りんとしてにゅうわ

かけがえのないものを見つけたい。

昭和マンジの独り言

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実感

今日は、いつものコーヒー店で、店の方の自身のお気に入りのブレンドをいただいた。
ロストロでは、一人ひとりにコーヒーの酸味から香りまでお客さんに尋ね、
一杯一杯微妙なブレンドをして、出してくれる。詳しい入れ方は分からないが
その思い入れたるは、似非コーヒー通には分かるすべもない。
私の今日の一杯は、香りと酸味にこだわって、渋みも微妙だった。
そして、そのブレンドの配合にあった、コーヒーカップを数万円からの中から選ぶ。
「いつもは、ドリップで入れているので、今日はサイホンで入れました」と言われ
香りの向こうの何かを感じていた。
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オーナさんと話したこと。
目の前の天秤ばかりで、紅茶の茶葉の量を実際に毎回測っているの観て

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デジタルのメモリを信じる、というか「実感」があるのか?
数字が表示される秤もまた、そのメモリを合わせるために錘を使っているという。
デジタルのメモリを観て。
「これって本当?」と考える人はいない。
しkし、「実感」がない。
すると、今度は棚の上から
「こんなものも最初は使っていたんですよ」
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そうだ
昔はこんな秤が店先にあった。
微妙に動く秤の台をじっと見つけた覚えがある。
学校の理科の時間で
分銅と呼ばれる錘に手を触れると叱られたものだ。
「重さ」の感覚、・・・実感ってなんだろう。

***

あまりにも、実感のなくなっている現実の中で
人はひょっとして、頼るべきものさえ見失っているのかもしれない。
そんなことを思いながら、
香りと微妙な味、そして、カップの絵柄・・鼻と舌と目と、いや、豆を挽く音もそうだ
美味しいと感じている自分の手元の本の一節
「大事なのは、自分が何者なのかでなく、自分が何者でもないことだ。
 急がないこと。手を使って仕事をすること。そして、日々の楽しみを
 1本の自分の木と共にすること。」(長田弘「深呼吸の必要」より)

エゴ

また、さびしいことを書かなくてはならない。
久しぶりのブログがこの内容なのははばかれるが、
今、言っておかないと〜〜〜やはり、大切なことだと思う。

児童相談所には、母子のシェルターにも、家庭支援センターにも何度か行った。
実際に子どもを連れて、「そこから先?」を見つけなくてはならないときもあった。
そして、今、子供の数は減っているのに
児童相談所に駆け込む事案は加速度的に増え、
品川、北、・・・といった都にいくつか?では対応できなくなり
各区で・・・までに追い込まれている(追い込まれているのは子ども)

そんな中での「南青山問題」

この国はどこまで「利己主義」で「排他的」に染まっていくのだろうか?
「なんでここなんだ!」
と怒る人間
「治安が悪くなる」
という人間
「我々は納税者だ!地価が!」
と叫ぶ人間。
そう、人間であるはずだ。人であるはずだ。
ある、テレビの解説者が「おかしい」と思いつつも
「本音なのかもしれませんね」という社会。

学校の運動会がうるさいから、スターターはやめにして(ピストル音)
近くの公園で、子どもたちの遊ぶ声が迷惑だと言い
近隣に保育園が!というと反対する

経済や実利的な目先の情報に流され
政治は真剣に子どもの今を考えない。

子どもたちの心には闇が広がってきている
養育できない親は増えている
養育されなかった子どもが親になっている
子育て、学校現場でもマニュアル化が横行している
このあたりで、ベクトルを変えないと・・・
「かけがえのない子ども」は死語になる。
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虐待・・・
ネグレクト・・・
養育放棄・・・
子どもが怖い・・・
目の前の子どもたちは 変わったのだろうか
35年以上前に出会った子どもたちと・・・
子どもは根っこのところでは変わっていないと思う。のだが・・
(以下は以前に書いたもの)
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***

虐待によって7歳の子が亡くなった。
江戸川の2階建てのアパートをテレビは映し、
両親の顔も・・。(形から入らないで欲しいが)

ジョウタン(情緒障害児短期治療施設)を取材されている方と話す機会があったとき、
子どもたちにとっての「母親」を思った。
7月に観たNHKの番組でも感じたが、
親がどんなに「子どもを見放しても(いや見捨てていても)」子どもは、
究極のところで母親を慕っている・・。ということ。

我々は子どもたちを前にして、
テレビで観る「今の親」に
「育てる資格がない!」などと簡単に言うが、
「育てられている子には、そんな資格よりも強い絆があるのだということ。

ある少年がいた
その子は、中学から一般に言う「グレ」だし、
学校にも疎遠になった。
地域でも札付きの悪扱いをされ、警察の世話になり、
鑑別所・・・教護院・・少年院・・・
そんな・・・のあるとき、彼は我が家に現れた。
「泊まるところがない」
「逃げてきた」
「ずっと寝ていない」
彼は、約1週間の間我が家にいて、
はじめの数日は良く寝ていた。
その顔は、小学校のころと変わらないかわいいものだった。

母親に連絡すると
養護施設に預けたい!とのこと。
「いや、その前に、一度一緒に会って相談しませんか」というと
東京駅まで来るという。
駅に現れたお母さんは、両手に紙袋を抱えていた。
中身は、その子の衣類。
「このまま、家には戻ってきて欲しくない」と言った。
その子は、下を向いてただ泣いていた。

まずは、いったん家に連れて帰ってくれること、
そして、連絡しておくので、翌日に教育相談所に行くことを約束した。
地下街を歩いていく後姿を追いながら、
二人の距離が遠いままでいることが気になっても、
どうすることも出来なかった。
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・・・

前に、ジャブのように子どもにじわじわと効いてくる
ネグレクト・虐待について書いた。
そんな大それたことでなくても

子どもへの言葉がけ、
食事の習慣、
一緒の時間、

今の子たちの「情緒」にとっての「障害」となってきている
モノが増えてはいないか?
ジャブのように、
「障害があるの」ではなく、
情緒が健やかに育まれる「障害になる」モノが。

***

家庭支援センターの動きも
学校の見極めも、動きも
教育資源としての施設学校のあり様にも
まだまだ課題があり、
この問題を考えることで、次の教育への芽が生まれるのでは、とさえ考えている。

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つい最近、20年ほど前の卒業生がフェイスブックに投稿をしていた。
その子は、小学校の先生になって、きっと、自分の考えで違う道を選んだ。
その、記事には
フィンランドの教育の素晴らしさが書かれていた。
動画からだけでは、想像でしかないが
そして、良い面ばかりが映し出されているようにも思うのだが、
基本的に次のような感想をもった。

1、教育、子供を育てる!という価値の違い
 合理的に費用対効果、オリンピックがあるから英語を、経済の為に基礎基本の徹底を・・・という目的があまりにも実利的な日本と違って、「かけがえのない人間を共同社会の中で育んでいこう」という価値観がある。じっくり、ゆっくり、教育なんて目に見えて効果があるものではなくていい、という根本が違う。次代の国の担い手を(世界の)育てる思いがひょとしたら日本にはない。全校一斉の学力テストも、形ばかりの評価の規準も、何のためか?もう一度考えてみる必要がある。

2.教師の質が違う
 今の先生が!なんていうつもりは毛頭ないし、そういうことではなく、教育そのものについて、子どもを育てるということについて、じっくり議論したり、考えたりする場が教師(あえて師と書く)の間になくなっている。子どもの姿をまっすぐに見つめて、どんな子どもに育てたいか?どうなってほしいか?学力だけでなく、総合的に一人の人間としての成長をみつめる場がない。今年、東京都では新任の先生が足らなくて、教員免許のある人を探しているという。学校の現場では、日々の計画や記録ばかりが先行して、説明責任のために働いているような先生も少なくない、と感じている。

3.教育にかける行政の考え方の違い
 基本的に教育予算は日本は先進国の中で比率から言えば最低レベル。そして、そのことは、2の教員の質にもかかわるし、もっとも顕著なのは学級の人数だろう。質の高いとは言えない教員(ここでは教員という)が、1クラス30人以上を担当する。しかも、特別に支援の必要な児童は急増している中で、個々の子どもに即した教育なぞ出来るはずもない。

4.学力の考え方が違う
 全国や都、比べることでの学力。一斉に同じ問題を解き、その点数で測ろうとしている学力とは一体なんだろうか。フィンランドには一斉テストがない、とか、宿題が無い、などということはナンセンスだが、学力や能力や可能性を測る物差しが違うように思えてならない。読書もせず、させず、寄り添って本を読むことの楽しさや時間を与えない今の日本にあって、テストで点数を付ける前に、「問題が読めない子」がどれだけ増えているか?知っているだろうか?というと、「だから読み書きを教える」というが、それが基礎基本の徹底などと考える物差しが間違っているのである。じっくり、ゆったり、物語や読み物に触れる時間は、ドリル学習にとって代わられている。本当にそれが学力である、なんて誰が証明できるのか?
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 もちろん、フィンランドがベストだとも思わない
ただ、日本の今は危機的だと考えている
家庭も国も、学校も、
子どもの姿を見失っているように思えてならない。

教室の片づけをした。
37年持ちまわった私の教室(にもつ)は多く
隣の先生方の教室に、何もないのをみると
不思議な気持ちににもなるが、片付けは楽なんだろう?
と毎年うらやましい気持ちがある。
ハスミにもらったジグゾーは丁寧に、高いところからはずして・・・
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4月3日
学校には新しい先生・・・
教室も変わって。

今日は朝から、妻の忘れていった本を読んだ
こういう本質を書いた本が少なくなった。
ノリのいい、いまどき?が増えて・・・
やはり、立ち止まりたくなる

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・・・
そして、葉桜に変わりつつある桜を観て、の思い
(以前のもの)

「最近は母子家庭や父子家庭の子どもがどの学校でも多くなってきていますね」
 
今日、子どもたちの話をしていたら、同僚の先生がそんな風に話しかけてきた。
『だから、しっかりとケアしていかなければいけないんですよね』
そんな思いで言った言葉だと思う。
いろいろな意味で、ケアすべき家庭が多くなった。
と言うよりも、子どもたちのそれぞれをしっかりと観てあげなくては、と思う。
 
今から、半世紀も前になってしまうのだろうか
私が東京の新宿のど真ん中の小学校に祖父母の田舎から転校してきたとき
「片親(かたおや)」だったのは、クラスで私一人だった。
そう、あの頃は母子家庭などとは言われず 片親!と言われたのを覚えている。
何か 「カタワ」(乙武さんが良く言っていた)に通じるようでとても嫌だったのを覚えている。
両親がいて当たり前、の時代の一人っ子は定番通り曲がっていった(誰のせいでもないが)
 
さて、自分のことはさておき、
4月の初め、担任する子どもたちの引き継ぎをしたり、
または、家庭調査や前籍校からの連絡票などを観たりするのだが
私は、あまり深くはその子のことを聞かない、観ないことにしている。
観るのはだいたい1学期が終わってから。
 
それは、まず、真っ直ぐに子どもと出会いたいから
言葉でくくってみたり、抽象に当てはめて、子どもに良い意味でも悪い意味でも
レッテルをはってしまったり・・・したくないから。
連絡票にしても、引き継ぎにしても、その方の見方や思いがどうしても入っているだろうから
まず、自分で、一人ひとりの子どもとぶつかってみて、それから
その子のこれまでの資料を観たい!と思っている。
 
子どもたちの名前を真新しい出席簿に書きながら
テプラで作ったシールを下駄箱に貼ったりしながら
とてもドキドキしている。
去年までの子どもたちと 素晴らしい出会いをさせてもらったように
きっと、5日、この子たちとも!と。
 
どこどこの桜が、とテレビで言う
夜桜がいい、とか 名所のライトアップがいい、
とよくガイドとかに載っているが
 
出会いが待ち遠しい思い(自分の思いというライトアップ)で見上げる
山の中のサクラでも
最高に美しい!
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