反俗日記

日本イスラエル化計画進行中!

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>>人口の回復=当該地域の住民の出生率の上昇だけによって実現されたのではなかった。
ヨーロッパの流動的ムラ社会。
 同時に、大抵は人口が相対的に過剰になった地域から移民がやって来て定住するようになる。
W。国境を越え頻発する戦争は人口の流動化、文化交流を即した。外に閉じられたムラ社会の特性の希薄化
 
 例えばバーデンのSingen村では、1650年から1675年のあいだに行われた結婚の半分において、新郎と新婦の両者またはいずれかが同村以外の出身者であった。
そのなかでも最も多かったのは<スイスからの移住者>

 
 <<戦争>>
>>19世紀は、西ヨーロッパ文明に前代未聞の現象、すなわち平和の100年(1815〜 1914年)を生みだした。
W。産業革命と資本制発展の時期。それなりの近代的英知がようやく芽生えた
 
 これに先立つ二世紀について対応する数字をみると、一世紀平均60ないし70年の大戦争があることがわかる」(ポラニー『大転換」)
イギリス、フランス、プロイセン、オーストリア、イタリア、ロシア相互間で戦争が起こらなかつたのはわずか18カ月。
 
 >1500年から1815年までに起こった主要な戦争(内乱・革命などを含む)を挙げれば、次のようになる。
1521〜 1544年 イタリア戦争
1524〜 1525年 ドイツ農民戦争
1546〜 1547年 シュマルカルデン戦争
1562〜 1598年 ユグノー戦争(フランスの内乱)
1568〜 1648年 オランダ独立戦争(八十年戦争)
1618〜 1648年 三十年戦争
1642〜 1649年 清教徒革命
1648〜 1653年 フロンドの乱
1652〜 1654年 第一次英蘭戦争
1655〜 1660年 スウェーデン・ポーランド戦争
1664〜 1667年 第二次英蘭戦争
1667〜 1668年 フランドル(遺産帰属)戦争
1672〜 1674年 第三次英蘭戦争
1672〜 1678年 オランダ戦争
1675〜 1679年 スウェーデン・ブランデンブルク戦争
1688〜 1697年 アウクスブルク(プフアルツ)戦争
1690〜 1697年 ウイリアム王戦争
1700〜 1721年 北方戦争
1701〜 1714年 スペイン継承戦争
1733〜 1738年 ポーランド継承戦争
1740〜 1748年 オーストリア継承戦争
1740〜 1742年 第一次シュレージエン戦争
1744〜 1745年 第二次シュレージエン戦争
1756〜 1763年 七年(第三次シュレージエン)戦争
1776〜 1783年 アメリカ独立戦争
1778〜 1779年 バイエルン継承戦争
1789〜 1795年 フランス革命
1799〜 1815年 ナポレオン戦争
 
>特に17世紀は戦争に明け暮れた100年であった
 17世紀の100年間、ヨーロッパに戦火の消えた年はたったの4年だけであったといわれる
 W。絶対王政の時代。民の力が弱かったから、簡単に兵士として動員され、王様は戦争をやりたい放題。
 
>「1618年から1815年のあいだで、ドイツ国民の神聖ローマ帝国の版図全域で平和が保たれた期間は70年もなかった。
最大の規模で最も激しく戦われたのが神聖ローマ帝国を主戦場とする三十年戦争である。1618年〜1648年。
三十年戦争による人口減少は、一般に都市では33%、防備施設の貧弱な農村では40%と見積もられている

 
 <<飢饉>>
 穀物の収穫率は貧弱であった。二年続けて凶作だと、破局がひき起こされたのである。
農作物の作柄は、当時は今日以上に気候と天候によつて左右された。翻弄された、といってよい。
当時の交通と輸送は、ある地域での余剰を他の窮乏地域へ時間的に間に合うように輸送できるほど機動性に富んでいなかった。
特に関税障壁によつてある地方が別の地方と分断されていた状況下では、二つの隣接する地域の一方が餓死に直面しているのに、他方は十分な食糧を供給されている、といつたようなことが起こりえた。
凶作が二年ないし三年連続して起こったときには、穀物の供給は危機的な水準にまで低下し、種用の穀物にすら事欠くことになつた。
 
 当然のことながらまず穀物価格が高騰し、それに他の食料品の価格上昇が続いた。
そうなると、とりわけ貧しい人々は必要最低限の食料すら買うことができず、飢餓に瀕することになった。
近世のヨーロッパをくりかえし襲った凶作は、凶作→ 飢饉→ 疫病という因果関係を通じて人口危機をひき起こした。
 
 <<疫病>>
1348〜51年のペスト流行。
当時のヨーロッパの総人口8000万人のうち、その約三分の一にあたる2500万人犠牲。
 
 >死の前での社会的不平等。
 疫病は不潔な状態のところにはびこり、なによりもまず都市の下層階級を襲った。
自分たちの目に映るありのままの事実をみて、上層階級の人々は、疫病を広く伝染させるのは貧民たちだと感じていた。
他方で貧民たちは、物質的な快適さに恵まれた連中は疫病の襲来からも免れるという事実を不快に思っていた。
貧困と栄養不良は、疫病の犠牲者の二大特徴であった。

 
Ⅲ 人口変動の歴史的趨勢
 <<17世紀>>。
 
 <結婚年齢の上昇>
 17世紀における人口の停滞と減少には多数の要因がかかわつていた。戦争と疫病と飢饉が主要な原因であつたことは確かであるが、
それ以外の無視できな―い要因として<結婚年齢の上昇>があつた。
 
 <<マルサスの用語を用いれば、「予防的制限」>>>>彼らは生殖パターンを変えたのである。
17世紀の人口動態は、経済状態の全般的悪化をもたらした16世紀の過度な人口増加にたいする反作用であつたが、
>>この<厳しい経済的状況に適応するために当時の人々は結婚を遅らせた>。
>>彼らは生殖パターンを変えたのである
 
 >>17世紀、特にその後半には女性の結婚年齢はヨーロッパの多くの地域で上がり、その結果として当然のことながら婚姻内出生力は低下した。
W。動物としての人間のメスが厳しい経済環境に本能的に適応したのだ。卵を産まなくなった

 
 <全般的な趨勢とは大いに異なり、急激な人口増加を経験した農村地域=「プロトエ業化」が起こった地域>。
W。厳しい環境にさらされた中での前期資本制に至る社会経済構造の転換が胎動した。
 
<<繊維工業>>を中心とする農村工業が集中的に展開した地域。
 
<農村家内工業の発展によって恒常的な就業機会>が創りだされたので、これまで結果的に晩婚を余儀なくさせていた結婚と相続との結びつきが断ち切られると同時に、
相続に与らない若い男女も奉公人として余所に働きに出る必要がなくなり、自分が生まれた故郷で結婚して生活することが可能になった。
>しかも家内工業経営は、むしろ結婚と家族の形成を前提としていた。
 
 >というのは、家内工業においては妻や子供の労働が不可欠であったからである。
>こうして農村家内工業が展開した地域では結婚年齢が低下し、その結果は人口増加であった。

 
 <<18世紀>>
 17世紀の危機は18世紀の長期の成長にとって代わられ、この成長は停滞と危機に終わることなくそのまま「離陸」へと移行した。
 ヨーロッパの大部分の地域では1740年頃から所謂、近代以前型の人口動態構造が消滅し、人口は再び急増しはじめた。
 そして本格的な工業化をともなったこの人口増加は、19世紀末に低出生率と低死亡率を特徴とする新しい均衡システムが形成されるまで続いた。
 
 1700年を100として、他のヨーロッパ諸国の1800年の人口指数を表せば、次のようになる。
フランス=134、イタリア=135、北ネーデルラント=111、
南ネーデルラント=194、イングランドとウェールズ=157。
 
 <経済政治文化の重心の地中海諸国から大西洋に面した諸国への移動>
他方、16世紀と17世紀に観察されたあの人口増加の地域差、すなわち、中欧と西欧と南欧の人口増加率に比して、
北欧と北西欧のそれが高いという現象は、18世紀においても依然として継続していた。
 こうしてヨーロッパの経済・政治・文化の重心は、16世紀から18世紀のあいだに、地中海地方の諸国を離れて、大西洋岸に面した国々へと移動していったのである。
 
 <18世紀の人口増加は死亡率の低下とて結婚年齢の低下>とりわけプロトエ業化が進展した農村地域では、
結婚と相続との結合一一それは通常は結果的に晩婚を意味した一一を要とする人口制御システムがはたらかなくなつたために、
結婚年齢の低下とそれにともなう急激な人口増加が起こつた。
 
 W。近世都市の女性人口過多は都市と比べて人口増の多い農村部で持参金を用意できない女性が都市にはき捨てられた結果である。
奉公人として多少の持参金カを用意できたら帰郷するもの多し、できない女性は独身のまま。日本の慣習では、ここまで極端ではない。
 
1792〜 93年にヨハン・ヴォルフは、そのFアイヒスフェルト政治史』のなかで次のように述べている。
 「まさに機織りや糸紡ぎで生計を立てることのできる.チャンスが与えられたことによつて、以前には農耕ときわめて有用な手工業〔を営む者〕
に限られていた結婚が、異常に容易になり、農村には人間が満ち溢れるようになつた」

 旧ヨーロツパ社会に備わっていた人口制御システムが作動しなくなったプロトエ業化地域と伝統的な農村における人口増加の顕著な相違を示す一例である。

第二局面ー高出生率・低死亡率(多産少死)=人口転換の歴史的過程、近代。
18世紀の後半以降まず死亡率が下がりはじめ、急激な人口増加(「人口爆発
第三局面ー、低出生率・低死亡率(少産少死)=人口転換の歴史的過程
19世紀後半になって産児制限が普及。、出生率が低下し、少産少死(出生率・死亡率ともに15‰ 前後)の人口様式に移行。
(出生率・死亡率ともに15‰ 前後)
>大抵のヨーロッパ諸国では、この移行が完結するまでにほぼ200年を要した
 
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     <弥生時代から現代までの日本の人口の推移>
時代(年)  奈良時代     平安初期(  平安末期    鎌倉幕府成立(1192年   室町幕府成立(1338)
              451万人    551万人   684万人    757万人         818万人
江戸幕府成立(1603)    享保の改革(1716-45)     明治維新(1868)   終戦(1945)    平成12(2000年
人口(万人) 1,227       3,128               3,330           7,200        12,693
(出所)弥生時代から平安末期までは鬼頭宏「人口から読む日本の歴史」(講談社 平12.5)、鎌倉幕府成立か
ら明治維新までは国土交通省資料、終戦から平成12 年までは総務省統計局「国勢調査」より作成。
 
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