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あれから、5年しか経っていないというのに、またしてもこんなに大きな地震が日本を襲うなんて、信じられない。
地震があった地域は父の生まれ故郷に近い。そうは言っても、戦後父の家族はみんな上京してしまったので、
父の田舎に行ったことは1回しかない。九州には高校の修学旅行と社会人になって旅行したことがあるが、計
3回訪れたことがあるだけ。それでも私にとっては半分故郷みたいなものだ。
小学校高学年の時、父に連れられて九州に行った。春休みだったと思う。母は家で留守番だった。多分、経済
的に4人分の旅費が出せなかったからだと思う。行きは寝台車で行った。6人用のコンパートメントに大人が
5人、そして姉と私がいた。姉も私も「誰か一人、ベッドがない人がいる」とずっと思っていた。いざ寝る時間に
なって、姉と私が一つの寝台をシェアする、ということが判明した。今思えば、子供だから二人で1台でも当たり
前なのに、私たちはそれぞれ密かに、「ベッドがないかわいそうな人がいる」と心配していた。「それがまさか
自分たちだったとはねー」と今でも笑い話になっている。
熊本では、熊本城を見学した。黒いから烏城と呼ばれていて、兵庫にある姫路城は白いから白鷺城と言われて
いるんだよ、と父が教えてくれた。水前寺公園は水前寺清子の芸名に由来する場所、八代は八代亜紀、そんな
話も覚えている。柳川では川下りをした。阿蘇にも行った。北原白秋の生家にも行ったように思う。阿蘇では
外輪山が寝観音と言われていると父が話してくれたが、私にはどう頑張って見ても、寝ている観音様の姿には
見えなかった。でもそう言うと怒られると思ったので黙っていた。草千里、やまなみハイウェイ…。今から40年も
前のことなので、どういう旅程で回ったかは覚えていないが、大牟田にも行った。父は若い頃三池炭鉱で働いて
いたから。
親戚らしい家を訪ね、お爺さんにあれこれ話しかけられたが、何を言っているかさっぱり理解できなかった。
3月だったのに、温室栽培のスイカを出してくれ「いっぱい食え、食え」と言われた。暑くもないのに、スイカは
そうたくさんは食べられなかったが、せっかくだからと一生懸命美味しく食べてるフリをした記憶がある。
後で知ったことだが、その旅行は九州の父の一家のお墓に納骨してあった、私たちの兄、二人いたのだが、
二人とも赤ちゃんの時に亡くなっている、のお骨を取りに行くためのものだった。横浜近辺に墓地を買う余裕が
なかった両親が、ようやく富士の麓に墓地を手に入れることができたので、遠い九州のお墓に納骨してあった
兄たちを連れて帰ったのだ。姉はお骨をお墓から取り出すシーンを覚えているらしいが、私の記憶にはない。
逆に姉にはスイカの記憶はないらしい。
父は実家は貧しかった。父には兄弟が7〜8人いたが、父以外はみんな中卒。父だけが、昼間炭鉱で働き
ながら夜間高校に通った。炭鉱の将来に見切りをつけたのか、高校を卒業した後に上京し、公務員試験を
受けて神奈川県に定住した。その後、家族が次々と上京してきたらしい。父の母親は鎌倉で作家里見とんの
住み込みのお手伝いさんをしていたこともあると後で聞いた。
私の父は本当に努力の人だった。曲がったことが大嫌いで、常に新しいことを学ぼうとしていて、70代で
カヤックを趣味にしたりしていた。私は父とは折り合いが悪く、何かと言うと「文句があるなら出ていけ」と
言われて育った。父の言い分は、「俺は18歳の時から両親を養っていた、お前は大学まで出してやったん
だから、せめて一人立ちしろ」というものだった。私は父より7年遅れて一人立ちした。両親に仕送りができる
ようになったのはそれから5年後だった。両親はその頃には別に経済的に困っていなかったが、それでも
私は毎月お小遣い程度のお金を実家に渡していた。両親はそれを黙って受け取っていた。父と仲が悪かった
のは、きっと父と気質が似すぎていてぶつかっていたんだと思う。
熊本地震のニュースを見るたび、子供の頃の父との旅行、そして父のことが思い出される。私は被災者の
方々の無事を祈ったりはしない。祈っても誰も助からないし、ラクにもならないから。綺麗ごとを言うより
まずできること、と言ったら義援金を送ることしかないから、姉に頼んで熊本県宛に義援金を送ってもらう
ことにした。2011年の時は、直接支援ができる方法を模索したりしたが、それはそれで問題もあって
善意を利用する輩も出てきたりする。今の時点では取り急ぎ熊本県宛に送ることにした。
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2016年04月17日
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