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昨日の読売朝刊。 射水市立病院での延命治療中止問題で。県警の依頼を受けた専門医が、一部の患者について人工呼吸を外した行為と死との因果関係があるとする鑑定結果をまとめた事が報道されている。
終末期医療に関する指針や法制化について厚生労働省をはじめ医学会を中心に、侃々諤々の議論が始まっているようで、その事自体は患者とその家族・医師等患者を取り巻く人々の苦悩や苦痛をを軽減する意味では大いに議論をして欲しいと願っている。
昨日の記事の中で目に付いた事に触れておきたい。
A. 射水市立病院で担当医で元外科部長の伊藤雅之医師が読売新聞の取材に対して次のように答えている。
1.僕は自分自身が悪だとは思っていない。これ(今回の延命治療中止の行為)を悪としたら、世の中に納得出来ない人は沢山いるだろう。
2.外してあげる事がベストだと確認できれば、そういう選択をするかも知れない。
3.医療現場は、完全にフリーズ(凍結)してしまった。現場の意思や裁量権が全く失われてしまい、健全ではない状況になっている。
本来、患者やその家族は治療に当たっては全面的に医師を信頼していたものではなかっただろうか。
『医は仁術』とは、今更言うまでも無く信頼関係が基本にあってこそ言えた言葉であろう。 現今の『訴訟社会』の発想の世界には成り立たないであろう。
生身の人間である医師に『仁』を求め、なおかつ『治療の完全性』を求めるのは勝手だが、医療行為の基本に『仁』が不可欠だとすれば、法律で全てを解決する事は考え難いのではないか。
そんな意味で、伊藤医師の上記の言葉は重要な事を示唆していると思う。
B. 延命治療中止の行為に対する富山県警の考え方
医師であれば、呼吸器を外すと患者が死ぬ事はわかっており、殺意はあった。
私はこの発想に強烈な違和感を覚える。
この違和感は多くの殺人事件の裁判で、弁護士がさまざまな理由をつけて『殺意は無かった』あるいは『責任能力は無かった』と主張するのを見たときに覚える違和感と共通するものである。
法律の解釈や運用に血が通っていないと、法律を制定する時に意図していた事は似ても似つかない結果を生む事になる事を恐れる。
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