あれよあれよと言う間に脱原発を決めたドイツ。ドイツに住んで6年以上になりますが、今までこの 国がどうして「環境先進国」なのか全然わかりませんでした。車はバンバン乗り回すし、ゴミの分別 はなっていないし、スーパーで有料の買い物袋を躊躇することなく買っている人はいるし、いかにも 環境を破壊しそうなどぎつい洗剤はいっぱい売っているし…、回収が無料だからって、まだ使える ものでも粗大ゴミに平気で出すし…。ところが今回の脱原発への動き。初めてドイツのすごさを目の 当たりにしました。 それに比べて当事国である我が国日本。どうして脱原発、反原発ってバシッと決められないわけ、と 見ていてイライラしたくもなり。その理由は、もちろん政治や原発問題に無関心な人が多かったから なのですが、ドイツもいきなり脱原発路線になったわけではなく、そこに至るまで長い歴史があった のでした。この記事を読んでいただければわかるように、70年代にすでに消費行動を見直して いたドイツと、相変わらず無条件に発展しようとしている日本では30年以上も差があるわけで…。 6月30日 FAZ(フランクフルターアルゲマイネ新聞)のHPより、原子力の歴史についての 記事です。転載、TB、リンクOKです。誤訳があればご指摘よろしくお願いします。 (でも、ケチをつける人はパクらないでくださいね。あと、ケチだけつけて、フェイスブックとか であたかも自分が原文を読んだかのようなフリをするもやめてねー。)Am Ende des Fortschritts von Robert Gast, FAZ NET かつて原子力には豊かな恵みを見ることができました。それは永遠に電力を生み出し、砂漠に花を咲かせる はずでした。しかしその後、緑の党、そしてフクシマという疑問がわいてきました。 すべてはベルリン・カイザーウィルヘルム化学研究所の頑丈な木の机の上で始まりました。1938年ある秋の 日のことでした。机の上には、オットー・ハーンと彼の助手フリッツ・シュトラスマンがウラン塩と中性子を照射 した実験装置が置いてありました。この実験は混乱した結果をもたらしました。ウランより重い元素の代わりに、 この実験で見つかったのはウランの半分ほどの重さしかないバリウムでした。その解釈は、翌年スウェーデン から手紙で届きました。第三帝国から亡命していたハーンのユダヤ系の同僚、リゼ・マイトナーからでした。木 の机の上で起きたのは、人の手による初めてのウラン−原子核分裂でした。 多くの観察者にとって、この最初の制御された核分裂は、数十年経った後でも、フランス革命と同じ歴史的 レベルにありました。初めはこの新しい技術は不安と恐怖を広めました。マンハッタン計画は、原子力爆弾を もたらしました。その中性子との核分裂の連鎖反応は舵が取れないものでした。広島と長崎の何十万人もの 犠牲者からほんの8年後、核エネルギーの一般利用への転換がありました。アメリカ大統領アイゼンハワー の国連総会での有名な「原子力の平和利用」演説は、核エネルギーを進歩の権化と人類の恩恵という形に はめこみました。 すでにその数年前に、アメリカの辺鄙なアイダホ州にある極秘の研究用原子炉で、核分裂によって発電すること ができることが明らかになっていました。1951年のクリスマスの時期に、その原子炉で発電した電気で4つの 電球に光を灯しました。ドイツでは1957年にガーヒングに最初の実験用原子炉が造られました。最初の商業的 な原子力発電所は1961年にウンターフランケンのカールで運転され、60年代終わりまでに7基が続きました。 第二次産業革命の大黒柱としての原子力エネルギー 最初の発電所が建設は新しい連邦共和国の経済的な出発の時期と重なりました。核エネルギーは第二次産業 革命の大黒柱を形成していきました。「何百万ものまだ日陰に生きる人々の多くにとって、原子力エネルギーは 豊かな恵みとなるだろう。」1956年にミュンヘン党大会で可決されたドイツ社会民主党(SPD)の原子力計画と やらはそううたっていました。マルクス哲学者エルンスト・ブロッホの発言も多く引用されました。1959年に 彼はその著書「希望の原理」の中で、核エネルギーについて夢中になって語っています。「何百キロかのウラン が、サハラやゴビ砂漠を消滅させ、シベリア、北アメリカ、グリーンランド、南極をリビエラに変えるのに十分 だろう。」 左派の考え方と核エネルギーへの信仰が対するものになるのはしばらくしてからのことでした。その前に、 1973年に石油ショックがあり、初めて化石燃料の有限性を人々が意識するようになりました。その結果、70年 代終わりまでに、11基の新しい発電所が建設されました。フィリップスブルク、ネッカーヴェストハイム、イザー、 ウンターヴェーザー、ビブリスそしてブルンスビュッテルの最初の発電施設群です。その上、石油ショックは、 無条件に進歩、成長するという考え方から離れ、消費行動の見直し、そして持続性思考の誕生、という価値観 の変化のきっかけになりました。 放水車に撃退される主婦たち この時期に、人類に危険な放射性物質発生の心配に駆られて最初の抗議運動が起こりました。50年代とは 違ってその頃にはに市民の大部分がその危険性を知っていました。政治学者ハンス・ペーター・シュヴァーツは その著書「ドイツ連邦共和国−60年後の結果」の中で、原子力の抗議運動の編成についてこう書いています。 結局のところ、原子力に対する抗議を人前で口にできるようにしたのは市民の望んだことだった、と。カイザー シュトゥールのブドウ園主たちは、ヴィール(フランス国境に近いバーデン=ヴュルテンベルク州の町)に計画 されていた原子力発電所の冷却塔を流れる濃い霧が、ワインの品質に影響しないか心配していました。1975年 2月のデモ行進はエスカレートし、放水車に撃退される主婦の姿がテレビでドイツ中に放映されました。 70年代中頃には、新しい、危険を伴う、原子力技術の変形が、市民による原子力への抗議運動の容認に大きく 貢献しました。というのも、ウランだけではなく、トリウムもプルトニウムも分裂可能だからです。エネルギーの 担い手なしの未来という恐ろしい幻想に激励され、特別な増殖炉で、ウランの分裂できない部分を分裂可能な プルトニウムに変えることで、燃料は尽きることがない、という無尽蔵なプルトニウム循環というアイデアが人気 になりました。 2つの原子炉は一度も運転されず なるほど、増殖炉は、温度を調節するために、原子炉内に冷却水なしで済ませられ、その代わり少し燃えやすい ナトリウムを使います。これが抗議を煽りました。ドイツ国内の最初でたった一つの「高速増殖炉」は1973年に ニーダーハイン川沿いのカルカーに建てられました。この計画は、ハム−エントロップのトリウム高温原子炉 同様、最初の原子力抗議運動の波の勢いに襲われました。1977年のデモ行進がクライマックスでした。 40000人の原発反対者が集まりました。カルカーとハム−エントロプは抗議運動の結果、運転されることは 一度もありませんでした。今日、カルカーは遊園地になっています。 この時期の大きな抗議運動と平行して、原発反対者の理由も変わりました。もともとは通常運転時に外に 忍び寄る放射性物質が流れ出ることを心配していましたが、70年代の終わりに行われたドイツ原子力専門 委員会の査定後は、GAU(想定される最大級の原子力発電所の事故)に対する恐怖が増大しました。1979年 3月28日に起きたアメリカのスリーマイル島の大きな原子炉事故が前例となりました。その翌日、ドイツ連邦 議会は、核エネルギーの将来を調査する委員会を設立することを満場一致で決めました。その委員会では高速 増殖炉の可否についても討論されました。しかし、脱カルカーは、チェルノブイリの大事故の7年後にようやく 成し遂げられました。そうこうしているうちに原子力への抗議は国会でも目にするようになりました。1983年 緑の党が始めて連邦議会に仲間入りしました。 ドイツですでに12回の核廃棄物輸送 核廃棄物の処理も討論の中心になっていきました。1995年にゴアレーベンに向けて最初の核燃料輸送が 行われました。それ以来12回、核廃棄物輸送コンテナ縦隊がニーダーザクセン州にある一時保管所へとドイツ を横断しました。最後の9回は、フランスのラアーグにある再処理施設から来ました。ヴァカースドーフの ドイツ再処理施設の建設は、80年代に抗議運動によって妨げられました。輸送用カバーに高い放射線量が 検出されたことで知られる1998年のカストールスキャンダルは大騒ぎになりました。アンゲラ・メルケルは、 環境大臣としての最後の年に、なぜ環境省がずいぶん前から高い放射線量について知っていたのかを説明 しなければなりませんでした。 しかし21世紀になるまで、核エネルギーに変わる気候に負担のない代替エネルギー、そしてチェルノブイリの
ような大事故はかつてのソビエト連邦以外でも起こりうるという確信がありませんでした。実際は、ドイツの発電所 でもいつも故障がしょっちゅう起きていました。2001年にはブルンスビュッテルで、小さな水素爆発が原子炉 から配管を剥ぎ取ったり、1987年にはビブリスで、うっかりして閉め忘れたバルブから放射性の冷却材が漏れ 出てしまいました。世界の歴史上3番目の、今回はハイテクの国日本で起きた原子炉の大事故で、ようやく ドイツ人の大多数が、そんなに小さくもないだろう、核エネルギーの残りの危険性にもう耐える準備はないという 結論に至りました。フクシマの大事故が遂にドイツに激変をもたらし、アインシュタインの言葉にすら疑問を 投げかけています。「先入観に基づく考えを粉々に打ち砕くことは、原子を分裂させることより難しい」とかつて 彼はそう言ったそうです。 |
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