、鉄棒、跳び箱といった種目はあまり好まれていないようですが、きらいならやらせなくてもいい!ということでもないと思います。究極的には、子どもたちがいろいろな運動刺激に出会うことが大切であって、高学年に進むにつれ、その運動の持つ文化的な遺産というか、機能的な特性なようなものに触れられれば良いと思っています。しかし、実際に教えていてこんなことはありませんか。学級で殆どすべての子が逆上がりができない、跳び箱の上に乗っかってしまう、怖くて手がつけない、開脚前転の時に脚が開かない・・・。そういう時、先生方はいろいろと試行錯誤しながら『〜〜〜すれば全員ができる』といった指導にとびついて、情熱的な教師ほどやらせる喜びに浸ったりします。そして、結果、ある方法を行うと、今まで出来なかった子の内何人かは変貌するわけです。それは当たり前で、どんな技能にもコツというものがあって、教師がそれを学習して子どもに提示してあげれば、数人、ある種目では全員近くまでできるようになります。      だが、そこにあるのはやらされた達成感であって、自らが克服したというよな充実感ではないはずです。逆あがりができないのは、1〜2年生の時に登攀棒やろくぼく、ジャングルジムなどの固定遊具や木登りなどを通して十分に逆さになる感覚が出来上がっていないからであり、高学年になっても、そういう段階的な慣れを子どもたちに経験させてあげれば、筋力の問題でなく、できるようになるものなのです。いや、できないにしても、逆あがりをするということは、一つの『感覚』を培うものであって、何も鉄棒の選手になることが目標ではないはずなのだから、出来なくてもそういう運動(ブタの丸焼きでもいいから)を楽しんで行わせればよいと思うのです。

また、マット運動における開脚の動きについても、肥満児だからとか言いますが、それは間違いで、相撲の練習にある股割りのように継続した練習の成果で股関節は柔らかくなるものなのです。脚が開かない股関節の固い子に、いくらつま先のコツを教えた所でできるようにはなりません。それも、また、低学年からの基本の運動や遊びの中で培っておくべきものであって、それを理由にできないことを指摘される子どもは悲劇的です。                                      

 スポ−ツテストをすると、50メ−トルやソフトボ−ル投げで差異があります。肥満の子どもがどんなに指数を下げたところで、7秒8で初めから走れる子どもに勝つことはなく、筋力にしても45メ−トルをすぐに投げせることは無理です。だから、技能の考え方を、優れているとか、劣っているといった評価の仕方で評定をつけること自体に意味があるとは思えません。10秒で走る子は10秒の力の中で何をねらうのかということをはっきりと持たなくてはいけないのです。ですから、障害走や高跳びなどにおいては、個々の目標を設定したりします。その目安は身長であったり、走力であったりするのですが、ただ、これもまた、記録ののびだけでは評価できないことは言うまでもありません。マット運動にしても、跳び箱運動にしても『できない』『下手だ』ということをどうとらえるのかということです。7段の飛び越しができたとしても『巧い』『下手』はあります。マットでも、前に述べたとおり、技の優劣はあるわけです。人間はみな違いがあるという所から出発できない教師が多すぎるような気がしてなりません。「一生懸命にやって、でも、できない。だけど、ぼく楽しいんだ。今度もやるぞ!」そんな思いを持って授業ができる子が、クラスに何人いるのか、そして、それを先生自身がどれだけ認めてあげることができるかということが大切なのです。運動感覚が良いのは本人のがんばりの問題ではなく、運動意欲を持てるのは、本人のがんばりとそれを支える環境であるということを忘れてはならないはずです。         

 技能と授業における子どもの考え方についての私見を述べてきたわけですが、極論も多くあり、こうしてあとになって読み返してみると、自分自身の中でも問い返してみたくなる言葉もあります。しかし、『個性化』ということが全面に押し出されて、体育や自立活動を語る時、我々は全体像としての子どもを常に念頭においておかなければならないのではないでしょうか。今、体育を学んでいると考えている先生方の中には、恐れ多い言いかたですが、教授の技能に遊んで、教師自身の知識にあぐらをかき、テクニックの中で子どもたちを泳がせている人もいるのではないでしょうか。(かくいう私もその一人かもしれませんが)ですが、評価→評定、興味・関心、個性化、そんな言葉をもっと子どもたちの『学び手』として力を大上段に据えて考えていきたいと最近よく考えています

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