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給食費、保育費などの不払いをする馬鹿親の存在がニュースになっていたと思ったら、今度は
・ 「うちの子には掃除をさせるな!」
・ 石を投げて教室のガラスを割った子供の親が「石をそこに置いたままにしておく方が悪い!」
と開き直る親がいるというニュースが流れた。
ここまで脳が軟化した親がいる事に開いた口が塞がらないが、こんな箸にも棒にもかからない“イチャモン話”にまともに付き合う学校や先生の顔も見てみたくなる。
何故、「そんなくだらない話に付き合うほど退屈はしていません! どうぞお帰り下さい!」 と言えないのだろうか。
それで馬鹿親が訴訟を起こすのだったら、堂々と受けて立てばいいだけの事ではないのか。
文科省、地方自治体・教育委員会、教職員、PTA等は何を考えているのだろうか。
若しも「法律に決まっていない事は出来ない」と言う発想が基本にあるのだったら、教職の仕事をする資格はないと思うべきである。
法律の欠陥と馬鹿親から子供を守るのが教職に携わるものの責務である。
藤原正彦氏の著書「父の威厳 数学者の意地」にあった「そしょうに関する一文を以下に紹介する。
「訴訟を恐れる社会」
法律や契約に違反した場合の訴訟は当然だが、本質的に自己責任あるいは確率論的不運に過ぎぬものを、他人に責任転嫁し金銭をせびり取る、と言う風潮がアメリカを蝕んでいる。
・・・(中略)・・・
論理は確かに有用だが、人間を全てそれで律しようとすると、人と人との間隙が冷却し、必然的に訴訟が多発する。 そのうえ大抵の考えや行為は論理的というだけでよいなら正当化し得るから、なお始末が悪い。
日本はアメリカの最も恥ずべき部分を模倣しようとしていまいか。 学校等は増加する訴訟に対する防御を固めんと、健康維持とか事故防止の大儀の下、生徒管理を徹底させている。 その結果、「個の尊重」は掛け声ばかりとなり、子供達は息苦しさを味わっている。
訴訟の蔓延は人間不信を助長し、自由な言動や行動を束縛し、やがて社会を窒息させる。 日本には古くよりきめ細かな情緒があり、それが人と人との間隙を埋めていた。 「恥」の意識も強い。 アメリカの如く論理のみに頼る必要はない。訴訟およびそれに対する過剰防衛を抑制し、わが国本来の姿に戻るよう、真剣に考えるべき時期に来ていると思う。
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