明日の日記

後ろから前から歓迎光臨!全開偏狭一人世界 百家争鳴!

上海雑想録

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2006年2月後半、5泊6日で上海に行って来ました。初の中国への旅から17年。今の中国そして上海に独り思うつぶやき・・・。
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〈写真〉ノスタルジック溢れる旧い外灘の写真が聴く者をオールドシャンハイへと誘う。


”WINTER&WINTER”というドイツの企画シリーズものCDが面白い。

そのテーマ、その都市ごとにフィールド録音した街の音や音楽などが散りばめられた、さながら音で楽し

む擬似旅行的な作品。

キューバ・ハバナ、オリエンタル急行などシリーズがあるが、こちらは1930〜40年代の列強の租界が置か

れ、最高のものと最悪なもの、東洋と西洋が交じり合い混在した最も極端な時代だったかつてのオールド

シャンハイがテーマ。

周旋の唄った当時の流行歌、「夜上海」、中国古典楽器の演奏による「ニ泉映月」、マージャンを楽しむ

老女たち、和平飯店のジャズ、ピアノバー、外灘の船の汽笛、日本の軍歌、中国兵士の行進など、映画の

シーンを観ているかのような音世界が展開する。


学生時代に始めての中国へ旅した際、黄浦江のほとりのホテルの部屋で大音量の船の汽笛を聞き度肝を

抜かれたこと、街の雑踏のざわめき、猥雑な空気…何だかとても懐かしく生々しくフィードバックしてき

た。そして「上海バンスキング」の映画を観て以来、憧れて期待して行った和平飯店の老年爵士楽隊

(オールドジャズバンド)の演奏にズッコけたことも…。



●メトロポリス 上海 〜ショーボート・トゥ・チャイナ〜 BOMBA RECORDS

あの頃、上海は・・・

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〈写真〉上海大廈(旧ブロードウェイ・マンション)からのアングルは昔と変わらず。
    以前は18階ベランダに出られたが、しばらくぶりに行ってみると改装されて出られなくなって
    いた。これはリネン室からこっそり撮ったもの。左側の外白渡橋には昔はトロリーバスが走って
    いた。
     

最近、上海に旅行に行った友人にその感想を聞いた。「凄くおしゃれでハイセンスでビックリした。」

そうな。17年も前の昔、僕が始めて上海に上陸した時に感じた驚きと興奮、戸惑い、カルチャーショック

を今、感じること自体無理と言えば無理。時代も街も大きく変わったのだ。

かつての上海を知らない(想像もつかないと言う)友人の為にも、あの頃の上海の話しをしたいと思う。

 

1989年の夏、横浜・大桟橋から3泊4日の船旅の末、上海に上陸した初日の感想、それは、まるで映画で

観た終戦直後の闇市か何かに、いきなりほおり込まれたかのような信じられないような感覚であり、光景

だった。たまに父母が昔話として話していた昭和20年代、30年代的光景が目の前こあったのである。

「チェンジマネー?」(外貨の闇両替)と言っては人にまとわり、着いて来る風体の悪い男たちに腕を

いきなり路上で掴まれたり、店員に早口の上海語で罵声を浴びせられたりと、「何てとんでもないところ

に来てしまったんだろう。本当に無事、帰れるだろうか・・・。」と本気で思ったものだった。


今では中国中、どこにでもある快餐店(ファーストフード店)、便利店(コンビニ)、超級商場(スーパ

ーマーケット)などはその頃は皆無で、冷たいコーラもビールも滅多に飲むことができなかった。

今まで身の回りにあって当たり前、というものがない、ということは、20歳の僕にはショックだったし、

改めてヤワな自分を認識したりもした。上海一の目抜き通りと言われている南京東路には旧ソ連製の無骨

なボディのトロリーバスが走り、何となくうっそうと暗く、歩くのには懐中電灯が必要だった。


そして今年2月に12年ぶりに訪れてみると、街は怖いほどの変貌を遂げていた。

そこは確かに実に「おしゃれでハイセンス」な街だった。 西側文化(死語)がやっと「開放」されたば

かりで、人々がやっと人民服を脱ぎ始めたばかりだったあの頃に比べ、今はそれを一旦消化し、また古く

からの中国の伝統を見直しそれに組み合わせるという折衷様式が百家繚乱の様相だ。それは中国人が中国

文化に誇りを持ち始めたからだとも言えると思う。


「生存競争を生き抜かなければ。」というガツガツした切迫した表情があの頃の上海市民にはあったよう

な気がするが、今回思ったのは、それが何とも穏やかな軟らかいものになっていたことだった。経済の

発展と物質的豊かさが心の余裕をもたらしたのか、以前はぶっきらぼうで、死んでも「いらっしゃいま

せ」とか「ありがとうございました。」などと言わなかった店の店員が笑顔でその言葉を発するようにな

っていたのには全く驚きという他ない。


テレビ、雑誌で伝え聞く今の彼の街の様相は、あの頃の「魔都」を知る自分の中でなかなか繋がらなかっ

たのだが、ようやくここへ来て自分の目で確かめ、それが確証できたのだった。


かくして12年ぶりに上海を訪れた「浦島太郎」の旅は実にタイムトリップそのものだったのでした。 

おしまい。続く。

脱北ホテトル嬢

夜の上海、繁華街中心にあるホテルの近くの路上で、何やら耳元でささやくように話し掛けてくる女性

数名に出会った。「その手の商売」の女性だった。その時、その言葉に少し訛りがあるのに気づいた。

しかも、何となくその中国語がたどたどしいかんじなのだ。それ以上のことは何も聞かなかったが、

(もちろん何もしてませんよ。)後から知り合いの中国人に聞いたところによると、彼女らは実は北朝鮮

からの脱北者だという。

命からがら、北を脱出したのはいいが、中国に身を隠し、公安の追及や密告を逃れるうち、闇ブローカー

らに足元を見られ、人身売買に転落することを余儀なくさている北の女性が実に多いのだという。

経済発展著しい、華やかなネオン輝く中国各地の花街で夜な夜な春を売る脱北女性たち・・・。

香港に近い広東省にも相当の数の北の女性が売られて来ているという。


「キミ、どこの出身?」

「東北です。私、実は朝鮮族なんです。」

「はぁ、どうりで訛ってると思った。」

 というかんじだろうか。 


国を捨て隣国に逃げ、身を隠し挙句の果てに身を崩す−、そんな女性たちが大勢いることを、ミサイル

発射ボタンに手をかけたあの暴君は知っているのだろうか・・・。

ミサイルが飛んできたあの日、テレビのニュースを見ながら、僕は上海のホテルの前の路上で会った女性

たちのことを思い出していた。

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〈写真〉上海大廈(左)とガーデンブリッジ(右)
    この上海大廈の上層階からの眺めが実にすばらしい。(一度宿泊したことがある。)
    浦江飯店はこの橋のたもとにある。

上海の安宿といえば、一昔前は浦江飯店のドミトリーと定番で決まっていた。

僕もご多分に漏れず、第一回目、二回目の中国の旅(89’、94’)ではこの浦江飯店のドミトリーの

お世話になった。89年に泊まった時の値段は一泊朝食付きで20元だったのを記憶している。

(89年のレートだと、約760円) このホテル、実にクラシックなつくりで高い天井にファン、広い廊下

と踊り場、シャンデリアと安宿の割になんて優雅なつくりなんだろう・・・とその当時感心したが、それも

そのはず、かつてのこの浦江飯店は「リチャーズホテル」と呼ばれ、中国で最初の本格的西洋式ホテルだ

ったそうである。宿泊したという著名人はアインシュタイン、チャップリンなどなど・・・。

それが解放後、外国船員のための簡易宿となり、アジア、アフリカ、中南米の船員たちの寝床となり、

その後、改革開放政策の波でパッケージツアーではない、個人の外国人自由旅行者(いわゆるバッグパッ

カー)が集まるようになったという経緯らしい。


朝食をとった1階にあるレストランなど、古い昔の映画で見た、舞踏会が開かれていそうな、それはそれ

は息を飲むような天井の高い、すばらしく瀟洒な洋風のつくりだった。

メニューもトースト、目玉焼き,オレンジジュースなどと、中国上陸一日目にして何だか面食らったのを

記憶している。(宿泊代には朝食が付いていた。)

「こんなメシが喰えるのはこれが最後かも知れへん・・・」と実に思ったものだ。

(実際にその後、そうなった。 香港へ「脱出」するまで洋風なものは全く口にできなかった。)


ホテルの目の前は赤いとんがり屋根のロシア領事館、そしてその隣は上海のシンボル、堂々たるアールデ

コの上海大廈。すぐ脇には黄浦江が悠々と流れ、部屋に居ながらにして、汽笛の音を聴くことが出来た。

この旅情たっぷりのロケーションと何より宿泊代の安さが世界中の若い旅人を惹きつけていたのは言うま

でもないだろう。

ここの相室の「旅のベテラン」の先輩に情報を聞き、「新米旅行者」だった僕は奥地のシルクロードやら

雲南省を目指したのだった。 生ぬるいビールを買い込み、ラッパで飲みながら(その頃、まだ冷蔵庫が

中国では普及していなかった。)旅談義に花を咲かせたあの夜の興奮は今でも忘れることができない。


しかし、そんな我が蒼き思い出の1ページに記憶を残す浦江飯店もいかんせん、中国の経済の発展と時代

の変化と無関係ではおれず、昨年2005年にドミトリーを閉鎖。全面改築してオールドクラシックな雰囲気

を味わえるオシャレホテルに生まれ変わった。 

それを知ったのも実は「トレンディーなオシャレ・シャンハイ」を特集した雑誌からだった。


今回、その情報の確認のため、わざわざホテルへ出向きフロントの服務員(従業員)聞いてみた。

Q:「有没有多人房? (ドミトリーはありますか。)」

A:「没有! メイヨー」(ありません。)

無表情かつ、キッパリと断言した「メイヨー」を久々に聞いた気がした。


※浦江飯店のことを旅人は『プージャン』と皆、親しみを込めて呼ぶ)ドミトリーとは直訳すれば「寮」 とか「宿舎」だが、中国では「多人房」と呼ばれ、読んで字の如く沢山の人が共用で寝泊りする大部屋 のことである。
 泊り客は各々のベッドだけが与えられ、シャワー、トイレ、洗面所は共用。 多国籍な旅人と同室で
 部屋をシェアする。中国を旅するにあたり、一番安い宿泊方法。

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〈写真〉
1.こんなものもできるとは、あの頃は考えられなかった・・・。
  実際は香港資本のGIORDANOやBOSSINI、U2の生産やデザイン、販売方法まで、
  パクリそのまんまな訳だが−。 値段は日本で売っているものより少し高めだった。ということは
  中国の物価ではかなり高い。現地で作っているハズなのに何故?
  
2.外白渡橋と上海大廈(OLD)そして浦東のビル群(NEW)。上海新旧のコントラスト。


僕が始めて海外へ出たのは1989年7月、中国・香港への1月半のひとり旅だった。

その年の6月4日、北京・天安門広場で民主化運動を続ける学生たちに対し、中国政府は武力制圧

に乗り出し、戦車、装甲車でもって広場に突入。丸腰の彼らに無差別銃撃を浴びせた。

その戒厳令の最中の、いまだ外務省から渡航自粛勧告のひかれている中国へひとり旅立ったというのは

今にして思えば、かなり思い切った、無茶な若者だったというしかない。 

「行くの止めるんだろ。」

「今、中国に行くなんて死に行くようなもんだんぜ。」

そんな言葉を周りから言われれば言われるほど、自分の中の気持ちはヒートアップしていったのを

覚えている。真っ赤な字で「自由 民主」という文字をしたためた鉢巻をして、断食(ハンスト)を

続け、真夏の炎天下に倒れていく自分と同世代の中国の若者たち、その映像をテレビでつぶさに見て、

「いや、今行かなければ、今しかない。」と何故か奮い立つような思いに駆られたことだけは事実で

ある。


89年といえば、日本はバブル絶頂期。

しかし、そんな世間の「イケイケ」な空気に何故か馴染むことができず、自分はその何か「ぬるい」

学生生活と英米ロックのコピーもどきバンドを続けていることへの疑問から、どこか全然知らない世界へ

行ってみたい、という気持ちに駆られていたのだった。

そんな時にあの天安門の衝撃的な映像を見たのである。ハタチの熱い夏だった。


小学生の頃見たテレビドラマ「西遊記」やNHKの「シルクロード」への憧れもあった。

それに、その小学生当時、流行っていたアリスやゴダイゴ、さだまさしらがこぞって中国へ出掛け、

コンサートを開き、熱烈歓迎を受けているのをテレビで見て漠然と「中国に行きたい。」と子供心に長い

こと思っていたこともある。それが「今、行かなければ。」に変わったのである。

僕が初めての海外への旅で中国に行ったのは、そんなきっかけだった。

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