ドイツの生活 Mein Leben in Deutschland

毎日の新しい発見を忘れないように。https://xiromi0303.blog.fc2.com/ に引っ越しました。

Umwelt

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環境先進国(?)ドイツにおける様々な取り組み。2011年3月11日以降は「脱・反原発」が中心になっています。
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フライブルクのヴォバーン地区というところで、たくさんの家庭が窓やバルコニーに反核メッセージの旗を
掲げているのを見て衝撃を受けました。私も真似しよう!と思ったのですが、あいにく私の住む街はドイツで
一番外国人の居住率が高い街。環境意識は低く、日本人である私なんかが窓から反核の旗を掲げようもの
なら何を言われるかわからないと、夫に止められました。

それでも、反核グッズはどうやって手に入れるんだろう、いくらぐらいするんだろうと、ネットで検索してみました。
旗は90X150cmと意外と大きなものが主流で、値段は10ユーロ程度でした。それ以外に同じ絵柄の小さい
バッジが売られているのを発見しました。大きさは3.5cmほどで、お値段1個1ユーロほど。お手頃なので
とりあえず10個ほど注文してみました。
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無理やりカナもアングルに入れて、みんなにアピール!! \(*⌒0⌒)b
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早速肩掛けカバンにつけてみました。横浜の猫グッズ屋で買った黒猫バッジの真ん中にさりげなく。o(*^▽^*)o
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もう一つは通勤兼ヨガ用バッグに。黒に黄色もなかなか映えます。(*^.^*)
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残りの8個ですが、この小さな反核運動にご協力いただける方にお送りしたいと思います。メッセージがドイツ
語で書かれているので、これが反核バッジだとわかってもらえないかもしれませんけど…。

ご希望の方はゲストブックにメールアドレス(内緒設定)をお知らせください。こちらからメールにて連絡させて
いただきます。ゲストブックのメッセージはメールで連絡がつき次第すぐに消去いたします。また送付先住所、
お名前をお伺いすることになりますが、今回のバッジ送付以外の目的に使用することはありません。

バッジ送付の条件は、バッジをつけたところを後ほど写真にてお送りいただける方。皆さんからの写真をあとで
ブログ記事にまとめたいと思います。送料の関係もあるのでお一人様1個でお願いします。尚、本場ドイツの
反核グッズを購入されたい方がいらっしゃいましたら、実費のみで代行いたしますのでご相談ください。

私のブログに反応してくれる人がどれだけいるかわからないので、とりあえず初回は8個ですが、もし希望者
が多い場合は、いつもコメントをいただいている方を優先したいと思います。緑の党のネット通販だともっと
安く買えるようなので追加購入も検討します。日本全国128,056,026人(2010年10月1日時点)の中にたったの
8個では本当に超極小の反核運動ですが、例えば

「これね、脱原発を決めたドイツで使われてる反核グッズなんだよ〜」

「原子力?ノーサンキューってドイツ語で書かれてるんだ」

「フライブルクという街はね、環境意識が高くて、住民が窓からこの絵の旗を掲げてるんだって」

等々、ご家族やお知り合いの間で話題にしていただければなぁと思います。

反核バッジ初回分8個はすでに予約済となりました。ただいま発送準備中ですので、お申し込み
いただいた方、しばらくお待ちください。

ご好評いただきましたので(!)、追加注文をしようと考えています。反核バッジが欲しい!という
方はGBにメッセージをお願いします。お一人様一個に限り、無料でお送りします(バッジをつけた
ところの写真をメール添付で送っていただくのが条件です)。大体の数が確定したら発注しようと
思います。皆さんへの次回発送は8月を予定しています。

まとまった数をご希望される場合、あるいは他の反核グッズにも興味があるという場合はご相談
ください。サイト等をご案内し、ご希望の場合には実費にて代行いたします。バッジ10個で日本
への配送料も含め2000円前後になるかと思います。

Vouban

環境都市として有名なフライブルクに行ってきました。フライブルクは環境学の勉強をすると必ず登場する街
です。一度は絶対行ってみたいと憧れていたのに、しかも私の住んでいる街からほんの数時間で行ける場所に
あるというのに、今まで訪れる機会がありませんでした。それだけ自分自身の環境への関心が薄れていたこと
にあらためて気づきました(反省…)。

さて、まずはフライブルク南部にあるヴォバーン地区をご紹介します。フライブルクの中心から路面電車で15分
ほど行ったところにあるこの地区は、旧フランス軍駐留地だったそうです。

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曲線重視のフンダートヴァッサーの建物に比べると、ヴォバーンの建物はほとんどが長方形の無機質な「箱」。
本来なら「直線だらけ」で、味気のない外観になってしまいがちですが、ここではカラフルだったり緑で覆われて
いたり、それぞれが個性いっぱいです。建物自体には厳しい省エネ基準が課せられていて、冬場にほとんど
暖房が必要ないパッシブハウス(無暖房住宅)となっているそうです。

庭に大木が植わっているところもたくさんあります。
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どこも緑がいっぱいです。
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ところで、黄色い旗にお気づきですか?

反原発メッセージ 「Atomkraft? Nein Danke(原子力?ナイン、ダンケ)」が書かれています。こちら(↑)
のお宅の垂れ幕には「Mit Abschalten war nicht der Kopf gemeint」(停止するのは頭ではない)というような
意味のことが書かれています。
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ここにも、黄色い旗とステッカーが。
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ここはバルコニーに大きな旗が。
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1970年代に酸性雨によって黒い森が大きな被害を受け、また近郊の街ヴィール*に原発建設の計画が持ち
上がり、反原発運動が起きたのがきっかけで、フライブルクは環境先進都市となりました。今年3月には
フライブルクがあるバーデン=ヴュルテンベルク州で緑の党の州首相が誕生しました。しかし、たとえドイツが
脱原発を決めても、50キロほどのところにフランスの Fessenheim原発(1978年運転開始)があるので、常に
原発事故の危険に曝されています。

ドイツと日本では、歴史的背景も文化も風土もまったく違います。でもフライブルクのような街から学べること
はたくさんあると思いました。まずは反原発、脱原発の意思表示を真似てみるのもいいのではないでしょうか。

*ヴィールについては、ドイツ・脱原発の歴史 進歩の終わりに を参照ください。
あれよあれよと言う間に脱原発を決めたドイツ。ドイツに住んで6年以上になりますが、今までこの
国がどうして「環境先進国」なのか全然わかりませんでした。車はバンバン乗り回すし、ゴミの分別
はなっていないし、スーパーで有料の買い物袋を躊躇することなく買っている人はいるし、いかにも
環境を破壊しそうなどぎつい洗剤はいっぱい売っているし…、回収が無料だからって、まだ使える
ものでも粗大ゴミに平気で出すし…。ところが今回の脱原発への動き。初めてドイツのすごさを目の
当たりにしました。

それに比べて当事国である我が国日本。どうして脱原発、反原発ってバシッと決められないわけ、と
見ていてイライラしたくもなり。その理由は、もちろん政治や原発問題に無関心な人が多かったから
なのですが、ドイツもいきなり脱原発路線になったわけではなく、そこに至るまで長い歴史があった
のでした。この記事を読んでいただければわかるように、70年代にすでに消費行動を見直して
いたドイツと、相変わらず無条件に発展しようとしている日本では30年以上も差があるわけで…。

6月30日 FAZ(フランクフルターアルゲマイネ新聞)のHPより、原子力の歴史についての
記事です。転載、TB、リンクOKです。誤訳があればご指摘よろしくお願いします。

(でも、ケチをつける人はパクらないでくださいね。あと、ケチだけつけて、フェイスブックとか
であたかも自分が原文を読んだかのようなフリをするもやめてねー。)
Am Ende des Fortschritts von Robert Gast, FAZ NET

かつて原子力には豊かな恵みを見ることができました。それは永遠に電力を生み出し、砂漠に花を咲かせる
はずでした。しかしその後、緑の党、そしてフクシマという疑問がわいてきました。

すべてはベルリン・カイザーウィルヘルム化学研究所の頑丈な木の机の上で始まりました。1938年ある秋の
日のことでした。机の上には、オットー・ハーンと彼の助手フリッツ・シュトラスマンがウラン塩と中性子を照射
した実験装置が置いてありました。この実験は混乱した結果をもたらしました。ウランより重い元素の代わりに、
この実験で見つかったのはウランの半分ほどの重さしかないバリウムでした。その解釈は、翌年スウェーデン
から手紙で届きました。第三帝国から亡命していたハーンのユダヤ系の同僚、リゼ・マイトナーからでした。木
の机の上で起きたのは、人の手による初めてのウラン−原子核分裂でした。

多くの観察者にとって、この最初の制御された核分裂は、数十年経った後でも、フランス革命と同じ歴史的
レベルにありました。初めはこの新しい技術は不安と恐怖を広めました。マンハッタン計画は、原子力爆弾を
もたらしました。その中性子との核分裂の連鎖反応は舵が取れないものでした。広島と長崎の何十万人もの
犠牲者からほんの8年後、核エネルギーの一般利用への転換がありました。アメリカ大統領アイゼンハワー
の国連総会での有名な「原子力の平和利用」演説は、核エネルギーを進歩の権化と人類の恩恵という形に
はめこみました。

すでにその数年前に、アメリカの辺鄙なアイダホ州にある極秘の研究用原子炉で、核分裂によって発電すること
ができることが明らかになっていました。1951年のクリスマスの時期に、その原子炉で発電した電気で4つの
電球に光を灯しました。ドイツでは1957年にガーヒングに最初の実験用原子炉が造られました。最初の商業的
な原子力発電所は1961年にウンターフランケンのカールで運転され、60年代終わりまでに7基が続きました。

第二次産業革命の大黒柱としての原子力エネルギー
最初の発電所が建設は新しい連邦共和国の経済的な出発の時期と重なりました。核エネルギーは第二次産業
革命の大黒柱を形成していきました。「何百万ものまだ日陰に生きる人々の多くにとって、原子力エネルギーは
豊かな恵みとなるだろう。」1956年にミュンヘン党大会で可決されたドイツ社会民主党(SPD)の原子力計画と
やらはそううたっていました。マルクス哲学者エルンスト・ブロッホの発言も多く引用されました。1959年に
彼はその著書「希望の原理」の中で、核エネルギーについて夢中になって語っています。「何百キロかのウラン
が、サハラやゴビ砂漠を消滅させ、シベリア、北アメリカ、グリーンランド、南極をリビエラに変えるのに十分
だろう。」

左派の考え方と核エネルギーへの信仰が対するものになるのはしばらくしてからのことでした。その前に、
1973年に石油ショックがあり、初めて化石燃料の有限性を人々が意識するようになりました。その結果、70年
代終わりまでに、11基の新しい発電所が建設されました。フィリップスブルク、ネッカーヴェストハイム、イザー、
ウンターヴェーザー、ビブリスそしてブルンスビュッテルの最初の発電施設群です。その上、石油ショックは、
無条件に進歩、成長するという考え方から離れ、消費行動の見直し、そして持続性思考の誕生、という価値観
の変化のきっかけになりました。

放水車に撃退される主婦たち
この時期に、人類に危険な放射性物質発生の心配に駆られて最初の抗議運動が起こりました。50年代とは
違ってその頃にはに市民の大部分がその危険性を知っていました。政治学者ハンス・ペーター・シュヴァーツは
その著書「ドイツ連邦共和国−60年後の結果」の中で、原子力の抗議運動の編成についてこう書いています。
結局のところ、原子力に対する抗議を人前で口にできるようにしたのは市民の望んだことだった、と。カイザー
シュトゥールのブドウ園主たちは、ヴィール(フランス国境に近いバーデン=ヴュルテンベルク州の町)に計画
されていた原子力発電所の冷却塔を流れる濃い霧が、ワインの品質に影響しないか心配していました。1975年
2月のデモ行進はエスカレートし、放水車に撃退される主婦の姿がテレビでドイツ中に放映されました。

70年代中頃には、新しい、危険を伴う、原子力技術の変形が、市民による原子力への抗議運動の容認に大きく
貢献しました。というのも、ウランだけではなく、トリウムもプルトニウムも分裂可能だからです。エネルギーの
担い手なしの未来という恐ろしい幻想に激励され、特別な増殖炉で、ウランの分裂できない部分を分裂可能な
プルトニウムに変えることで、燃料は尽きることがない、という無尽蔵なプルトニウム循環というアイデアが人気
になりました。

2つの原子炉は一度も運転されず
なるほど、増殖炉は、温度を調節するために、原子炉内に冷却水なしで済ませられ、その代わり少し燃えやすい
ナトリウムを使います。これが抗議を煽りました。ドイツ国内の最初でたった一つの「高速増殖炉」は1973年に
ニーダーハイン川沿いのカルカーに建てられました。この計画は、ハム−エントロップのトリウム高温原子炉
同様、最初の原子力抗議運動の波の勢いに襲われました。1977年のデモ行進がクライマックスでした。
40000人の原発反対者が集まりました。カルカーとハム−エントロプは抗議運動の結果、運転されることは
一度もありませんでした。今日、カルカーは遊園地になっています。

この時期の大きな抗議運動と平行して、原発反対者の理由も変わりました。もともとは通常運転時に外に
忍び寄る放射性物質が流れ出ることを心配していましたが、70年代の終わりに行われたドイツ原子力専門
委員会の査定後は、GAU(想定される最大級の原子力発電所の事故)に対する恐怖が増大しました。1979年
3月28日に起きたアメリカのスリーマイル島の大きな原子炉事故が前例となりました。その翌日、ドイツ連邦
議会は、核エネルギーの将来を調査する委員会を設立することを満場一致で決めました。その委員会では高速
増殖炉の可否についても討論されました。しかし、脱カルカーは、チェルノブイリの大事故の7年後にようやく
成し遂げられました。そうこうしているうちに原子力への抗議は国会でも目にするようになりました。1983年
緑の党が始めて連邦議会に仲間入りしました。

ドイツですでに12回の核廃棄物輸送
核廃棄物の処理も討論の中心になっていきました。1995年にゴアレーベンに向けて最初の核燃料輸送が
行われました。それ以来12回、核廃棄物輸送コンテナ縦隊がニーダーザクセン州にある一時保管所へとドイツ
を横断しました。最後の9回は、フランスのラアーグにある再処理施設から来ました。ヴァカースドーフの
ドイツ再処理施設の建設は、80年代に抗議運動によって妨げられました。輸送用カバーに高い放射線量が
検出されたことで知られる1998年のカストールスキャンダルは大騒ぎになりました。アンゲラ・メルケルは、
環境大臣としての最後の年に、なぜ環境省がずいぶん前から高い放射線量について知っていたのかを説明
しなければなりませんでした。

しかし21世紀になるまで、核エネルギーに変わる気候に負担のない代替エネルギー、そしてチェルノブイリの
ような大事故はかつてのソビエト連邦以外でも起こりうるという確信がありませんでした。実際は、ドイツの発電所
でもいつも故障がしょっちゅう起きていました。2001年にはブルンスビュッテルで、小さな水素爆発が原子炉
から配管を剥ぎ取ったり、1987年にはビブリスで、うっかりして閉め忘れたバルブから放射性の冷却材が漏れ
出てしまいました。世界の歴史上3番目の、今回はハイテクの国日本で起きた原子炉の大事故で、ようやく
ドイツ人の大多数が、そんなに小さくもないだろう、核エネルギーの残りの危険性にもう耐える準備はないという
結論に至りました。フクシマの大事故が遂にドイツに激変をもたらし、アインシュタインの言葉にすら疑問を
投げかけています。「先入観に基づく考えを粉々に打ち砕くことは、原子を分裂させることより難しい」とかつて
彼はそう言ったそうです。
最近、ドイツの新聞や雑誌記事を翻訳してブログに載せることが多くなりました。訳が稚拙で
読みづらいのに、コメントをくださる皆さん、ありがとうございます。日本のことがドイツでどの
ように報道されているか知ることは、私にとって重要です。そしてなによりもじっくりと読むこと
は自分のドイツ語力の向上につながります。それを自分の記録としてブログに載せているだけで、
決して「いい気になっている」つもりはありません。もしそう思う方がいたとしたら、読まないで
ください(ケチはつけるくせにパクる人がいたらそれはもってのほかです)。もし訳が間違っている
箇所があれば、どうかご指摘ください。

これは6月16日にZDF(第二ドイツテレビ)のHPに掲載された記事です。著者は極東が専門
の記者で、2000年から2006年までZDF東京特派員だったそうです。余談ですがZDFと
いえば、その昔「小さなバイキングビッケ」や「みつばちマーヤ」などのアニメを日本に委託して
作らせたテレビ局です。
出典: Weiter so - trotz Kernschmelze von Gert Anhalt, ZDF heute

今まで通り − メルトダウンにも関わらず
明らかに日本は原子力の大災害から何も学んでいない

フクシマの原発事故は世界を変えました。ドイツでは脱原発に拍車がかかりました。しかし日本人自身は何をして
いるのでしょう。彼らは今まで通りです。

「私たちが知っている日本はもう終わりだ」今から三ヶ月前に私は新聞で公表しました。しかしこの主張はどう
やら少し軽率だったようです。こういう大事故が一つ起きれば、その国や社会は永久に変わる、私はそう思って
いました。今後、日本人は原子力で発電した電力に依存することは止める。そして前代未聞の政府の官僚
主義と大企業の癒着も。海岸沿いの役に立たないコンクリートの壁に何億円もの税金をつぎ込むことも。日本は
肩を寄せ合い、新しい連帯と新しい力を見つける。メディアはとうとう反抗を始める、批判的な市民が出現する。
そう私は思っていました。

日常に戻る
しかし津波とメルトダウンから三ヶ月後、日本は次第にほぼ今までと同じ場所に落ち着きつつあります。脱原発
について検討されることはなく、メディアは飼い慣らされたまま。電力会社はぞんないな仕事をし、スキャンダル
をもみ消し、政治家は責任を互いになすりつけあっています。日常が戻り、すべて元通りです。ただ、東北地方
の呑み込まれた海岸の町々、そして経済の賃貸対照表への打撃、そして放射能に汚染された原子力発電所の
廃墟つきではありますが。

核の危険はまだ克服されていませんが、条件付でこう言わざるをえません。私たちが知っている日本はまだ
終わりではありません。そしてこう考えます。数回も原発の大事故を経験したばかりなのに、日本人にはドイツ
人よりほんの少し多い恐怖すら襲わないものなのかと。

日本の美徳
しかし日本は、何回ものメルトダウンに直面しても無邪気で、災難は日本人最大の美徳を試すものであると、
そして彼らの大きな理想、つまり恐らくは克服できない困難に直面しても頑張り抜くこと、苦難を辛抱すること、
そして前に進むことを、宣言すると決めています。

「頑張れ、日本!」そこら中で聞いたり読んだりする呼びかけです。負けるな、日本!再建し、節電しよう。
そうすればすぐまた元に戻れる。どうやら運命に従順で文句も言わず、多くの人が新しい現実と折り合い
をつけているようです。彼ら独自の忍耐力と、時として不気味な選択的感知能力が、マイクロシーベルトと
ベクレルの恐怖を日本人から明らかにフェードアウトさせています。

犠牲者との連帯は弱く
もっとも福島の住民、特に原子力発電所の周辺地域の住民にとっては、それは簡単なことではありません。
彼らは、彼らが受けた損害のことを他の人が気の毒に思うと同時に、自分とはあまりにも関係ないことにほっと
している、ということを経験しなければなりません。不幸、苦しみ、損害賠償請求権が、調和と均衡が考慮された
自治体を手痛く乱します。いつか、もう彼らの苦情が聞こえなくなれば人は安心するでしょう。観光客は福島の
山や湖、ハイキングコースを避けるでしょう。消費者は農産物を避けるでしょう。そしていつか、彼らはすっかり
忘れられるでしょう。

広島と長崎の被爆者のように、連帯の代わりに逃避反応が起こります。誰も感染したくないからです。55年
経ってもまだその苦しみが認知されるために闘わなくてはならず、むなしく補償金を待っている水俣の多くの
水銀中毒患者のように。残念ながら、官庁の強情さ、信じられないほど傲慢な公害企業、そして市民たちの
関心が続く期間があまりにも短すぎるということも、日本の実態です。

それで全部かい、日本?
人類史上最も大きな環境災害の一つが、実際そんな簡単に耐えられるものでしょうか?「メルトダウンで誰も
死んではいない」をモットーに、日本のように人口密度が高い島国に立ち入り禁止地域が設けられ、その外側
ではすべてが今まで通りに行くのでしょうか?それで本当にすべてなのでしょうか?そのことが私を心配させて
いる問いなのです。私はその問いをネット上に載せてみます。もしかしたら誰かその答えを知っているかも
しれないので。
数日前にYahooのニュースのトピックス欄でドイツの遊園地が取り上げられていました。オランダ
との国境近くのカルカーという場所にあるその遊園地は高速増殖炉だったところです。この遊園地に
ついては先日掲載した「原子力帝国」という記事でも触れています。テレビでも取り上げられたそう
なので、6月6日にシュピーゲル誌に載っていた記事を訳してみました。現在建設中の原発はこんな
利用方法もあるのではないでしょうか。
出典:AKW als Freizeitpark - Das Kernkompetenzzentrum, Spiegel Online

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カルカーの高速増殖炉は世界で最新の原子力発電所になるはずでした。それが数十億ユーロのお墓
となってしまいました。その後、一人のオランダ人の農家の息子がやって来て、そこを遊園地に改装
しました。導管、ポンプ、タービンは、メリーゴーランドやゴーカート、飲み屋に変わりました。

「今から原子炉に行きましょう」とその男性は言い、早足で歩き始めました。造花が植えてあるところを過ぎ、
男性用トイレの方向を右に、左には煙草の自動販売機と電動体重計が設置されていました。絨毯は青くて
分厚く、足音は聞こえません。その男性はかばんから鍵を取り出し、茶色い防火扉を開けました。「私が先に
行きます」と彼は言い、入ってからこちらを向いて言いました。「気をつけてください!」

上も下も、右も左も、薄暗い光とむき出しの鉄筋コンクリートで、壁は人間3人分の厚さがありました。「原子炉は
この先まっすぐ行ったところです」と通路の向こう側を指して男性が言いました。どこかで溶接をやっているのか、
焼けたような臭いがしました。

施設の心臓部は鋼鉄でできた巨大な球体で、その薄暗く錆付いた金属には天窓が取り付けられていました。
かつてカルカー高速増殖炉と呼ばれた、世界で最新の原子力発電所になるはずだった複合施設の中心である
その場所には、ドイツ最高技術の栄光の名残はほとんどありません。そこはまるで第二次世界大戦時の貯蔵庫
のように見えました。
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ホテルは完成
50歳のハン・グルート・オビンク氏は、小さくてすばしっこそうなオランダ人です。彼は別の現実の世界に引き
戻します。ドアを開け、閉める、それはまるで2ステップで行う時間旅行のようです。突然スピーカーから流れる
がちゃがちゃした音楽が聞こえ、子供たちが騒ぐ声がして、食べ物の匂いも漂ってきます。「ほんのちょっと壁に
色を塗ってほんのちょっと飾りをつけたら」とオビンク氏は言います。「ホテルは完成さ。」

そんなに簡単だったかというと、当然そうではありません。現在、ヴンダーラント・カルカーと呼ばれている
施設で、15年間働いているマネージャー以上にそのことを知っている人はほとんどいません。それはお手本の
ない産業的変容、本当のところは空想物語でした。少なくともドイツ人は確信していました。原子力発電所を
買って、それを遊園地に造り変えるなんて、オランダ人だけが実現できる空想物語だと。

カルカーの高速増殖炉は一度も発電所として使われたことはなく、何十億ユーロの複合施設という国のシンボル
でした。それは、まずドイツ産業界の能力を、それから若者の反対意思を、最後は馬鹿げた政治的決定を物語
っています。建設費36億ユーロもかけて一度も運転されませんでした。結局、チェルノブイリの後、その
「増殖」炉はその名前とは反対に何年も空っぽのままでした。巨大なコンクリートの城を欲しがる人は誰も
いませんでした。

へニーがやるさ。
同僚で集まって一緒に座っていたんだよ、と従業員のカール-ハインツ・ロットマン氏(57)は語ります。気分が
落ち込み、がっかりした顔をしていたところに、黒いベンツから大きな白髪の男が降りてきました。「こんにちは。
私はヘニーです。私がここを全部買い取ります。」とその男は言いました。ロットマン氏はただこう思ったそう
です。「ほう、それならやってみろ!」と。

そしてヘニーはやりました。オランダの田舎出身の農家の息子でくず鉄商の彼は、産業化時代の永久運動
装置とも考えられていたこの原子力発電所のために数百万マルクを借りました。もし原子炉が使われていたら
核燃料のウランがそれより多いプルトニウムを作り出していたでしょう。それはこう言われていました。永遠で
素晴らしくて、クリーンで、可能な限り安全なエネルギーと。

しかし、ヘニーはむしり取りました。導管、ポンプ、タービン、何十万マルクもの費用がかかった技術はゴミと
化しました。近所に営業所を構えていたエンジニアたちは、彼の破壊的な仕事を嫌悪感いっぱいでじっと
見つめていました。非常時用にいくつもの代替システムを備えておくために、一つの原子力発電所にはこれらの
部品が3つ、あるいは5つもあるので、15年経った今、やっと原子炉の3分の1の改築が終わり、そこで市民が
楽しんでいます。

437室、合計2000席の4つのレストラン、7つの飲み屋、ボーリング、ゴーカート、ジェットコースター、ミニ
ゴルフ、テニス、トランポリン、メリーゴーランド、観覧車そして、ジェニファーやジャクリーネ、ケビン (*1) が
飲食できるたくさんのコーラやソフトクリーム。「料金すべて込み」と、娯楽社会で想定される最大級の暴飲
暴食 (*2)の決まり文句が書かれています。

世界一のフライドポテトスタンド
ここを好きになる必要はありません。多くの人は「世界で一番大きなフライドポテトスタンドが建った」と言います。
南ドイツ新聞は「貧乏人のディズニーランド」と名づけました。でもこのヴンダーラント・カルカーはもっと
意味があるかもしれません。馬鹿騒ぎする若者や年金受給者のための楽園、居酒屋が並ぶ通りやお散歩
ルート、シュラーガー(ドイツの演歌)パーティー、トラクターの綱引き大会など。「なんでも欲しいんです」と
支配人オビンク氏は言います。そして年に60万人の人が来ます。そこには以前は誰も入ってこなかったの
ですから、いわば逆の世界です。彼は軽く笑いました。

ところで、ドイツの脱原発論争はここでは話題になっていますか?

「いやぁ、それはないねぇ」とマネージャーは言いました。

「え、なんだすか?」ゴッホ出身のペータース女史は聞き返しました。「あ、原子力発電所は終わりにするって
話だすね。さぁ、私にはよぐわがりません。(*3)」彼女は続けました。

脱却後の脱却
施設内の博物館には人影はなく、オビンク氏だけが、ヨーロッパの原子力発電所の場所を赤い点で示した展示
版の上を叩いています。フランスは真っ赤に見えます。「見てください。」とマネージャーは言います。「オランダも
今一つ建設中です。」彼はドイツの脱原発を大げさだと思っているのでしょうか?「どっちでもいいです。私はただ
停電すると、困るということしかわかりません。あと電気代が上がれば、それも良くないですな。」

元増殖炉のエネルギー消費は今日すでに莫大です。年間3百万キロワット時と、ガスは55万平方メートルです。
そのため、カルカーでは将来的に発電が行われなければならなくなるでしょう。風力発電と、恐らくバイオガス
施設も建設するでしょう、とオビンク氏は言います。そうなれば、脱原発後のさらなる脱却が実現されるだけで
なく、ドイツの原子力を最終的に打ち負かすことになるでしょう。生まれ故郷とも言うべきその場所で。

*1 : ジェニファーやジャクリーネ、ケビン と言った英語風の名前は、あまり教養の高くない親が好んでつける
   名前とされています。

*2 : 想定される最大級の=größter anzunehmender
   ドイツ語で原子力発電所の事故のことを GAU = größter anzunehmender Unfall と言います。
   ガウと発音し、想定される最大級の事故の意味。チェルノブイリやフクシマは Super GAU。

*3 : オランダ人なのでドイツ語に訛りがありますw。

写真はWunderland KalkarのHPよりお借りしました。
オランダ語の名前の読み方がわからなかったので、ドイツ語読みのカタカナ表記にしてあります。

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