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19日、大阪地裁で強姦致傷罪・厳重建造物等放火罪などを犯した“人間”が『死刑』ではなく“無期懲役”の判決を受けた。
求刑も“無期懲役”だったとの事だが、法律には素人の私にはなんとも噛み合わないドラマを見せられている気持ちから抜けられない。
犯した罪の悪質性と件数に加え、「ゲーム感覚でやった」という供述は、裁判長が言うまでも無く「人の尊厳を踏みにじる態度には、人間性の片鱗さえ見出し難く、刑事責任は重大」と思はない人は居ないであろう。
にも拘らず、連続放火などについては「刑法上の自首が成立する」・「公判で自らに不利な事を詳述し、反省している」という理由から“死刑”の判決を逃れている。
敢えて問い直したい。
何故「死刑求刑」・「死刑判決」とはならなかったのだろうか?
「一体、弁護士は何を考えているのだろうか。」と思いたくなる。
判決までの間、被告と弁護人とがどんな会話が出来るのかは知らないが、この事件に限らず報道された重大事件の判決を聞いて、「この被告の弁護士は人間として何を考えているのか? 勝訴するためなら何でもありという事か?」と思ってしまうことが再三ある。
例えば“責任能力”という言葉は、私には「言語明瞭、意味不明瞭」に近い言葉にしか聞こえない。 “気違い”だから罪はないと割り切れるのは加害者側だけの論理でしかない。
弁護士の入れ知恵で被告の供述が真実を隠してしまい、裁判の判決を左右しているとしたら、何をか言わんやである。
日本では“無期懲役”とは事実上は“有期懲役”であり、何年か後には社会復帰するのが通例になっており、復帰の条件は“更正した”又は“更正の見込みがついた”という事のようだが、凡人の私のレベルでは「本当だろうか?」という疑問を拭いきれない。
「後がつかえているから早く出て行って欲しい」という心理が働いている結果ではないのかと疑ってみたりする。
最近の凶悪事件の連発に関連して、“再犯”とか“再犯率”という言葉をよく聞く。
“再犯率が高い”事が問題視されている訳であるが、(更正して)社会復帰した人を素直にあるいは温かく迎える度量が私達普通に娑婆で生活している者のどれ位あるだろうか。 と言うよりも、そういう度量を個人として持つ事は大変な冒険のように思う。
「触らぬ神に崇り無し」と言うのが平均的な心理であり、従って社会復帰した人は復帰した筈の社会の中で居場所を見出す事が出来ないという事になっている場合もあるであろう。
「触らぬ神に崇り無し」は今に始まった事ではないと思うが、犯罪被害者の気持がやっと重視され始めたように、現行刑法が持つ課題は色々あるのだろうと思う。
結果として裁判の判決や受刑者の扱い(無期=有期?)等に対する不信感の堆積が“更正”に対して、「触らぬ神に崇り無し」になっている。
この不信感を払拭するためには、「重罪には重罰を」と、庶民感覚に合った裁判や刑の執行を進めるべきである。
例えば、「よほどの明確な根拠が無い限り、刑期の短縮はしない。」という事、あるいは”死刑”と決まったらそれを実行する事などである。
「うやむや」な(受刑者に甘い)刑の執行を排除する事で、本気で“更正”しようと考えている人だけが社会復帰する事になり、庶民の安心感が増し、「触らぬ神に崇り無し」が解消される事になる。
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